えすこともできなくなってしまいました。
 そのとき命がおつれになっていたお召使《めしつかい》の弟橘媛《おとたちばなひめ》は、
「これはきっと海の神のたたりに相違ございません。私があなたのお身代わりになりまして、海の神をなだめましょう。あなたはどうぞ天皇のお言いつけをおしとげくださいまして、めでたくあちらへおかえりくださいまし」と言いながら、すげの畳《たたみ》を八|枚《まい》、皮畳《かわだたみ》を六枚に、絹畳《きぬだたみ》を八枚|重《かさ》ねて、波の上に投げおろさせるやいなや、身をひるがえして、その上へ飛びおりました。
 大波《おおなみ》は見るまに、たちまち媛《ひめ》を巻《ま》きこんでしまいました。するとそれといっしょに、今まで荒れ狂っていた海が、ふいにぱったりと静まって、急に穏《おだや》かななぎになってきました。
 命はそのおかげでようやく船を進めて、上総《かずさ》の岸へ無事にお着きになることができました。
 それから七日目に、橘媛《たちばなひめ》のくしがこちらの浜へうちあげられました。命はそのくしを拾わせて、あわれな媛《ひめ》のためにお墓をお作らせになりました。
 橘媛《たちばなひめ》が生前に歌った歌に、

  さねさし、
  さがむの小野《おの》に、
  もゆる火の、
  火中《ほなか》に立ちて、
  問いしきみはも。

 これは、相模《さがみ》の野原で火攻めにお会いになったときに、その燃える火の中にお立ちになっていた、あの危急なときにも、命《みこと》は私のことをご心配くだすって、いろいろに慰《なぐさ》め問うてくだすった、ほんとに、お情け深い方よと、そのもったいないお心持を忘《わす》れない印《しるし》に歌ったのでした。
 命はそこから、なおどんどんお進みになって、いたるところで手におえない悪者どもをご平定《へいてい》になり、山や川の荒《あら》くれ神をもお従えになりました。
 それでいよいよ、再《ふたた》び大和《やまと》へおかえりになることになりました。
 そのお途中で、足柄山《あしがらやま》の坂の下で、お食事をなすっておいでになりますと、その坂の神が、白いしかに姿をかえて現われて、命を見つめてつっ立っておりました。
 命《みこと》は、それをご覧《らん》になると、お食べ残しのにらの切《きれ》はしをお取りになって、そのしかをめがけてお投げつけになりました。すると、それがちょうど目にあたって、しかはばたりと倒《たお》れてしまいました。
 命はそれから坂の頂上へおあがりになり、そこから東の海をおながめになって、あの哀《あわ》れな橘媛《たちばなひめ》のことを、つくづくとお思いかえしになりながら、
「あずまはや」(ああ、わが女よ)とお嘆《なげ》きになりました。それ以来そのあたりの国々をあずま[#「あずま」に傍点]と呼《よ》ぶようになりました。

       四

 命は、そこから甲斐《かい》の国へお越《こ》えになりました。そして酒折宮《さかおりのみや》という御殿《ごてん》におとまりになったときに、

  にいばり、つくばを過ぎて、
  いく夜《よ》か寝《ね》つる。

とお歌いになりますと、あかりのたき火についていた一人の老人が、すぐにそのおあとを受けて、

  かかなべて、
  夜《よ》には九夜《ここのよ》、
  日には十日《とおか》を。

と歌いました。それは、
「蝦夷《えびす》どもをたいらげながら、常陸《ひたち》の新治《にいばり》や筑波《つくば》を通りすぎて、ここまで来るのに、いく夜寝たであろう」とおっしゃるのに対して、
「かぞえて見ますと、九夜《ここのよ》寝て十日目《とおかめ》を迎えましたのでございます」という意味でした。
 命はその答えの歌をおほめになって、そのごほうびに、老人を東国造《あずまのくにのみやつこ》という役におつけになりました。
 それから信濃《しなの》へおはいりになり、そこの国境《くにざかい》の地の神を討《う》ち従えて、ひとまずもとの尾張《おわり》までお帰りになりました。
 命はお行きがけにお約束をなすったとおり、美夜受媛《みやずひめ》のおうちへおとまりになりました。そして草薙《くさなぎ》の宝剣《ほうけん》を媛《ひめ》におあずけになって近江《おうみ》の伊吹山《いぶきやま》の、山の神を征伐《せいばつ》においでになりました。
 命はこの山の神ぐらいは、す手でも殺すとおっしゃって、どんどんのぼっておいでになりました。すると途中で、うしほどもあるような、大きな白いいのししが現われました。命は、
「このいのししに化《ば》けて出たのは、まさか山の神ではあるまい。神の召使《めしつかい》の者であろう。こんなやつは今殺さなくとも、かえりにしとめてやればたくさんである」とおいばりになって、そのままのぼっておいでになりました。
 そ
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