な三味線が、
あれ、もう消えて了つた、鳴いたのは水鳥かしら、
硝子を透してごらん、小さな赤い燈が
ゆつくらと滑つてゆく、河上の方に
紀州の蜜柑でも積んで来たのかしら……
何だか船から喚《よ》んでるやうな……
ひつそりとしたではないか、
もう一度、その薄い硝子からのぞいて御覧、
恐らく紺いろになつた空の下から、
遠見の屋根が書割のやうに
白く青く光つて
疲れた千鳥が静な水面に鳴いてる筈だ。
サラリとその硝子を開《あ》けて御覧……
スツカリ雪はやんで
星が出た、まあ何て綺麗だらうねえ、
あれ御覧、真白だ、真白だ。
まるでクリスマスの精霊のやうに、
ほんとに真白だねい。
[#地から3字上げ]四十四年十一月

  冬の夜の物語

女はやはらかにうちうなづき、
男の物語のかたはしをだに聴き逃《のが》さじとするに似たり。
外面《そとも》にはふる雪のなにごともなく、
水仙のパツチリとして匂へるに薄荷酒《はつかさけ》青く揺《ゆら》げり。
男は世にもまめやかに、心やさしくて、
かなしき女の身の上になにくれとなき温情を寄するに似たり。
すべて、みな、ひとときのいつはりとは知れど、
互《かた》みになつかしくよりそひて、
ふる雪の幽かなるけはひにも涙ぐむ。

女はやはらかにうちうなづき、
湯沸《サモワル》のおもひを傾けて熱《あつ》き熱《あつ》き珈琲を掻きたつれば、
男はまた手をのべてそを受けんとす。
あたたかき暖炉はしばし息をひそめ、
ふる雪のつかれはほのかにも雨をさそひぬ。

遠き遠き漏電と夜の月光。
[#地から3字上げ]四十四年一月

  キヤベツ畑の雨

冷《ひえ》びえと雨が、さ霧《ぎり》にふりつづく、
キヤベツのうへに、葉のうへに、
雨はふる、冬のはじめの乳緑の
キヤベツの列《れつ》に葉の列に。

あまつさへ、柵の網目の鉄条《はりがね》に
白い鳥奴《とりめ》が鳴いてゐる。
雨はふる、くぐりぬけてはいきいきと、
色と匂を嗅ぎまはる。

ささやかな水のながれは北へゆく。
キヤベツのそばを、葉のしたを、
雨はふる。路もひとすぢ、川下《かはしも》の
街《まち》も新らし、石の橋。

キヤベツ畑のあちこちに
かがみ、はたらき、ひとかかえ
野菜かついではしるひと、
雨はふる。けふもあをあを夏帽子。

小父《をぢ》さんが来る、真蒼《まつさを》に、脚《あし》も顫へて、
お早うがんす。山※[#「木+査」、第3水準1−85−84]子《さんざし》の芽もこわごわと
泥にまみるる。立ちばなし。
雨はふる。しつかと握る水薬の黄色の罎の鮮やかさ。

「阿魔《あま》つ子《こ》がね昨夜《ゆんべ》さ、
いいらぶつ吃驚《たま》げた真似《まね》仕出《しで》かし申してのお前《まへ》さま。」
雨はふる。光《ひか》つては消《き》ゆる、剃刀《かみそり》で
咽喉《のど》を突いた女の頬。

「だけんどどうかかうか生きるだらうつて、
医者どんも云やんしたから。」まづは安心と軍鶏屋《しやもや》の小父《をぢ》さん
胸をさすればキヤベツまで
ほつと息する葉の光。

鳥が鳴いてる……冬もはじめて真実《しんじつ》に
雨のキヤベツによみがへる。
濡れにぞ濡れて、真実に
色も匂もよみがへる。

新らしい、しかし、冷《つめ》たい朝の雨、
キヤベツ畑の葉の光。
雨はふる。生きて滴《したゝ》る乳緑の
キヤベツの涙、葉のにほひ。
[#地から3字上げ]四十四年一月

  蕨

春と夏とのさかひめに
生絹《きぎぬ》めかしてふる雨は
それは「四月」のしのびあし、
過ぎて消えゆく日のうれひ。

蕨の青さ、つつましさ、
花か、巻葉か、知らねども、
その芽の黄《きな》さ、新らしさ……
庭の井戸から水揚げて、
しみじみと撰《え》る手のさばき、
見るもさみしや、ふる雨に。

ひとりは庭のかたすみに、
印半纏着てかがみ、
ひとりはほそき角柱《かくばしら》、
しんぞ寥《さみ》しう手をあてて、
朝のつかれの身をもたす
古い宿場の青楼《かしざしき》。

