驕B
そのとき、
酒場《さかば》の薄い硝子から
むちやくちやになつた神経が、馬鹿にしろといふ調子で、
それでも沈まりかへつて、
恐怖《おそれ》と可笑《をかしさ》の眼を瞠《みは》つたまま、
ふる雪を、
Blue devils の歩行《あるき》を眺めてゐる。
ひよつくりこつくり顫《ふる》へてゆく……
ピアノに合せた足どりの、ふらふらと両手《りようて》を振つて、あかしやの禿げた並木をくぐりぬけ、
三角|形《なり》の街燈《がいたう》の鉄の支|柱《ちゆう》によろけかかつて腰をつき、
そそくさと、そそくさと、内隠《かくし》から山葵色《わさびいろ》の罎《びん》を取り出し、
こくこくと仰向《あふむ》いて、苦《にが》さうな口のあたりに持てゆく。
雪がふる……白く……薄青く……
それが罎《びん》を収《しま》つて
ひよいと此方《こちら》を見る。
涙の一杯たまつた眼に
張《はり》のない痲痺《まひ》しきつた笑《わらひ》を洩らしながら、
克明《こくめい》な霊《たましひ》のかたわれが
ひよつくりこつくり道化《だうけ》た身振に消えてゆく。
ああ、静かな夜《よる》、
何処《どこ》かに幽かに杏仁水《きやうにんすゐ》のにほひがして
疲れた官能が痺れてくる……
濡れたあかしやが銀《ぎん》の恐怖《おそれ》に光つて、
一ならび青い硝子に反射する――そのほかは
声もせぬ通の長い舗石《しきいし》のうへを
痺《しび》れて了《しま》つたピアノの顫音《せんおん》が、
ふる雪の断片が、
活動写真のまたたきのやうに
音もなく瓦斯の光に顫へてゐる。
雪がふる。
Sara …… sara …… sara …… sara …… sara ……
薄ら青い、冷《つめ》たい千万の断片が
落ついた悲哀《かなしみ》の光が、
弊私的里《ヒステリー》の発作《ほつさ》が過ぎた、そのあとの沈んだ気分《きぶん》の氛囲気《ふんゐき》に、
しんみりとしたリズムをつくつて
しづかに降りつもる。
Sara …… sara …… sara …… sara …… sara ……
[#地から3字上げ]四十三年六月
解雪
わが憂愁は溶《と》けつつあり、
黄色《きいろ》く赤くみどりに、
屋根の雪は溶けつつあり、
光りつつ、つぶやきつつ、滴りつつ……
日はすでにまぶしく、
菓子屋の煙突よりは烟《けむり》のぼり、
病犬は跛《ちんば》曳きつつ舗石《しきいし》をゆく、
そのなかに溶《と》けつつあるものの小歌《リイド》。
やはらかによわく、ほそく、
そは裁縫機械《ミシン》のごとく幽かに、
いそがしく、
さまざまの光を放ちつつ滴《したた》る。
喪心《さうしん》のたのしさを聴け。
薄暗き地下室《セラ》の厨女《くりやめ》よ、
湯沸《サモワル》の湯気の呼吸《いき》も
玉葱のほとりにしづごころなし。
丸の内の三号、
その高き煉瓦より、筧より、また廂より、
かくれたる物の芽に沁《し》みたる無数の宝玉の溶解《ようかい》、
温かに劇薬のながれ湿《しと》る音楽……
わが憂愁は溶《と》けつつあり、
黄色く、赤く、みどりに、
屋根の雪は溶けつつあり、
光りつつ、つぶやきつつ、滴《したた》りつつ……[#地から3字上げ]四十三年六月
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青い髯
[#ここで字下げ終わり]
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青い髯
五月《ごぐわつ》が来た。
硝子と乳房との接触《せつしよく》……桐の花とカステラ……
春と夏との二声楽《ヂユエツト》、冷めたい冬……
とりあつめた空気の淡《うす》い感覚に、
硝子戸のしみじみとした汗ばみに、
さうして、私の剃《そ》りたての青い面《かほ》の皮膚《ひふ》に、
黄緑《くわうりよく》の Passion を燃えたたせ、顫はす
日光の痛《いた》さ、
その眩《ま》ぶしい音楽は負傷兵《ふしやうへい》の鳴らす釣鐘のやうに、
恢復期《くわいふくき》の精神病患者がかぎりなき悲哀《ひあい》の Irony に耽けるやうに、
