日本ライン
北原白秋

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)榜《こ》ぐ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)相|間《まじ》はり

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]る
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    1

 舟は遡る。この高瀬舟の船尾には赤の枠に黒で彩雲閣と奔放に染め出したフラフが翻つてゐる。前に棹さすのが一人、後に櫓を榜《こ》ぐのが一人、客は私と案内役の名鉄のM君である。私は今日初めて明るい紫紺に金釦の上衣を引つかけてみた。藍鼠の大柄のスボンの、このゴルフの服は些か華美過ぎて市中は歩かれなかつた。だが、この鮮麗な大河の風色と熾烈な日光の中では決して不調和ではない。私は南国の大きい水禽のやうに碧流を遡るのだ。
 爽快である。それに泡だつコップのビール、枝豆の緑、はためく白いテントの反射光だ。
 五日の午後一時、昨日すさまじい濁流はいくらか青みを冴え立たして来たが、一旦激増した水量はなかなかひきさうに見えない。だが、裸の子供が飛び込む飛び込む。燦々たる岩の群とごろた石との河原だ。その両岸のいきるるいきるる雑草の花だ。
 泳げよ泳げ。
 左は楊と稚《わか》松と雑木の緑と鬱とした青とで野趣そのままであるが、遊園地側の白い道路は直立した細い赤松の竝木が続いて、一二の氷店や西洋料理亭の煩雑な色彩が畸形な三角の旅館と白い大鉄橋風景の右袂に仕切られる。鉄橋を潜ると、左が石頭山、俗に城山である。その洞門のうがたれつつある巌壁の前には黄の菰莚《むしろ》、バラック、鶴嘴、印半纒、小舟が一二艘、爆音、爆音、爆音である。
 と、それから、人造石の樺と白との迫持《せりもち》や角柱ばかし目だつた、俗悪な無用の贅を凝らした大洋館があたりの均斉を突如として破つて見えて来る。
「や、あれはなんです。」
「京都のモスリン会社の別荘で。」とM君が枝豆をつかむ。
「悪趣味だな。」
 だが、ここまでである。それより上は全くの神斧鬼鑿の蘇川峡となるのだ。彩雲閣から僅に五六丁足らずで、早くも人寰を離れ、俗塵の濁りを留めないところ、峻峭相連らなつて少からず目を聳たしめる。いはゆる日本ラインの特色はここにある。
 日は光り、屋形の、三角帆の、赤の、青のフラフの遊覧船が三々五々と私たちの前を行くのだ。
 遡流は氷室山の麓を赤松の林と断崖のほそぼそした嶮道に沿つて右へ右へと寄るのが法とみえる。「これが犬帰《いぬかへり》でなも。」と後から赤銅の声がする。
 烏帽子岩、風戻、大梯子、そこでこの犬帰の石門、遮陽石といふのださうな。
「ほれ、あの屋根が鳥瞰図を描くYさんのお宅ですよ。」
 幽邃な繁りである。蝉、蝉、蝉。つくつくほうし。
「この高い山は。」
「継鹿尾山《つがのをやま》、寂光院といふ寺があります。不老の滝といふのもありますが下つて御覧になりますか。」
「いや、ぐんぐんのぼらう。」
 風が涼しい。潭は澄み、碧流は渦巻く。紫紺の水禽は遡る、遡る。
「あれが不老閣。」
「閑静だなも。」
 と、これより先き、中流に中岩といふのがあつた。振り返ると、いつになく左後ろ斜めに岩と岩と白い飛沫をあげてゐる。
 それから千尺の翠巒と断崖は浣華渓となるのである。

 波、波、波、波、波
  波、波、波、波、波、
 波、波、波、波、波、波、
  波、波、波、波、
 波、波、波、波、波、波、

「爽快々々。」
「富士ヶ瀬です。」
 すばらしい飛沫、飛沫、飛沫。奔流しつつ、飛躍しつつ、擾乱しつつだ。
 一面淙々たり。
「や。」
「赤岩です。」とM君。
 まさしく瑠璃の、群青の深潭を擁して、赤褐色の奇巌の群々がくわつと反射したところで、しんしんと沁み入る蝉の声がする。
 稚い雌松の林があり、こんもりした孟宗藪がある。藪の外にはほのぼのとした薄くれなゐの木の花も咲いてゐる。
「あれは何の花だね。」
「漆の花だなも。」で、巧に棹を操る舳の船頭である。白の饅頭笠に墨色鮮かに秀山霊水と書いてある。
 そのあたりが栗栖の里。
 と、書き落したが、その漆の花が眼に入るまでには石床の大きなでこでこの二つの岩、お富与曾松の岩といふのがあつた。恋は悲しい、遂に添はれぬ身の果を歎いて、お富もまた離ればなれに上の手の岩から身を躍らしたと俚俗にいふ。
「これがローレライで。」
 ローレライはちと苦笑される。
 新赤壁は左にあつた。その前を昔の中仙道が通つて、ひとつ※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]ると岩屋観音がある。白い汚れた幟が見える。
 ここで再び蕭々たる急湍にかかる。観音の瀬である。
「まだひどい水で。」と前のがのめる。
 やつとのことで、その
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