うすると、ふいに大きなひょうがどッと降りだしました。命《みこと》はそのひょうにお襲《おそ》われになるといっしょに、ふらふらとお目まいがして、ちょうどものにお酔《よ》いになったように、お気分が遠くおなりになりました。
 それというのは、さきほどの白いいのししは、山の神の召使ではなくて、山の神自身が化けて出たのでした。それを命があんなにけいべつして広言《こうげん》をお吐《は》きになったので、山の神はひどく怒《おこ》って、たちまち毒気《どくき》を含《ふく》んだひょうを降らして、命をおいじめ申したのでした。
 命は、ほとんどとほうにくれておしまいになりましたが、ともかく、ようやくのことで山をおくだりになって、玉倉部《たまくらべ》というところにわき出ている清水《しみず》のそばでご休息をなさいました。そして、そのときはじめて、いくらかご気分がたしかにおなりになりました。しかし命はとうとうその毒気のために、すっかりおからだをこわしておしまいになりました。
 やがて、そこをお立ちになって、美濃《みの》の当芸野《たぎの》という野中までおいでになりますと、
「ああ、おれは、いつもは空でも飛んで行けそうに思っていたのに、今はもう歩くこともできなくなった。足はちょうど船のかじのように曲がってしまった」とおっしゃって、お嘆《なげ》きになりました。そしてそのまままた少しお歩きになりましたが、まもなくひどく疲《つか》れておしまいになったので、とうとうつえにすがって一足《ひとあし》一足《ひとあし》お進みになりました。
 そんなにして、やっと伊勢《いせ》の尾津《おつ》の崎《さき》という海ばたの、一本まつのところまでおかえりになりますと、この前お行きがけのときに、そのまつの下でお食事をお取りになって、つい置《お》き忘《わす》れていらしった太刀《たち》が、そのままなくならないで、ちゃんと残っておりました。
 命《みこと》は、
「おお一つまつよ、よくわしのこの太刀《たち》の番をしていてくれた。おまえが人間であったら、ほうびに太刀をさげてやり、着物を着せてやるのだけれど」と、こういう意味の歌を歌ってお喜びになりました。それからなおお歩きになって、ある村までいらっしゃいました。
 命は、そのとき、
「わしの足はこんなに三重《みえ》に曲がってしまった。どうもひどく疲《つか》れて歩けない」とおっしゃいました。しかしそれでも無理にお歩きになって、能褒野《のぼの》という野へお着きになりました。
 命は、その野の中でつくづくと、おうちのことをお思いになり、

  あの青山《あおやま》にとりかこまれた、
  美しい大和《やまと》が恋しい。
  しかし、ああ私《わたし》は、
  その恋しい土地へも、
  帰りつくことはできない。
  命《いのち》あるものは、
  これからがいせんして、
  あの平群《へぐり》の山の、
  くまがしの葉を、
  髪《かみ》に飾《かざ》って祝い楽しめよ。

という意味をお歌いになり、

  はしけやし、
  わぎへの方《かた》よ、
  雲いたち来《く》も。
   (おおなつかしや、
    わが家《や》のある、
    はるかな大和《やまと》の方から、
    雲が出て来るよ。)

と、お歌いになりました。
 そして、それといっしょにご病勢《びょうせい》もどっとご危篤《きとく》になってきました。
 命《みこと》は、ついに、

  おとめの、
  床《とこ》のべに、
  わがおきし、
  剣《つるき》の太刀《たち》。
  その太刀はや。

と、あの美夜受媛《みやずひめ》のおうちにおいていらしった宝剣《ほうけん》も、とうとう再《ふたた》び手にとることもできないかとお歌いになり、そのお歌の終わるのとともに、この世をお去りになりました。
 早うまのお使いは、このことを天皇に申しあげにかけつけました。
 大和《やまと》からは、命のお妃《きさき》やお子さまたちが、びっくりしてくだっておいでになりました。そして、命のご陵《りょう》をお作りになって、そのぐるりの田の中に伏《ふ》しまろんで、おんおんおんおんと泣いていらっしゃいました。
 するとおなくなりになった命は、大きな白い鳥になって、お墓の中からお出ましになり、空へ高くかけのぼって、浜辺《はまべ》の方へ向かって飛んでおいでになりました。
 お妃《きさき》やお子さまたちは、それをご覧《らん》になると、すぐに泣き泣きそのあとを追いしたって、ささの切り株《かぶ》にお足を傷つけて血だらけにおなりになっても、痛《いた》さを忘《わす》れて、いっしょうけんめいにかけておいでになりました。
 そしてしまいには、海の中にまではいって、ざぶざぶと追っかけていらっしゃいました。
 白い鳥はその人々をあとにおいて、海の中のいそからいそにと伝
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