心も身体《からだ》も疲《つか》らした
その翌日《あくるひ》の私の弱い瞼《まぶた》のうへに、
キラキラとチラチラと苦《にが》い顫音《せんおん》を光らす、
強く絶えず、やるせなく……
午前十一時半、
公園の草わかばの傷《いた》みに病犬《びやうけん》の黄《きいろ》い奴《やつ》が駈けまわり、
禿げた樹木《じゆもく》の梢がそろつて新芽《しんめ》を吹く、
螺旋状《らせんじやう》の臭《にほひ》のわななきと、底力《そこぢから》のはづみと、
Whiskey の色に泡《あわ》だつ呼吸《いき》づかひと……
而《さう》して、わかい男の剃りたての面《かほ》の皮膚の下から
青い髯が萠える……
五月が来た。
どこかしらひえびえとした微風《びふう》が
閃《ひら》めく噴水《ふんすゐ》の尖端《さき》からしづれて、
ニホヒイリスや和蘭陀薄荷《おらんだはつか》のしめりを戦《そよ》がせ、
ぢつと、私が凝視《みつ》むる、
小酒杯《リキユグラス》の透明な無色《むしよく》の火酒《ウオツカ》を顫はし、
黄緑《くわうりよく》の外光《ぐわいくわう》を浴《あ》びた青年の面《かほ》のうへを、
なめらかに砥石《といし》のやうな青みを、
Poe の頬のやうな手ざはりを、
すいすいと剃刀《かみそり》のやうに触れる、
私は無言《むごん》で冷《つめ》たい小酒杯《リキユグラス》をとりあげ、
しみじみと赤い唇《くちびる》にあてる……
五月が来た、五月が来た。
楠《くす》が萠え、ハリギリが萠え、朴《ほう》が萠え、篠懸《すずかけ》の並木が萠える。
そうして、私の
新しいホワイトシヤツの下から青い汗《あせ》がにじむ、
植物性の異臭《いしゆう》と、熱《ねつ》と、くるしみと、……
芽でも吹きさうな身体《からだ》のだらけさ、
(何でもいいから抱《だ》きしめたい。)
萠える、萠える、萠える、萠える、
青い髯が
ウオツカの沁み込む熱《あつ》い頬《ほ》の皮膚《ひふ》から萠える。……
くわつとふりそそぐ日光、
冷《つめ》たい風、
春と夏との二声楽《ヂユエツト》、……緑《みどり》と金《きん》……
[#地から3字上げ]四十三年五月
五月
新しい烏竜茶《ウーロンちや》と日光、
渋味もつた紅《あか》さ、
湧きたつ吐息《といき》……
さうして見よ、
牛乳にまみれた喫茶店《きつさてん》の猫を、
その猫が悩ましい白い毛をすりつける
女の膝の弾力《だんりよく》。
夏《なつ》が来《き》た、
静《しづ》かな五|月《ぐわつ》の昼《ひる》、湯沸《サモワル》からのぼる湯気《ゆげ》が、
紅茶《こうちや》のしめりが、
爽《さわや》かな夏帽子《なつばうし》の麦稈《むぎわら》に沁《し》み込《こ》み、
うつむく横顔《よこがほ》の薄《うす》い白粉《おしろい》を汗《あせ》ばませ、
而《さう》してわかい男《をとこ》の強《つよ》い体臭《にほひ》をいらだたす。
「苦《くる》しい刹那《せつな》」のごとく、黄《き》ばみかけて
痛《いた》いほど光《ひか》る白《しろ》い前掛《まへかけ》の女《をんな》よ。
「烏竜茶《ウーロンちや》をもう一|杯《ぱい》。」
[#地から3字上げ]四十三年五月
銀座花壇
赤《あか》い花《はな》、小《ちひ》さい花《はな》、石竹《せきちく》と釣鐘艸《つりがねさう》。
かなしくよるべなき無智《むち》……
瓦斯《ガス》の点《つ》いた
勧工場《くわんこうば》のはいりくち、
明るい硝子棚、紗《しや》の日被《ひよけ》、
夏は朝から悩ましいのに
花が咲いた……あはれな石竹と釣鐘草《つりがねさう》。
わかい葉柳《はやなぎ》の並木路《アベニユ》、撒水《みづまき》した煉瓦道《れんぐわみち》、
そのなかの小《ちひ》さな人口花壇《じんこうくわだん》、
(疲《つか》れた瞳《ひとみ》の避難所《ひなんしよ》)
その方《はう》二|尺《しやく》のかなしい区劃《しきり》に、
夏《なつ》がきて花《はな》が咲《さ》いた、小《ちひ》さい細《ほそ》い石竹《せきちく》と釣鐘艸《つりがねさう》。
絶《た》えず絶《た》えず電車《でんしや》が通《とほ》る……
