tに
柔かにかろく魘《うな》さるれど、
汝《な》が母を犯したる
霊《たましひ》の不倫をば知るよしもなし。
五時過ぎて暮ちかき夏の日は
血に染《そ》みし呼鈴《よびりん》の声のごとくふりそそぎ、
嫋《なよ》やかなる風は蜜蜂の褐色《かちいろ》に、
蜜蜂のつぶやきは
かろく花粉を落す。
汝《な》が微《かす》かなる寝息は
腐れたる玉葱のにほひにも沁《し》み、
快《こころよ》く荒《すさ》みゆく性《せい》の秘密にや笑ふらん。
匍《は》ひよりし毛虫の奇異《きい》なる緑にも
汝《な》は覚《さ》めず……
ひとみぎり園丁の鍬の刃はかなたに光り、
掘りかへさるる土の香の湿潤《しめり》吹き来る。
あはれ、かかる日に病みて伏す
やはらかにかなしき畜生《ちくしやう》の
捉《とら》へがたき微温《びをん》の、やるせなきそのこころ……
[#地から3字上げ]四十三年六月
隣人
隣人《りんじん》は露西亜の地主《ぢぬし》のごとく、
素朴な黒の上衣《うはぎ》に赤木綿のバンドを占め、
長靴を穿《は》き、
禿げた頭《あたま》のきさくから他《よそ》の畑を見回《みまは》る。
隣人はよく蚕豆《そらまめ》のなかに立ち、
雨に濡れた黄花※[#「くさかんむり/(束+束)」、66−1]肉《きのはなにんにく》を眺める。
[#ここから横組み]“*Ogamadashi, Mauske”[#ここで横組み終わり]自慢らしい手つきで
喞《くは》えたパイプの雁首《がんくび》をぽんとはたく。
隣人は見え坊だ、そりばつてん、
どうかすると吝嗇漢《しみつたれ》だ、
世界苦《せかいく》の気欝《ふさぎ》から、
馬鈴薯《じやがいも》を食《た》べすぎた食傷《もたれ》から。
隣人は女房を恐れる、長崎うまれの
肥満女《ふとつちよ》の息の臭い、馬鹿力のある、
それでよく小娘のやうにかぢりつく、
牛肉《ビイフ》と昼寝の好きな飲酒家《のんだくれ》。
隣人は日に一度黒い蒸汽をながめる、
その悲しい面《かほ》に※[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66]芙藍《さふらん》のやうな
黄いろい日が光り、涙がながれる。
さうして悄然《しほしほ》と御燈明《みあかし》をあげにゆく。
隣人の宣教師、混血児《あひのこ》のベンさん
気まぐれな禿頭、
青い眼鏡をかけては街《まち》を歩行《ある》き、
日曜の日には御説教。
[#ここから横組み]“Changhang−deki no Mariya Sanna
Ne wa yasuka−batten,
utsukushikaken,
〔Minasan yo_ ogan de wokinasare.〕”[#ここで横組み終わり]
[#ここから2字下げ]
* お精がでます、茂助。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]四十三年六月
雨の気まぐれ
雨はふる。……雨はふる……
やるせない春機発動期《しゆんきはつどうき》の憂欝病《いううつびやう》……神経の哀《かな》しい衰弱……
黄色い胃病患者の腐つた気分にふりそそぐ雨。
私通した小娘《こむすめ》の青い悪阻《つわり》の秘密と恐怖とにふりそそぐ雨。
泥酔漢《のんだくれ》のおくびと、殺人《ひとごろし》の温《ぬ》るい計画《たくらみ》とにふりそそぐ雨。
しとしと[#「しとしと」に傍点]と、しとしと[#「しとしと」に傍点]と、
絶間なく雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴《したた》る。
わが暗い霊《たましひ》の霖雨季《りんうき》の長いひと月、
日がな終日《ひねもす》、昼も夜《よ》も、一昨日《をととひ》も、昨日《きのふ》も、今日《けふ》も
乱次《だらし》ない雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴《したた》る。
酸《す》つぱい麦酒《ビール》のやうな気の抜けた雨。
いそぎんちやくの液《しる》のむづかゆい雨。
黴《かび》くさいインキいろの青い雨。
雨……雨……雨……
雨はふる……雨はふる……
酸敗《す》えかかつた橡《とち》の葉の繊維《せんゐ》に蛞蝓《なめくじ》の銀線《ぎんせん》を曳き、
臭《くさ》い栗の花の白金《プラチナ》を腐らし、
鉄粉《てつぷん》のやうに光る芝生の土に沁み込み、
青い古池の面《おもて》に怪《あや》しい笑《わらひ》を辷らせ、
せうことなしに雨はふる、ふりそそぐ、何時までも何時までも小止《をや》みなく……
陰気な黴くさい雨、長い雨……日ぐらしの雨……
ともすると疲《つか》れきつた悲愁《かなしみ》の裏《うら》から
微《ほの》かな日光の金《きん》を投げかくる雨。
雨のふる廃園《はいゑん》の木立の暗《くら》い緑《みどり》色の空間《スペース》。
その洞《ほら》のやうな葉かげの恐怖にふりそそぐ雨。……
折から、ひよいと、花やかに
地《ち》より身軽《みかろ》なひるがへり、躍り出したる怪《け》のものが
突拍子《とつぺし》もないひと躍り、……
Kappore! Kappore!
