館の天狗何々と赤い看板を出したそのドアの前にかかつたが、窓の硝子もことごとくしめきつて「当分休業中」とあつた。真夏でもここまでの遊覧客はさして見えないらしい。ライン遊園地もまだ完成しないで、自然の雑木原に近い。窪地にスケート・リンクなどがあるくらゐだから沍寒《ごかん》はきびしいのであらう。崖の縁へ出ると漸く休憩所の一つを見出した。人の気配もせぬので、のぞいて見ると隅つこの青く透いたサイダー罎の棚の前に、鱗光の河魚の精のやうな爺が一人、しよんぼりと坐つてゐた。ぼうと立つのは水気である。
翠嶂山と呼ぶこのあたり、何かわびしい岩礁と白砂との間に高瀬舟の幾つかが水に揺れ、波に漂つて、舷々相摩するところ、誰がつけたかその名も香木峡といふ。左に碧くそそり立つのが碧巌峰である。
そこで屋形の舟のひとつを私は小手招く。そこここの薄墨の、また朱のこもつた上の空の、霧は、煙雨はいよいよ薄れて、この時、雲の断れ間から、怪しい黄色の光線が放射し出した。これからまたひとしきり凪になつて蒸し暑く蒸し暑くなるのである。
「ぢやあ、ここでお別れします。私は土田へ出てこの山の裏手を廻つて帰りますが、どちらが早いかひ
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