《ね》ちやつたの。

そなたの寝息は
桐の花のやうに、
やるせないこころをそそのかし、
捉《とら》へかぬる微《かす》かな光。
ほんとに睡《ね》ちやつたの。

そなたのけふ入れた緋鮒《ひぶな》か、
それとも陶器《やきもの》の金魚かしら、
なにかしら寂《さみ》しい力《ちから》の
薄い硝子に触《さは》るやうな……
ほんとに睡《ね》ちやつたの。

そなたの知つてる男は
みんな薄情ものだ。
さうしてそなたが眠《ね》むつてから
何時でもこんな風にささやく、
ほんとに睡《ね》ちやつたの。[#地から3字上げ]四十三年七月

  心中

あはれなる心中のうはさより
わが霊《たま》は泣き濡れてかへりゆく、
花つけしアカシヤの並木のかげを、
嫋《なよ》やかなる七月のおとづれのごとく。

やすらかに平準《な》らされしこころは
あるものの抑圧《おさへ》のかげにありて、
つねにかかる微顫《ふるへ》をこそのぞみたれ。
いみじく幽かなるその Lied《リイド》 よ。

附《つ》きやすき花粉《くわふん》のしめりのごとく、
そはまた※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の汗のごとくに顫《ふる》へやすし。
護謨輪《ごむわ》のゆけばためらひ、
吊橋の淡黄《うすき》なる瓦斯《がす》のもとを泣きゆく。

新道《しんみち》を抜《ぬ》けては
※[#「木+解」、第3水準1−86−22]の芽のむせびをあはれみ、
御神燈のかげをば
それしやの浴衣《ゆかた》ともすれちがふ。

とある河岸《かし》のおでんやには
寄席《よせ》のビラのかなしく、
薄汗《うすあせ》の光る紙に
水菓子の色透くがいとほし。

あはれなる心中のうはさより
わが霊《たま》は泣き濡れてかへりゆく、
微風《そよかぜ》の吹くままに過ぎゆく
嫋《なよ》やかなる七月のおとづれのごとく。[#地から3字上げ]四十三年七月

  花火

花火があがる、
銀《ぎん》と緑の孔雀玉《くじやくだま》……パツとしだれてちりかかる。
紺青の夜の薄あかり、
ほんにゆかしい歌麿の舟のけしきにちりかかる。

花火が消ゆる。
薄紫の孔雀玉……紅《あか》くとろけてちりかかる。
Toron …… tonton …… Toron …… tonton ……
色とにほひがちりかかる。
両国橋の水と空とにちりかかる。

花火があがる。
薄い光と汐風に、
義理と情《なさけ》の孔雀玉《くじやくだま》……涙しとしとちりかかる。
涙しとしと爪弾《つまびき》の歌のこころにちりかかる。
団扇片手のうしろつきつん[#「つん」に傍点]と澄ませど、あのやうに
舟のへさきにちりかかる。

花火があがる、
銀《ぎん》と緑《みどり》の孔雀玉……パツとかなしくちりかかる。
紺青《こんじやう》の夜に、大河に、
夏の帽子にちりかかる。
アイスクリームひえびえとふくむ手つきにちりかかる。
わかいこころの孔雀玉《くじやくだま》、
ええなんとせう、消えかかる。
[#地から3字上げ]四十四年六月

  放埒

放埒《はうらつ》のかなしみは
ひらき尽くせしかはたれの花の
いろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。

かかる日の薄明《はくめい》に、
しどけなき恐怖《おそれ》より蛍ちらつき、
女の皮膚《ひふ》にシヤンペンの香《にほひ》からめば、
そは支那の留学生もなげくべき
尺八の古き調子《てうし》のこころなり。

うら若き芸妓《げいしや》には二上りのやるせなく、
中年《ちゆうねん》の心には三《さん》の糸|下《さ》げて弾《ひ》くこそ、
下《さ》げて弾くこそわりなけれ。

かくて、日のありなし雲の雨となり、
そそぐ夜《よ》にこそ。
おしろい花《ばな》のさくほとり、しんねこ[#「しんねこ」に傍点]の幽《かす》かなる
音《ね》を泣くべけれ。

放埒《はうらつ》のかなしみは
ひらき尽《つ》くせしかはたれの花の
いろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。
[#地から3字上げ]四十三年八月

  紫陽花

かはたれに紫陽花《あぢさゐ》の見ゆるこそさみしけれ。
うらわかき盲人《まうじん》のいろ飽《あく》まで白く、
そのほとりに頬を寄《よ》するは――
かろくかさねし手のひらの弾《はぢ》く爪さき、それとなく
隆達《りゆうたつ》ぶしの唱歌など思ひ出づるはいとかなし。

