かあかと反射する時、私達の手から殘酷に投げ棄てられた黒猫が、黒猫の眼が、ぬるぬると滑り込みながら、もがけばもがくほど粘々《ねばねば》しい瀉の吸盤に吸ひ込まれて、苦しまぎれに斷末魔、爪を掻きちらした一種異樣の恐ろしい粘彩畫の上を、女はまた輕るく走りながらその板を滑らせては光澤《つや》つやと平準《なら》してゆく。さうして汐の靜かにさしてくる日没後の傾斜面は沈着《おちつ》いた紫色の光を帶びて幽かに夕づつのかげを浮べる。かうして瀉の不可思議は私らの幼年時代に取つては實に怪しくも美くしい何かしら深い秘密を秘めた恐怖と光の魔宮であつた。
それは兎もあれ、十六の初旅に小蒸汽や赤い商船のかげに見た門司の海の凄いほど透きわたつた濃藍色はどんなに私をして新しい西洋の香に噎ばしめたであらう。さうしてその翌年長崎旅行の途次汽車の窓から見た大村灣の風光は實にかの繪にのみ見た廣重の海の青さであつた。
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蛇目傘《じやのめ》を肩にしてキツとなつた定九郎の青い眼つきや、赤い毛布のかげを立つてゆく芝居の死人などに一種の奇妙な恐怖を懷いた三四歳の頃から私の異國趣味乃至異常な氣分に憧がるる心は蕨の花のやうに特
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