曇となつた。四方の雨も霧と微々たる雫とはしきりに私の旅情をそそつた。宿酔の疲れも湿つて来た。
 この六日は下の河原で年に一度の花火の大会がある筈であつた。名古屋の甥たちや隆太郎にも見に来るやうに通知はしたが、それもどうやら怪しくなつて来る。果然雨天順延となつて私の旅行日程にもまた一日の狂ひが生じて来た。で、無聊に苦しむよりは雨の日本ラインの情趣でも探勝しようかとなつた訳である。
 自動車は駛る。
 と、気がつくといつのまにか北へ向つたのが南へ駛りつつあつた。や、例の樺と白との別荘だなと思ふと、中仙道は川添ひの松原と桃林との間を驀進しつつある。
 新赤壁の裾を幾折れして、岩屋観音にかかる。漢画風の山水である。トンネルがあり、橋がある。路はやや沿岸を離れて桑畑と雌松の林間に入る。農家がある。鳳仙花や百日草が咲き、村の子が遊び、鶏がけけつこつこつこつである。高原の感じである。
 秋、秋、秋、秋、
 太田の宿にはひる。右に折れて鉄橋を渡れば、対岸の今渡《いまわたり》から土田《どた》へ行けるのだが、それがライン遊園地への最も近い順路であるのだが、私は真つ直にぐんぐん駛らせる。なるべく上流へ出て迂回しようと思つたのである。
 ストップ! 古井《こび》の白い鉄橋の上で、私は驚いて自動車を飛び降りた。その相迫つた峡谷の翠の深さ、水の碧くて豊かさ。何とまた欝蒼として幽邃な下手の一つ小島の風致であらう。煙霧は模糊として、島の向うの合流点の明るく広い水面を去来し、濡れに濡れた高瀬舟は墨絵の中の蓑と笠との舟人に操られて滑つて行く。
 私たちがその青柳橋の上に立つてゐると、何が珍しいのかぞろぞろと年寄や子供たちが周囲にたかつて来た。この川はと聞くと飛騨川と誰かが答へた。高山の上の水源地から流れて来てこの古井《こび》で初めて木曾川に入るのだとまた一人が傍から教へてくれた。ぢやあ、あの広いのが木曾川だなと思へてきた。
「あの島にお堂が見えますが、あれは何様ですね。」
「小山観音。」
「縁日でもありますか。」
「ちやうど七月九日が御開帳でして、へえ、毎年です。」
「店も出ませうね。」
「ええ、河原は見世屋でそれはもういつぱいになりますで。」
 水に映つて、それは閑雅な灯のちらちらであらうと思へた。この支流である飛騨川の峡谷はまた本流の蘇川峡との別趣の気韻をもつて私に迫つた。上手の眺めにもうち禿げた岩石層は少く、すべてが微光をひそめた巒色の丘陵であつた。深沈としたその碧潭。
 私たちはまた車上の人となる。藍鼠と燻銀との曇天、丘と桑畑、台が高いので、川の所在は右手にそれぞと思ふばかりで、対岸の峰々や、北国風の人家を透かし透かし、どこまでもどこまでも自動車は躍つてゆく。土の香がする。草のかをりがする。雨と空気と新鮮な嵐と、山蔭は咽ぶばかりの松脂のにほひである。駛る、駛る、新世界の大きな昆虫。
「見えた。あの鉄橋からまはりますか。」
「よし。」
 そこでハンドルを右へきゆつと廻す。囂々とその釣橋を渡つてまた右折する。兼山の宿である。と、風光はすばらしく一変する。爽快々々、今来た峡谷の上の高台が向うになる。薄黄の傾斜面と緑の平面、平面、平面、鉾杉の層、竹藪、人家、思ひきり濃く、また淡く霞む畳峰連山、雨の木曾川はその此方の田や畑や樹林や板屋根の間から、突として開けたり隠れたりする。岩礁が見える。舟が見える。あ、檜だ、瓦だ、絵看板だ。
 遙にまた煙突、煙突、煙突である。あの黒い煙はと聞くと、あれは太田だといふ。よくも上まで来たものだと思ふ。いや、かれこれ二時間は走つてゐますと運転手が笑ふ。かうして兼山から伏見、伏見から広見、今渡とかつ飛ばすのである。
 土田は名鉄の犬山口から分岐する今渡線の終点に近い。ちらとその駅をのぞいて、また右へ、ライン遊園地へ向けて、またまた驀進々々々々である。行けるところまで行つて、危ふく何かにぶつかりさうにして留ると、奇橋がある。「土田《どた》の刎橋《はねばし》」である。この小峡谷は常に霧が湧き易くて、罩めると上も下も深く姿を隠すといふ。重畳した岩のぬめりを水は湍《たぎ》ち、碧く澄んで流れて、謂ふところの鷺の瀬となる。
 橋の袂で敷島を買つて、遊園地の方へほつりほつりと私たちは歩いてゆく。雨はあがりかけて日の光は微かに道端の早稲の穂に射しかけて来る。七夕の紅や黄や紫の色紙がしつとりと濡れにじんで、その穂や桑の葉にこびりついてゐる。死んだ螢のにはひか何かが咽んで来る。開けつぱなしの小舎がある。蚕糞や繭のにほひがする。莚が雑然と積んである。表に「自転車無料であづかります」と貼札してある。この道七八丁。
 安壮なる北陽館の前に出る。二階の渡り廊下の下の道路を裏へ抜けると、ここに驚くべき大洞可児合の壮観が眼下に大渦巻を巻き騰《あ》げる。断崖百尺の上の、
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