誰かつくりし恋のみち、いかなる人も踏み迷ふ……
よしやわれにも情《なさけ》あれ。寮の日くれの、あ、もの憂《う》や、
何《なん》とせうぞの。蜩《かなかな》の金《きん》の線条《はりがね》顫《ふる》はす声も、
縁《えん》さへあらばまたの夕日《ゆふひ》にチレチレ
またの夕日に時雨《しぐ》るる。

おはぐろどぶのかなしみは
岐阜堤燈《ぎふぢやうちん》のかげうつる茶屋のうしろのながし湯の
石鹸《しやぼん》のにほひ、黴《かび》の花、青いとんぼの眼《め》の光。

よひやみの、よひやみの、
いづこにか、赤い花火があがるよの、
音《おと》はすれども、そのゆめは
見えぬこころにくづるる……

ほのかにも紫陽花《あぢさゐ》のはな咲けば、
新《あらた》にかけし撒水《うちみづ》の
香《か》のうつりゆくしたたり、
さて、消えやらぬ間の片恋。
[#地から3字上げ]四十三年八月

  カナリヤ

たつた一言《ひとこと》きかしてくれ。
カナリヤよ、
たんぽぽいろのカナリヤよ、
ちろちろと飛びまはる、ほんに浮気なカナリヤよ。
おしやべりのカナリヤよ。
たつた一言《ひとこと》きかしてくれ、
丁度《ちやうど》、弾きすてた歌沢の、
三の絃《いと》の消ゆるやうに、
「わたしはあなたを思つてる。」と。

  彼岸花

憎い男の心臓を
針で突かうとした女、
それは何時《いつ》かのたはむれ。

昼寝のあとに、
ハツとして、
けふも驚くわが疲れ。

憎い男の心臓を
針で突かうとした女、――
もしや棄てたら、キツとまた。

どうせ、湿地《しめぢ》の
彼岸花、
蛇がからめば
身は細《ほ》そる。

赤い、湿地《しめぢ》の
彼岸花、
午後の三時の鐘が鳴る。
[#地から3字上げ]四十四年十一月

  もしやさうでは

もしやさうではあるまいかと
思うても見たが、
なんの、そなたがさうであろ、
このやうなやくざにと、――
胸のそこから血の出るやうな
知らぬ偽《いつはり》いうて見た。

雪のふる日に
赤い酒をも棄てて見た。
知らぬふりして、
ちんからと
鳴らしたその手でさかづきを。
[#地から3字上げ]四十四年十一月

  片足

花が黄色で、芽がしよぼしよぼで、
見るも汚《きた》ない梅の木に
小鳥とまつて鳴くことに、――
あれ、あの雪の麦畑《むぎばた》の、つもつた雪のその中に、
白い女の片足が指のさきだけ見えて居る。

はつと思つて佇めば、
小鳥逃げつつ鳴くことに、――
何時《いつ》か憎いと思うたくせに、
卑怯未練な、安心さしやれ、
あれは誰かの情婦《いろ》でもなけりや、
女乞食の児でもない。
一軒となりの杢右衛門《もくよむ》どんの
唖の娘が投げすてた白い人形の片足ぢや。
[#地から3字上げ]四十四年十二月

  あらせいとう

人知れず袖に涙のかかるとき、
かかるとき、
ついぞ見馴れぬよその子が
あらせいとうのたねを取る。
丁度誰かの為《す》るやうに
ひとり泣いてはたねを取る。
あかあかと空に夕日の消ゆるとき、
植物園に消ゆるとき。
[#地から3字上げ]四十三年十月

 あかい夕日に

あかい夕日につまされて、
酔うて珈琲店《カツフヱ》を出は出たが、
どうせわたしはなまけもの
明日《あす》の墓場をなんで知ろ。
[#地から3字上げ]四十三年十月
[#改丁]

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銀座の雨
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  銀座の雨

雨……雨……雨……
雨は銀座に新らしく
しみじみとふる、さくさくと、
かたい林檎の香のごとく、
舗石《しきいし》の上、雪の上。

黒の山高帽《やまたか》、猟虎《ラツコ》の毛皮、
わかい紳士は濡れてゆく。
蝙蝠傘《かうもり》の小さい老婦も濡れてゆく。
……黒の喪服と羽帽子《はねばうし》。
好《す》いた娘の蛇目傘《じやのめがさ》。
しみじみとふる、さくさくと、
雨は林檎の香のごとく。