Amacha de Kappore!
Shiwocha de Kappore!
Yoito na! Yoi! Yoi!
緋のだんだらの尖帽《せんばう》に戯姿《おどけすがた》の道化師《だうけし》が
恐ろしきほど真白《まつしろ》く白粉《おしろい》つけた呆《とぼ》けがほ。
Oki …… no …… o …… o,
Kura …… ai …… no …… ni …… i, i,
Shira …… a …… Ho …… ga …… miyuru,
Are … wa … Ki …… no … Ku … u, u … ni,
Ha! Yoito kono korewa no sa!
A! a! a! a! a!
Mika …… n …… Bu …… u, u …… ne ……!
目も動かさず、白々《しらじら》と悪《わる》く澄《す》ましたくはせ者、
燥《はしや》ぎくるめく廉《やす》ものの
蓄音機から絞《しぼ》りだす囃《はやし》――黄色《きいろ》な甲高《かんだか》の
三味《しやみ》の笑《わらひ》に挑《いど》まれて、
戯《おど》けつくした身のひねり、
突拍子《とつぺし》もないひと躍り……
Ichi kake, Ni kake, San kake te,
Shi kake te, Go kake te, Hasyo kake te,
Kawai Okata wo ……
ふいと消えたる変化《へんげ》もの、
白粉《おしろい》の濃《こ》い、手の白い、素足《すあし》の白い、
唇《くちびる》の赤《あか》い沈黙《ちんもく》……
雨はふる……雨はふる……
陰気な黴くさい雨……長い雨……日ぐらしの雨……
気まぐれな不摂生《ふせつせい》のあとの痛《いた》ましい寂寥《さびしみ》、
幻影《イリユージヨン》の消え失せた雰囲気《ふんゐき》の暗《くら》い緑に、
むづ痒《か》ゆいやうな、気の抜けた、さみしい、弱い、せうことなしの
雨はふる……雨はふる……本能と神経の黄昏時《たそがれどき》。
しとしと[#「しとしと」に傍点]と、しとしと[#「しとしと」に傍点]と、
絶え間なく雨はふる、ふりそそぐ、葉から葉へ、しと[#「しと」に傍点]と滴《したた》る。
深緑《しんりよく》の闇《くら》い夜《よる》――ふる雨の黒いかがやき、
廃《すた》れたる橡《とち》の葉に古池に霊《たましひ》の底の秘密へ、
日がな終日《ひねもす》、昼間《ひるま》から、今日《けふ》の朝から、昨日《きのふ》から、遠い日の日の夕《ゆふべ》から、
ふりつづく長い長い憂欝《いううつ》の単音律《モノトニー》、
その青い雨……黴くさい雨……投げやりの雨……
辛気くさい静かな雨、かなしいやはらかな……生温《なまぬ》るい計画《たくらみ》の雨。
雨……雨……雨……
[#地から3字上げ]四十三年六月
葱の畑
寥《さび》しい霊《たましひ》が鳴《な》いて居る。
そこここの湿《しめ》つた黒《くろ》い土《つち》のなかで
昼《ひる》の虫《むし》が
幽《かす》かな、銀《ぎん》の調子《てうし》で鳴《な》いてゐる。
疲《つか》れた日光《につくわう》が
五時半《ごじはん》ごろの重《おも》い空気《くうき》と、
湯屋《ゆや》の曇硝子《くもりがらす》とに、
黄色《きいろ》く濡《ぬ》れて反射《はんしや》し、
新《あたら》しい臭《にほひ》のなかに弱《よわ》つてゆく。
寂《さび》しい霊《たましひ》が鳴《な》いてゐる。
毛《け》なみのいい樺《かば》と白の犬が
交《つる》んだまま葱《ねぎ》のなかにかくれてる。
眩《まぶ》しさうに首だけ覗《のぞ》いて
淀《よど》んだ瞳《ひとみ》に
何物《なにもの》をか恐《おそ》れてゐる。――
