《ひじ》につける革具《かわぐ》のとおりの形をしたお盛肉《もりにく》が、お腕《うで》に盛りあがっておりました。皇后はこれをお名まえにお取りになって、大鞆命《おおとものみこと》とお名づけになりました。すなわち後にお呼《よ》び申す応神天皇《おうじんてんのう》さまです。その鞆《とも》のお肉のことをうけたまわったものたちは、天皇がお母上のお腹《なか》のうちから、すでに天下をお治めになっていたということは、これでもわかると言って、みんな畏《おそ》れ入りました。
また、皇后はご出征のまえに、肥前《ひぜん》の玉島《たましま》というところにおいでになって、そこの川のほとりでお食事をなさったことがありました。
それがちょうど四月で、あゆが取れるころでした。皇后はためしにその川中の石の上にお下りになって、お下袴《したばかま》の糸をぬいて釣糸《つりいと》になされ、お食事のおあとのご飯《はん》粒《つぶ》を餌《えさ》にして、ただでも決して釣《つ》ることができないあゆをちゃんとおつり上げになりました。
ですからこの地方では、その後いつも四月のはじめになりますと、女たちがみんな下袴《したばかま》の糸をぬいて、飯粒《めしつぶ》を餌にしてあゆを釣り、ながく皇后のお徳をかたりつたえる印《しるし》にしておりました。
三
おん母上の皇后は、ついで熊襲《くまそ》をも難なくご平定になって、いよいよ大和《やまと》におかえりになることになりました。
しかし、大和には、香坂王《かごさかのみこ》、忍熊王《おしくまのみこ》とおっしゃる、お二人のお腹《はら》ちがいの皇子などがおいでになるので、うっかりしていると、天皇がお小さいのにつけ入ってどんな悪い事をお企《たくら》みになるかわからないとお気づかいになりました。
それで皇后は、ちゃんとお策略《さくりゃく》をお立てになって、喪船《もふね》を一そうお仕立てになり、お小さな天皇をその中へお乗せになりました。
そして天皇はもはやとくにお亡《な》くなりになったとお言いふらしになり、そのお空骸《なきがら》を奉じておかえりになるていにして、筑紫《つくし》をお立ちになりました。
こちらは香坂《かごさか》、忍熊《おしくま》の二皇子は、それをお聞きになりますと、案のとおり、ご自分たちがあとを取ろうとおかかりになりました。それでまず第一番に皇后の軍勢を待ちうけ
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