轟々と真つ黒い正面をとどろかして押し登つた時にも、それを見たこの子はそれこそひとりで大喜びであつた。その夕方、名古屋の親戚の家の玄関に立つた時にも、別に鼻白みもしなかつた。彼が生れた日にだけしか彼を見なかつたその伯母さんが。
「ほう、おまへが降坊。まあ大きくなりましたね、おお、よく似てゐるわね、うちの子に。ほほほ。」
 よくまあお父さんについて来られましたね、と驚いて、その式台で微笑された時にも、この子はうん[#「うん」に傍点]とだけ言つて笑つた。そうして自分で靴をぬぐとすぐに飛び込んで行つた。生みの母に初めて離れて遠い旅に出るこの子の母はよく言つてきかした。「ね、坊や、自分のことはみんな自分でするのですよ。」
 だから、その晩にも、彼はひとりで必死になつて上衣を脱いだり、パンツや、シャツの釦をはづしたり、寝衣に著更へたり、帯を結んだり、寝床にころがつたり、眠つたりした。
 その翌朝の今日のことである。柳橋駅から犬山橋までの電車の沿線には桑が肥え、梨が実り、青い水田のところどころにはほのかな紅い蓮の花が、「朝」の「八月」の香ひを爽やかな空気と日光との中に漂はしてゐた、さうしたすがすがし
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