しとしとしととふる雨に
柱時計の羅馬字も
蓋《ふた》も冷《つめ》たし、しらじらと
針の※[#ローマ数字4、1−13−24]を差すその面《おもて》。

ひとりはさらに水あげて、
さつと蕨の芽にそそぎ、
ひとりはじつと眼をふせて、
楊枝《やうじ》つかへり弊私的里《ヒステリー》の
朝のつかれの身だしなみ。

空と海との燻《いぶ》し銀《ぎん》、
けふの曇りにふる雨は
それは涙のしのびあし、
青い台場の草の芽に
沁《し》みて「四月」も消えゆくや、
帆かけた船も、白鷺も
ましてさみしやふる雨に。

もののあはれにふる雨は、
さもこそあれや、早蕨《さわらび》の
その芽に茎に渦巻きて
はやも「五月」は沁《し》むものを
なにかさみしきそのおもひ。

春と夏とのさかひめに
生絹《きぎぬ》めかしてふる雨は
それは「四月」のしのびあし、
過ぎて消えゆく日のうれひ。
[#地から3字上げ]四十四年四月

  涙

蒼ざめはてたわがこころ、
こころの陰《かげ》のひとすぢの
神経の絃《いと》そのうへに、
薄明《ツワイライト》のその絃《いと》に、

薄明《ツワイライト》のその絃《いと》に、
ちらと光りて薄青く、
踊るものあり、豆のごと……
雨は涙とふりしきる。

見れば小さな緑玉《エメラルド》、
ひとのすがたのびいどろの、
頬にも胸にもふりしきる、
涙……かなしいその眼つき。

声もえたてぬ奇《あや》しさは
夜半《よは》に「秘密」の抜けいでて、
所作《しよさ》になげくや、ただひとり、
パントマイムの涙雨。

月の出しほの片あかり、
薄き足もつびいどろの、
肩に光れどさめざめと、
歎き恐れて、夜も寝ねず。

金《きん》のピアノの鳴るままに、
濡れにぞ濡るれすべもなく、
神経の上、絃《いと》のうへ、
雨は涙とふりしきる。[#地から3字上げ]四十四年十月

  新生

新らしい真黄色《まつきいろ》な光が、
湿《しめ》つた灰色の空――雲――腐れかかつた
暗い土蔵の二階の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]に、
出※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の白いフリジアに、髄の髄まで
くわつと照る、照りかへす。真黄な光。

真黄色だ真黄色だ、電線《でんせん》から
忍びがへしから、庭木から、倉の鉢まきから、
雨滴《あまだれ》が、憂欝が、真黄に光る。
黒猫がゆく、
屋根の廂《ひさし》の日光のイルミネエシヨン。

ぽたぽたと塗りつける雨、
神経に塗りつける雨、
霊魂の底の底まで沁みこむ雨
雨あがりの日光の
欝悶の火花。

真黄《まつき》だ……真黄《まつき》な音楽が
狂犬のやうに空をゆく、と同時に
俺は思はず飛びあがつた、驚異と歓喜に
野蛮人のやうに声をあげて
匍ひまはつた……真黄色な灰色の室を。

女には児がある。俺には俺の
苦しい矜がある、芸術がある、而して欲があり熱愛がある。
古い土蔵の密室には
塗りつぶした裸像がある、妄想と罪悪と
すべてすべて真黄色だ。――
心臓をつかんで投げ出したい。

雨が霽れた。
新らしい再生の火花が、
重い灰色から変つた。
女は無事に帰つた。
ぽたぽたと雨だれが俺の涙が、
真黄色に真黄色に、
髄の髄から渦まく、狂犬のやうに
燃えかがやく。

午後五時半。
夜に入る前一時間。
何処《どつか》で投げつけるやうな
あかんぼの声がする。
[#地から3字上げ]四十四年十月



[#ここから2字下げ、30字詰め]
四十四年の春から秋にかけて自分の間借りして居た旅館の一室は古い土蔵の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春画を描いてあつたそうな、それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土蔵全体が古びて雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。
[#ここで字下げ終わり]

  黄色い春

黄色《きいろ》、黄色、意気で、高尚《かうと》で、しとやかな
棕梠の花いろ、卵いろ、
たんぽぽのいろ、
または児猫の眼の黄いろ……
みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、
夕日黄いろく、粉《こな》が黄いろくふる中に、
小鳥が一羽鳴いゐる。
人が三人泣いてゐる。
けふもけふとて紅《べに》つけてとんぼがへりをする男、
三味線弾きのちび男、
俄盲目《にわかめくら》のものもらひ。