おしろい汗《あせ》を吹《ふ》く草《くさ》の葉《は》に、
裁縫器《ミシン》の幽《かす》かな音《おと》に、
よせかけた自転車《じてんしや》の銀《ぎん》のハンドルの反射《はんしや》
日《ひ》は光《ひか》り、
かるい埃《ほこり》が薄《うす》い車輪《しやりん》をめぐる……
赤い花、小さい花、石竹と釣鐘草。
さうして女がゆく、
すずしい白《しろ》のスカアト
その手《て》に持《も》つた赤皮《あかがは》の瀟洒《せうしや》な洋書《ほん》、
いつかしら汗《あせ》ばんだこころに
異国趣味《エキゾチツク》な五|月《ぐわつ》が逝《ゆ》く……
新《あたら》しい銀座《ぎんざ》の夏《なつ》、
かなしくよるべなき人工《じんこう》の花《はな》、――石竹《せきちく》と釣鐘艸《つりがねくさ》。
[#地から3字上げ]四十三年五月
六月
白い静かな食卓布《テエブルクロース》、
その上のフラスコ、
フラスコの水に
ちらつく花、釣鐘草《つりがねさう》。
光沢《つや》のある粋《いき》な小鉢の
釣鐘草《つりがねさう》、
汗ばんだ釣鐘草、
紫の、かゆい、やさしい釣鐘草、
さうして噎《むせ》びあがる
苦い珈琲《カウヒイ》よ、
熱《あつ》い夏のこころに
私は匙を廻す。
高※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]の日被《マルキイズ》
その白い斜面の光から
六月が来た。
その下の都会の鳥瞰景《てうかんけい》。
幽かな響がきこゆる、
やはらかい乳房の男の胸を抑《をさ》へつけるやうな……
苦い珈琲よ、
かきまわしながら
静かに私のこころは泣く……
[#地から3字上げ]四十三年六月
新聞紙
一九一〇、六|月《ぐわつ》、はじめの月曜《げつえう》
冷《つ》めたい朝《あさ》の七|時《じ》、
つつましい馭者台《ぎよしやだい》のうへに、
ただひとり爽《さわや》かに折《を》りかへす新聞紙《しんぶんし》の
緑《みどり》の薄《うす》い反射《はんしや》……
微《かす》かな鉄分《てつぶん》をふくんだ空気《くうき》に
まだ青味《あをみ》を帯《お》びた棕梠《しゆろ》の花《はな》が
かよわい薄黄色《うすぎいろ》に光《ひか》り、
ちらほらと夏帽子《なつぼうし》の目《め》につく
なつかしいだらだら坂《さか》の下《した》の
H分署《ぶんしよ》の前《まへ》の通《とほり》……せはしい電車《でんしや》の鐸《ベル》……
撒水夫《みづまき》の喞筒《ポムプ》を動《うご》かすさびしさ、
濠端《ほりばた》の火《ひ》の消《き》えた瓦斯燈《がすとう》に
白マントルが顫《ふる》へ、
その硝子《ガラス》の一|点《てん》に日光《につくわう》の金《きん》が光《ひか》つてる。
わかい馭者《ぎよしや》は
窓《まど》のないカキ色《いろ》の囚人馬車《しうじんばしや》を
梧桐《あをぎり》のかげにひき入《い》れたまま、
しづかに読《よ》み耽《ふけ》る……
こころもち疲《つか》れた馬《うま》の呼吸《こきふ》……
短《みじか》く刈《か》つた栗毛《くりげ》の光沢《つや》から沁《し》み出《で》る
臭《にほひ》の奇異《ふしぎ》な汗《あせ》ばみ、その上《うへ》にさしかくる
新聞紙《しんぶんし》の新《あたら》しい触感《しよくかん》、
わか葉《ば》の薄《うす》い緑《みどり》の反射《はんしや》。
新《あたら》しい客《きやく》を待《ま》つ間《あひだ》、
やすらかな五|分時《ふんじ》が過《す》ぎゆく……
[#地から3字上げ]四十三年六月
畜生
やはらかにかなしきは畜生の
こころなれ。
赤き日はアカシヤのわか葉にけぶり、
※[#「くさかんむり/(束+束)」、63−8]肉《にんにく》の黄なる花ちらちらと噎《むせ》ぶとき
怖々《おづおづ》と投げいだし、眠りたる霊《たましひ》の
人間の五官にもわきがたきいと深きかなしみ……
そのゆめはこころもち汗ばみて
傷《きず》つきし銀毛《ぎんまう》の耳に
痛《いた》き花粉は沁《し》み、
やるせなき肉体の憂欝《いううつ
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