ツき》」のごとく
隈《くま》青き眼《め》の光|烟《けぶり》とともにスツポンの深き恐怖《おそれ》よりせりあがる。……

何時《いつ》も何時《いつ》もわが悲哀《かなしみ》の背景《バツク》には銀色《ぎんいろ》の密境《みつきやう》ぞ住む。
そのなかに鳴きしきる虫の音よ、
匂《にほひ》高き空気《くうき》の迅《はや》き顫動《せんどう》、
太棹《ふとざを》と、鋭《するど》き拍子木《ひやうしぎ》、
ああああわが凡《すべて》の官能《くわんのう》は盲《めし》ひんとして静かに光る。

   ※[#ローマ数字5、1−13−25] 神経の凝視

日は暮るる、日は暮るる、力《ちから》なき欝金《うこん》の光……

ゆき馴《な》れし一本《ひともと》の楡《にれ》のもと、半《なかば》壊《こは》れし長椅子《ベンチ》に、
恐ろしき病室《びやうしつ》を抜《ぬ》けいでたるわがこころの
神経《しんけい》の疑《うたがひ》ふかき凝視《ぎようし》……

足もとの、そこここの小さき花は
長く長く抱擁《はうえう》したるあとの黄色《きいろ》なる興奮《こうふん》に似て
光り……なげき……吐息《といき》し……
沈黙《ちんもく》したる風は
生前《せいぜん》の日の遺言状《ゆゐごんじやう》の秘密《ひみつ》のごとくに刺草《いらくさ》の間《あひだ》に沈み、
美《うつく》しき絶望《ぜつまう》のごとたまさかに蜥蜴《とかげ》過《す》ぎゆく。

近郊《きんかう》の鐘は鳴る……修道院《しゆだうゐん》晩餐《ばんさん》の鐘……

神経の澄《す》みわたる凝視《ぎようし》はつづく――
その青くして何物《なにもの》にも吸ひ取らるるがごとき瞳《ひとみ》は
身をすりよする異母妹《いぼまい》の性《せい》の恐怖《おそれ》より逃《のが》れんとし、
親《した》しき友人の顔に陋《いや》しき探偵《たんてい》の笑《わらひ》を恐れ、
色|黄《き》なる醜《みにく》き悪縁《あくゑん》の女《をんな》を殺《ころ》さんとし、
さらにわが生《せい》を力《ちから》あらしめんがために砒素《ひそ》を医局《いきよく》の棚より盗み、
終《つひ》にまた響《ひびき》も立てぬ霊《たましひ》の深緑《しんりよく》の瞳《ひとみ》にうち吸はれ、
わが心の深淵《しんゑん》に突き落されし処女《ヴアジン》の銀《ぎん》の咽《むせ》びをきく。

この時《とき》、病院の青白き裏口《うらぐち》の戸に佇める看護婦は
携へし鳥籠《とりかご》の青き小鳥の鳴くこゑをさびしみながら、
角《かく》吹ける乗合馬車の遠き遠き黄《き》のかがやきをなつかしむ。

日は暮るる、日は暮るる、力《ちから》なき欝金の光……
[#地から3字上げ]四十三年二月

 物理学校裏

Borum. Bromun. Calcium.
Chromium. Manganum. Kalium. Phosphor.
Barium. Iodium. Hydrogenium.
Sulphur. Chlorum. Strontium. ……
(寂しい声がきこえる、そして不可思議な……)

日が暮れた、淡《うす》い銀と紫――
蒸し暑い六月の空に
暮れのこる棕梠の花の悩ましさ。
黄色い、新しい花穂《ふさ》の聚団《あつまり》が
暗い裂けた葉の陰影《かげ》から噎《む》せる如《やう》に光る。
さうして深い吐息《といき》と腋臭《わきが》とを放つ
歯痛《しつう》の色の黄《きな》、沃土ホルムの黄《きな》、粉つぽい亢奮の黄《きな》。

C2[#「2」は下付き小文字]H2[#「2」は下付き小文字]O2[#「2」は下付き小文字]N2[#「2」は下付き小文字]+NaOH=CH4[#「4」は下付き小文字]+Na2[#「2」は下付き小文字]CO3[#「3」は下付き小文字]……
蒼白い白熱瓦斯の情調《ムウド》が曇硝子を透して流れる。
角窓のそのひとつの内部《インテリオル》に
光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。
肺病院の如《やう》な東京物理学校の淡《うす》い青灰色《せいくわいしよく》の壁に
いつしかあるかなきかの月光がしたるる。