息《いき》がしづかに茎《くき》の尖頭《さき》を顫《ふる》はす。
何処《どこ》かで百舌《もず》が鳴きしきる。
疲《つか》れた、それでも放縦《ほしいまま》な
三十《さんじふ》過《す》ぎた病身《びやうしん》の女《をんな》らしい、
湯屋《ゆや》の硝子戸《がらすど》を出ると直《す》ぐ
石鹸《しやぼん》のにほひする身体《からだ》をかがめて
嬰児《あかんぼ》に小便《しつこ》をさしてる。
寥《さび》しい霊《たましひ》が鳴いてゐる。……
母《はは》の眼《め》と嬰児《あかんぼ》の眼《め》が
一様《いちやう》に白《しろ》い犬《いぬ》の耳《みみ》に注《そそ》がれる。
可愛《かあ》いいちんぽこから小便《しつこ》が出る。
その尿《ねう》と、濡《ぬ》れた西洋手拭《タヲル》と、束髪《そくはつ》と、
無意味《むいみ》な眼《め》つきと、白つぽい葱《ねぎ》の青《あを》みに、
しみじみと黄色《きいろ》な光《ひかり》がうつる。
しだいに反射《はんしや》がうすれて
外光《ぐわいくわう》が青《あを》みを帯《お》びた。
煙突《えんとつ》から薄《うす》い煙《けぶり》がたなびき
畑々《はたけ/\》の葱《ねぎ》の尖頭《さき》には
銀色《ぎんいろ》の露《つゆ》が光《ひか》つてくる。
そしてなほ、湿《しめ》つた黒《くろ》い土《つち》のなかでは
寥《さび》しい虫《むし》が、
幽《かす》かな昼《ひる》の調子《てうし》で鳴《な》いてゐる。
寂しい寂しい寂しい畑。
[#地から3字上げ]四十三年一月
八月のあひびき
八月の傾斜面《スロウプ》に、
美くしき金《きん》の光はすすり泣けり。
こほろぎもすすりなけり。
雑草の緑《みどり》もともにすすり泣けり。
わがこころの傾斜面《スロウプ》に、
滑りつつ君のうれひはすすり泣けり。
よろこびもすすり泣けり。
悪縁《あくゑん》のふかき恐怖《おそれ》もすすり泣けり。
八月の傾斜面《スロウプ》に、
美くしき金《きん》の光はすすり泣けり。
[#地から3字上げ]四十三年八月
秋
日曜の朝、「秋」は銀かな具《ぐ》の細巻の
絹薄き黒の蝙蝠傘《かうもり》さしてゆく、
紺の背広に夏帽子、
黒の蝙蝠傘《かうもり》さしてゆく、
瀟洒にわかき姿かな。「秋」はカフスも新らしく
カラも真白につつましくひとりさみしく歩み来ぬ。
波うちぎはを東京の若紳士めく靴のさき。
午前十時の日の光海のおもてに広重《ひろしげ》の
藍を燻《いぶ》して、虫のごと白金《プラチナ》のごと閃めけり。
かろく冷《つめ》たき微風《そよかぜ》も鹹《しほ》をふくみて薄青し、
「秋」は流行《はやり》の細巻の
黒の蝙蝠傘さしてゆく。
日曜の朝、「秋」は匂ひも新らしく
新聞紙折り、さはやかに衣嚢《かくし》に入れて歩みゆく、
寄せてくづるる波がしら、濡れてつぶやく銀砂の、
靴の爪さき、足のさき、パツチパツチと虫も鳴く。
「秋」は流行《はやり》の細巻の
黒の蝙蝠傘さしてゆく。[#地から3字上げ]四十四年十月
[#改丁]
[#ここから5字下げ、ページの左右中央に]
槍持
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
おかる勘平
おかるは泣いてゐる。
長い薄明《うすあかり》のなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、
やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、
きんぽうげ色の草生《くさぶ》から昼の光が消えかかるやうに、
ふわふわと飛んで
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