り、みんなでにぎやかにお酒盛《さかもり》をなさいました。
采女《うねめ》は罪を許されたばかりでなく、そのうえに、さまざまのおくだし物をいただいて、大喜びに喜びました。
天皇はしまいに、おん年百二十四歳でおかくれになりました。
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うし飼《かい》、うま飼《かい》
一
雄略天皇《ゆうりゃくてんのう》のおあとには、お子さまの清寧天皇《せいねいてんのう》がお立ちになりました。天皇はしまいまで皇后をお迎えにならず、お子さまもお一人もいらっしゃいませんでした。
ですから天皇がおかくれになると、おあとをお継《つ》ぎになるお方がいらっしゃらないので、みんなはたいそう当惑《とうわく》して、これまでのどの天皇かのお血筋《ちすじ》の方をいっしょうけんめいにお探《さが》し申しました。すると、さきに大長谷皇子《おおはつせのおうじ》にお殺されになった、忍歯王《おしはのみこ》のお妹さまで忍海郎女《おしぬみのいらつめ》、またのお名まえを飯豊王《いいとよのみこ》とおっしゃる方が、大和《やまと》の葛城《かつらぎ》の角刺宮《つのさしのみや》というお宮においでになりました。それで、このお方にともかく一|時《じ》政《まつりごと》をおとりになっていただきました。みんなは、例の忍歯王《おしはのみこ》のお子さまの意富祁《おおけ》、袁祁《おけ》のお二人が、播磨《はりま》の国でうし飼《かい》、うま飼《かい》になって、生きながらえておいでになるということはちっとも知らないでいました。
その後まもなく、その播磨《はりま》の国へ、山部連小楯《やまべのむらじおだて》という人が国造《くにのみやつこ》になって行きました。するとその地方の志自牟《しじむ》という者が新築《しんちく》したおうちでお酒盛《さかもり》をしました。そのとき小楯《おだて》をはじめ、よばれた人たちも、お酒がまわるにつれて、みんなで代わる代わる立って舞《まい》を舞いました。しまいにはかまどのそばで火をたいていたきょうだい二人の火たきの子供にも舞えと言いました。
すると弟のほうの子は、兄の子に向かって、おまえさきにお舞いと言いました。兄は弟に向かって、おまえから舞えと言いました。みんなは、そんないやしい小やっこどもが、人なみに、もっともらしくゆずり合うのをおもしろがって、やんやと笑《わら》いました。
そのうちに、とうとう
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