〔Ti^n …… ti^n …… ti^n. n. n. n …… ti^n.n ……〕
 〔tire …… tire …… ti^n. n. n. n. …… syn ……〕
t …… t …… t …… t …… tone …… tsn. n. …… syn. n. n. n. n ……
静かな悩ましい晩、
何処かにお稽古《けいこ》の琴の音がきこえて、
崖下の小さい平家《ひらや》の亜鉛屋根に
コルタアが青く光り、
柔《やは》らかい草いきれの底に Lamp の黄色い赤みが点る。
その上の、見よ、すこしばかりの空地《あきち》には
湿《しめ》つた胡瓜と茄子の鄙びた新らしい臭《にほひ》が
惶《あわ》ただしい市街生活の哀愁《あいしゆう》に縺れる……

汽笛が鳴る……四谷を出た汽車の Cadence《カダンス》 が近づく……

暮れ悩む官能の棕梠
そのわかわかしい花穂《ふさ》の臭《にほひ》が暗みながら噎《むせ》ぶ、
歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。

寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な……
そこここの明《あか》るい角※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]のなかから。
Sin ……, Cosin ……. Tan ……, Cotan ……. Sec ……, Cosec ……. etc ……
Ion. Dynamo. Roentgen. Boyle. Newton.
Lens. Siphon. Spectrum. Tesla の火花
摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or, Archimedes. etc, etc……
棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、
無意味な琴の音の稚《をさ》なびた Sentiment は
何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。
汽笛が鳴る……濠端《ほりばた》の淡《うす》い銀と紫との空に
停車《とま》つた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。
静かな三分間。

悩ましい棕梠の花の官能に、今、
蒸し暑い魔睡がもつれ、
暗い裂けた葉の縁《ふち》から銀の憂欝《メランコリイ》がしたたる。
その陰影《かげ》の捕捉《とら》へがたき Passion の色、
歯痛の色の黄《きな》、沃土ホルムの黄《きな》、粉つぽい亢奮の黄《きな》。

Neon. Flourum. Magnesium.
Natrium. Silicium. Oxygenium.
Nitrogenium. Cadimium or, Stibium
           etc., etc.……
[#地から3字上げ]四十三年三月

  骨なし児と黒猫

そは恐《おそ》ろしきXなり。淫《みだ》らにして不倫《ふりん》なる母《はは》のごとく、
汝《な》が神経《しんけい》と知覚《ちかく》とは痛《いた》ましきほど慄《わなな》けども、力《ちから》なき骨《ほね》なし児《ご》よ。
終日《ひもすがら》、わづらはしき病室《びやうしつ》の白葡萄酒《はくぶどうしゆ》の如《ごと》き空気《くうき》に呼吸《こきふ》し、
霊《たましひ》のうつらぬ瞳《ひとみ》は唯《ただ》狂《くる》はしき硝子戸《がらすど》の外《そと》をうち凝視《みつ》む。

そが背後《うしろ》の棚《たな》の上《うへ》、やや青《あを》みたる陰影《いんえい》の中《うち》、
ニツケルの産科《さんくわ》の器械《きかい》鵞《が》のごとき嘴《はし》して光《ひか》り、
薄《うす》く曇《くも》れる硝子《がらす》のなかにとりあつめたる薬剤《やくざい》の罎《びん》、
その青《あを》く赤《あか》くおぼめける劇薬《げきやく》のエチケツテ……鋭《するど》く、苦《にが》し。

ああ骨《ほね》なし児《ご》よ。この薄暮《くれがた》の反射《はんしや》に、
柔軟《やはら》かにして悩《なや》ましき汝《な》が衾《ふすま》は銀《ぎん》の潤沢《しめり》に光《ひか》れど、
冷《ひや》やかなる鉄《てつ》の寝台《ねだい》の上《うへ》、据《す》ゑられし木造《きづくり》の函《はこ》は、
汝《な》が身《み》を入《い》れたる小《ちひ》さき牢獄《ひとや》は山葵色《わさびいろ》の曇《くもり》にうち歎《なげ》く。