街《まち》の四辻、古い煉瓦に日があたり、
窓の日覆《ひよけ》に日があたり、
粉《こな》屋の前の腰掛に疲れ心の日があたる、
ちいちいほろりと鳥が鳴く。
空に黄色い雲が浮く、
黄いろ、黄いろ、いつかゆめ見た風も吹く。

道化男がいふことに
「もしもし淑女《レデイ》、とんぼがへりを致しませう、
美くしいオフエリヤ様、
サロメ様、
フランチエスカのお姫様。」
白い眼をしたちび男、
「一寸、先生、心意気でもうたひやせう」
俄盲目《にわかめくら》も後《うしろ》から
「旦那様や奥様、あはれな片輪で御座います、
どうぞ一文。」
春はうれしと鳥も鳴く。

夫人《おくさん》、
美くしい、かはいい、しとやかな
よその夫人《おくさん》、
御覧なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも
黄色い木の芽の粉《こ》が煙り、
ふんわりと沁む地のにほひ。
ちいちいほろりと鳥も鳴く、
空に黄色い雲も浮く。

夫人《おくさん》。
美くしい、かはいい、しとやかな
よその夫人《おくさん》、
それではね、そつとここらでわかれませう、
いくら行《い》つてもねえ。

黄色、黄色、意気で高尚《かうと》で、しとやかな、
茴香《うゐきやう》のいろ、卵いろ、
「思ひ出」のいろ、
好きな児猫の眼の黄いろ、
浮雲のいろ、
ほんにゆかしい三味線の、
ゆめの、夕日の、音《ね》の黄色。
[#地から3字上げ]四十五年三月

  汽車はゆくゆく

汽車はゆくゆく、二人《ふたり》を載せて、
空のはてまでひとすぢに。
今日は四月の日曜《どんたく》の、あひびき日和《びより》、日向雨《ひなたあめ》、
塵にまみれた桜さへ、電線《はりがね》にさへ、路次にさへ、
微風《そよかぜ》が吹く日があたる。
街《まち》の瓦を瞰下《みを》ろせばたんぽぽが咲く、鳩が飛ぶ、
煙があがる、くわんしやん[#「くわんしやん」に傍点]と暗い工場の槌が鳴る
なかにをかしな小屋がけの
によつきりとした野呂間顔《のろまがほ》。
青い布《きれ》かけ、すつぽりと、よその屋根からにゆつと出て
両手《りやうて》つん出す弥次郎兵衛|姿《すがた》、
あれわいさの、どつこいしよの、堀抜工事の木遣《きやり》の車、
手をふる、手をふる、首をふる――
わしとそなたは何処《どこ》までも。

汽車はゆくゆく、二人を乗せて
都はづれをひとすぢに。
鳥が鳴くのか、一寸と出た亀井戸駅の駅長も
芝居がかりに戸口からなにか恍然《うつとり》もの案じ、
棚に載《の》つけたシネラリヤ、
紫の花、鉢の花、色は日向《ひなた》に陰影《かげ》を増す。
悪戯者《いたづらもの》の児守さへ、けふは下から真面目顔《まじめがほ》、
ふたつ並べたその鼻の孔《あな》に、眇眼《すがめ》に、まだ歯も生えぬ
ただ揉《も》みくちやの泣面《なきつら》のべそかき小僧が口の中《うち》
蒸気|噴《ふ》きつけ、驀進《まつしぐら》、パテー会社の映画《フイルム》の中の
汽車はゆくゆく、――空飛ぶ鳥の
わしとそなたは何処《どこ》までも。

汽車はゆくゆく、二人を乗せて、
広い野原をひとすぢに。
ひとりそはそは、くるりくるくる、水車《みづぐるま》
廻る畑《はたけ》のどぶどろに、
葱のあたまがとんぼがへりて泳ぎゆく、
ちびの菜種の真黄《まつき》いろ
堀に曳きずる肥舟《こえぶね》の重い小腹にすられゆく。
さても笑止や、垣根のそとで
障子張るひと、椿の花が上に真赤に輝けば
張られた障子もくわつと照る、
烏勘左衛門、烏啼かせてくわつと吹く
よかよか飴屋のちやるめらも
みんなよしよし、粉嚢《こなぶくろ》やつこらさと担《かつ》いで、
禿げた粉屋《こなや》も飛んでゆく。
蒸気|噴《ふ》き噴き、斜《はすかひ》に
汽車はゆくゆく……椿が光る。
わしとそなたは何処《どこ》までも。

汽車はゆくゆく二人を乗せて
空のはてまでひとすぢに。
硝子窓
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