瀬をのぼり切ると、いよいよ河幅は狭くなる。いよいよ差し迫つた奇岩怪石の層々々、荒削りの絶壁がまたこれらに脈々と連り聳えて、見る眼も凄い急流となる。惜しいことには水が嵩く、岩は半ば没して、その神工の斧鉞の跡も十分には見るを得ないが、まさに蘇川峡の景勝であらう。
斎藤拙堂の「岐蘇《きそ》川を下るの記」に曰く、
「石皆奇状両岸に羅列す、或は峙立して柱の如く、或は折裂して門の如く、或は渇驥《かつき》の澗に飲むが如く、或は臥牛の道に横たはる如く、五色陸離として相|間《まじ》はり、皴《しゆん》率ね大小の斧劈を作す、間《ま》も荷葉披麻を作すものあり、波浪を濯ふて以て出づ、交替去来、応接に暇あらず、蓋し譎詭変幻中清秀深穏の態を帯ぶ。」
兜岩。駱駝《らくだ》岩。眼鏡岩、ライオン岩、亀岩などの名はあらずもがなである。色を観、形を観、しかして奇に驚き、神|悸《をのの》[#ルビの「をのの」は底本では「をのむ」]き、気眩すべしである。
拙堂も観た五色岩こそはまた光彩陸離として衆人の眼を奪ふものであらうか。
ただ私の見たところでは、この蘇川峡のみを以てすれば、その岩相の奇峭は豊の耶馬渓、紀の瀞八丁《どろはつちやう》、信の天竜峡に及ばず、その水流の急なること肥の球磨川に如かず、激湍はまた筑後川の或個処にも劣るものがある。これ以上の大江としてはまた利根川がある。ただこの川のかれらに遙に超えた所以は変幻極まりなき河川としての綜合美と、白帝城の風致と、交通に利便であつて近代の文化的施設の余裕多き事であらう。原始的にしてまた未来の風景がこの水にある。
舟は翠嶂山の下、深沈とした碧潭に来て、その棹を留めた。清閑にしてまた飄々としてゐる。巉峭の樹林には野猿が啼き、時には出でて現れて遊ぶさうである。
私は舟より上つて、とある巌頭に攣ぢのぼつた。
蓋し天女ここに嘆き、清躯鶴のごとき黄巾の道士が来つて、ひそかに舟を煉り金を錬るその深妙境をここに夢みて、或は遊仙ヶ岡と名づけられたものであらう。
遺憾なのは「これより上へはどうしても今日はのぼれませんで。」と舟人はまた棹をいつぱいに岩に当てて張り切つたことである。
たちまち舟は矢のやうに下る。
千里の江陵一日にかへる。
おお隆坊はどうしてゐる。
2
自動車は駛《はし》る。
犬山の町長さんは若い白面の瀟洒な背広服の紳士であつた。白帝園はカンツリー・クラブの大食堂で私たち三人――私と素峰子と運転手と――が、この八月六日の極めて簡素な午餐を認めてゐた時にたまたま給仕を通じて私に挨拶に見えた。はひつて来ると、名刺を一々、運転手君にまでうやうやしく手交した。若しさうと知つてしたのならば美しい事だと微笑された。またそれほど黒背広の運転手君もひとかどの紳士らしく見えた。すなはち近代の日本ラインである。
カンツリー・クラブは緩い勾配の尾根の、錆色の羽目の中二階で、簡素ないい趣味の建築である。バンガロー風で、正面と横とに広い階段がついてゐる。その正面の階段の下の、明るい色彩の花壇の前で、私は改めて一礼すると、車上の人となつた。雀のお宿の素峰子は昨日の朝から激しい胃痙攣で顔色が無かつた。今日も案内がおぼつかないので、犬山橋駅に廻つて、赤い腕章の旅客課の制帽君の同乗をたのむことにした。
自動車は駛る。鉄橋を北へ、まつしぐらに駛つて行く。と、ちらつと、白帝城と夕暮富士とが眼を掠める。
きのふの夕焼は実によかつたと思ふ。その返照はいつまでも透明な黄の霞んだ青磁や水浅葱の西の空に、紅く紅く地平の積巻雲を燃え立たせた。さうして紫ばんで来た秀麗な夕暮富士の上に引きはへた吹き流し形の、天蓋の、華鬘の、金襴の帯の、雲の幾流れは、緋になびき、なびきて朱となり、褪紅となり、灰銀をさへ交へたやはらかな毛ばだちの樺となり、また葡萄紫となつた。天主閣のかすかに黄に輝き残る白堊、さうして大江の匂深い色の推移、それが同じく緋となり、褪紅となり、やはらかな乳酪色となり、藤紫となり、瑠璃紺の上びかりとなつた。さうして東の瑞泉寺山に涌き出した脳漿形の積雲と、雷鳴をこめた積乱雲との層が見る見る黄金色の光度を強めて今にも爆裂しさうに蒸し返すと、また南の葉桜の土手の空にもむくりむくりと同じ色と形の入道雲が噴き騰つてゐた。この夕焼もラインとよく似た美しい一つの天象だといふ。伊吹山の気流の関係で、この日本ラインにのみ恵まれた雲と夕日の季節の祭である。
私たちの軽舟は急流に乗つて、まだ大円日の金の光輝が十方に放射する、その夕焼の真近をまたたく間に走り下つて来た。さうして白帝城下の名も彩雲閣の河原に錨を下ろし、纜《ともづな》をもやつたのであつた。と、名古屋から電話がかかつてゐて隆太郎の母は直ぐにも見える筈だといふことであつた。それが今日は生憎早暁からの
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