思い思いお暮らしになっていました。そんなわけで、天皇はついにある日、淡路島《あわじしま》を見に行くとおっしゃって皇后のお手前をおつくろいになり、いったんその島へいらしったうえ、そこから、黒媛《くろひめ》をたずねて、こっそり吉備《きび》まで、おくだりになりました。
黒媛《くろひめ》は天皇を山方《やまかた》というところへおつれ申しました。そして、召《め》し上がり物にあつものをこしらえてさしあげようと思いまして、あおなをつみに出ました。すると天皇もいっしょに出てご覧になり、たいそうお興《きょう》深くおぼしめして、そのお心持をお歌にお歌いになりました。
天皇がいよいよお立ちになるときには、黒媛《くろひめ》もお別れの歌を歌いました。媛《ひめ》は天皇がわざわざそんなになすって、隠《かく》れ隠れてまでおたずねくだすったもったいなさを、一生お忘《わす》れ申すことができませんでした。
三
皇后はその後、ある宴会《えんかい》をおもよおしになるについて、そのお酒をおつぎになる御綱柏《みつながしわ》というかしわの葉をとりに、わざわざ紀伊国《きいのくに》までお出かけになったことがありました。
そのおるすの間、天皇のおそばには八田若郎女《やたのわかいらつめ》という女官《じょかん》がお仕え申しておりました。
皇后はまもなく御綱柏《みつながしわ》の葉をお船につんで、難波《なにわ》へ向かって帰っていらっしゃいました。そのお途中で、お供の中のある女たちの乗っている船が、皇后のお船におくれて行き行きするうちに、難波《なにわ》の大渡《おおわたり》という海まで来ますと、向こうから一そうの船が来かかりました。その中には、高津《たかつ》のお宮のお飲み水を取る役所で働いていた、吉備《きび》の生まれの、ある身分《みぶん》の低い仕丁《よぼろ》で、おいとまをいただいておうちへ帰るのが、乗り合わせておりました。その者が船のすれちがいに、
「天皇さまは、このごろ八田若郎女《やたのわかいらつめ》がすっかりお気に入りで、それはそれはたいそうごちょう愛になっているよ」としゃべって行きました。それを聞いた女どもはわざわざ大急ぎで皇后のお船に追いついて、そのことを皇后のお耳に入れました。
そうすると、例のご気性《きしょう》の皇后は、たちまちじりじりなすって、せっかくそこまで持っておかえりになった御綱柏《みつながしわ》の葉を、すっかり海へ投げすてておしまいになりました。それからまもなく船はこちらへ帰りつきましたが、皇后は若郎女《わかいらつめ》のことをお考えになればなるほどおくやしくて、そのお腹立《はらだ》ちまぎれに、港へおつけにならないで、ずんずん船を堀江《ほりえ》へお入れになり、そこから淀川《よどがわ》をのぼって山城《やましろ》まで行っておしまいになりました。
その時皇后は、
「私はあんまりにくらしくてたまらないので、こんなにあてもなく山城《やましろ》の川をのぼって来たものの、思えばやっぱり天皇のおそばがなつかしい。今この目の前の川べりには、鳥葉樹《さしぶのき》がはえている。その木の下には、茂《しげ》った、広葉《ひろは》のつばきがてかてかとまっかに咲《さ》いている。ああ、あの花のように輝《かがや》きに充《み》ち、あの広葉のようにお心広く、おやさしくいらっしゃる天皇を、どうして私はおしたわしく思わないでいられよう」とこういう意味のお歌をお歌いになりました。
しかしそれかといってこのまま急にお宮へお帰りになるのも少しいまいましくおぼしめすので、とうとう船からおあがりになって、大和《やまと》の方へおまわりになりました。
そのときにも皇后は、
「私《わたし》はとうとう山城川《やましろがわ》をのぼり、奈良《なら》や小楯《おだて》をも通りすぎて、こんなにあちこちさまよってはいるけれど、それもどこをひとつ見たいのでもない。見たいのは高津《たかつ》のお宮よりほかにはなんにもない」という意味をお歌いになりました。
それからまた山城《やましろ》へひきかえして、筒木《つつき》というところへおいでになり、そこに住まっている朝鮮《ちょうせん》の帰化人《きかじん》の奴里能美《ぬりのみ》という者のおうちへおとどまりになりました。
天皇はすべてのことをお聞きになりますと、鳥山《とりやま》という舎人《とねり》に向かって、
「おまえ早く行って会ってこい」という意味をお歌でおっしゃって、皇后のところへおつかわしになりました。そのつぎには、丸邇臣口子《わにのおみくちこ》という者をお召《め》しになって、
「皇后はあんなにいつまでもすねて、お宮へもかえって来ないけれど、しかし心の中ではわしのことを思っているに相違《そうい》ない。二人の間であるものを、そんなに意地《いじ》を張らないでもよいであろうに
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