大人《おとな》びたる顔《かほ》の白《しろ》き白《しろ》き白粉《おしろい》の恐《おそ》ろしさよ。
なよなよと凭《もた》せたる身体《からだ》のしまりなさ。
霊《たましひ》の青《あを》さ、いたましさ、
生温《なまぬ》るき風《かぜ》のごと骨《ほね》もなき手《て》は動《うご》く――その空《そら》に※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]銀《しやうぎん》の鐘《かね》はかかれり。

ああ、ああ、今《いま》しがたまでぞ、この硝子戸《がらすど》の外《そと》には
五|時《じ》ごろの日《ひ》の光《ひかり》わかわかしき血《ち》のごとくふりそそぎ、
見《み》えざる窓下《まどした》のあたりより、
抑圧《おさ》えあへぬ抱擁《はうえう》の笑《わら》ひ声《ごゑ》きこえしか――葱畑《ねぎばたけ》すでに青《あを》し。

※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]銀《しやうぎん》の鐘《かね》よりは一条《ひとすぢ》の絹《きぬ》薄青《うすあを》く下《さが》りて光《ひか》る。
その端《はし》をはづかに取《と》りたる手《て》は、その瞳《ひとみ》は、
ああ、すべて力《ちから》なし。――さらにさらに痛《いた》ましきはかかる青《あを》き薄暮《くれがた》の激《はげ》しき官能《くわんのう》の刺戟《しげき》。

聴《き》け、遂《つひ》に、彼《かれ》は泣《な》く。……
あらず、そは馴染《なじ》みたる黒猫《くろねこ》なりき。ふくらなる身《み》を跳《おど》らせて、
銀色《ぎんしよく》の衾《ふすま》の裾《すそ》にのぼりつつ背《せ》を高《たか》めたる。
黄《き》ばみたる青葱色《あをねぎいろ》の眼《め》の光《ひかり》来《きた》る夜《よ》の恐怖《おそれ》にそそぐ。

かくてただ声《こゑ》もなし。青《あを》く光《ひか》る硝子戸《がらすど》に真白《ましろ》なる顔《かほ》ふりむけて、
哀楽《あいらく》の表情《へうじやう》もなく親《した》しげに畜類《ちくるゐ》の眼《め》と並《なら》びつつ何《なに》をか凝視《みつ》む。
ああ、暗《くら》き暗《くら》き葱畑《ねぎばたけ》の地平《ちへい》に黄《き》なる月《つき》いでんとして、
※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]銀《しやうぎん》の鐘《かね》は鳴《な》る……幽《かす》かに、……幽《かす》かに……やるせなき霊《たましひ》の求《と》めもあへぬ郷愁《ノスタルヂヤア》。
[#地から3字上げ]四十三年二月

  雪ふる夜のこころもち

今夜《こんや》も雪が降つてゐる。……

Blue devils よ。
酔ひ狂つた俺《おれ》の神経が――
Sara …… sara ……とふる雪の幽かな瞬《またたき》を聴きわけるほど――
ひつそりと怖気《をぢけ》づく、ほんの一時《いちじ》の気紛《きまぐれ》につけ込んで、
汝《おまへ》はやつて来る……顫《ふる》ひながら例《れい》の房のついた尖帽《せんぼう》をかぶつて、
掻きむしつた亜麻色《あさいろ》の髪《け》の、泣き出しさうな青い面《つら》つきで、
ふらふらと浮いた腰の、三尺《さんじやく》ほどの脚棍《たけうま》に乗つて、
ひよつくりこつくり西洋操人形《あやつりにんぎやう》のやうにやつてくる。

硝子の閉《しま》つた青い街《まち》を、
濡れに濡れた舗石《しきいし》のうへを、
ピアノが鳴る……金色《きんいろ》の顫音《せんおん》の
潤《うる》むだ夜の空気に緑を帯びて消えてゆく。

雪がふる。……
湿《しめ》つた劇薬《げきやく》の結晶《けつしやう》、
アンチピリンの(頓服剤《ねつさまし》の)、粉末《ふんまつ》のやうに――
それがまた青白い瓦斯《ガス》に映《うつ》つて
弊私的里《ヒステリー》の発作《ほつさ》が過ぎた、そのあとの沈んだ気分《きぶん》の氛囲気《ふんゐき》に
落《お》ちついた悲哀《かなしみ》の断片《だんぺん》がしみじみと降りしき
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