はだか柳に銀緑《ぎんりよく》の
冬の瓦斯|点《つ》くしほらしさ、
棚の硝子にふかぶかと白い毛物の春支度。
肺病の子が肩掛の
弱いためいき。
波斯《ペルシヤ》の絨氈《じゆたん》、
洋書《ほん》の金字《きんじ》は時雨《しぐれ》の霊《たまし》、
〔Henri《アンリイ》 De《ド》 Re'gnier《レニエ》〕 が曇り玉《たま》、
息ふきかけてひえびえと
雨は接吻《きつす》のしのびあし、
さても緑の、宝石の、時計、磁石のわびごころ、
わかいロテイのものおもひ。
絶えず顫へていそしめる
お菊夫人の縫針《ぬいばり》の、人形ミシンのさざめごと。
雪の青さに片肌ぬぎの
たぼもつやめく髪の型《かた》、つんとすねたり、かもじ屋に
紺は匂ひて新らしく。
白いピエロの涙顔。
熊とおもちやの長靴は
児供ごころにあこがるる
サンタクロスの贈り物。
外《そと》はしとしと淡雪《うすゆき》に
沁みて悲しむ雨の糸。

雨は林檎の香のごとく
しみじみとふる、さくさくと、
扉《ドア》を透かしてふる雨は
Verlaine《ヴエルレエイヌ》 の涙雨、
赤いコツプに線《すぢ》を引く、
ひとり顫へてふりかくる
辛《から》い胡椒に線《すぢ》を引く、
されば声出す針の尖《さき》、蓄音器屋にチカチカと
廻るかなしさ、ふる雨に
酒屋の左和利、三勝もそつと立ちぎく忍び泣き。
それもそうかえ淡雪《うすゆき》の
光るさみしさ、うす青さ、
白いシヨウルを巻きつけて
鳥も鳥屋に涙する。
椅子も椅子屋にしよんぼりと
白く寂しく涙する。
猫もしよんぼり涙する。
人こそ知らね、アカシヤの
性の木の芽も涙する。

雨……雨……雨……
雨は林檎の香のごとく
冬の銀座に、わがむねに、
しみじみとふる、さくさくと。
[#地から3字上げ]四十四年十二月

  雪

雪でも降りさうな空あひだね、今夜も
ほら、もう降つて来たやうだ、その薄い色硝子を透かして御覧。
なつかしい円弧燈《アークとう》に真白なあの羽虫のたかるやうに
細《こま》かなセンジユアルな悲しみが、向ふの空にも、
橋にも柳にも、
水面にも、
書割のやうな遠見の、黄色い市街の燈にも、
多分冷たくちらついてゐる筈だ。それとも積つたかしら。
幽かな囁き……幽かなミシンの針の
薄い紫の生絹《きぎぬ》を縫ふて刻むやうな、
色沢《いろつや》のある寂しいリズムの閃めきが、
そなたの耳にはきこえないのか……湯から上つて、
もう一度透かして御覧、乳房が硝子に慄へるまで。

曇つたのぼせさうな湯殿に、
白い湯気のなかに、
蛍が飛ぶ……燐のにほひの蛍が、
ほうつほうつと……あれ銀杏がへしの
つんと張つた鬢のうらから
肩から、タオルからすべつて消える。
ほうつほうつと。

さうではない、さうではない、
すらりとした両《ふた》つのほそい腕から、
手の指の綺麗な爪さきの線まで、
何かしら石鹸《シヤボン》が光つて見えるのだ、さうして
魔気のふかい女の素はだかの感覚から
忘れた夏の記憶が漏電する。
ほうつほうつと蛍が光る。
不思議な晩だ、まだ鋏を取つたまま
何時までも足の爪を剪《き》つてゐるのか、お前は
※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66]芙藍湯《サフランゆ》の[#「※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66]芙藍湯《サフランゆ》の」は底本では「泊芙藍湯《サフランゆ》の」]温かな匂から、
香料のやはらかななげきから、
おしろいから、
夏の日のあめも美しく
女は踊る、なつかしいドガの Dancer

雪がふる……降つてはつもる……
しめやかな悲しみのリズムの
しんみりと夜ふけの心にふりしきる……
ほうつほうつと、蛍が飛ぶ……
あれごらんな、綺麗だこと、
青、黄、緑、……さうしてうすいむらさき、
雪がふる……降つてはつもる……
そつとしておきき、何処かでしめやか
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