にはあまりに叔父の生眞面目《きまじめ》なのに恐ろしくなつて幾度か逃げようとした。顫へてゐる私の眼の前には白い蛾の粉《こな》のついた大きな掌《てのひら》と十本の指の間から凝《ぢつ》と睨んでゐる黒い眼、………蠶の卵の彈《はぢ》く音、繭を食ひ切る音、はづんだ生殖の顫《ふる》へ、凡てが恐怖《おそれ》に蒼くなつた私の耳に小さな剃刀をいれるやうに絶間なく沁み込んで來る。私は何時も最後《しまひ》には泣き出したのである。――そのパノラマのやうな夜景のなかで、亞拉比亞夜話《アラビヤンナイト》の曾邊伊傳《ソベイデ》の譚《はなし》や、西洋奇談の魔法使ひや、驢馬に化《な》された西藏王子の話を聞かして貰つて、さうして縁《ふち》の赤い黒表紙の讚美歌集をまさぐりながらそのまま奇異《ふしぎ》な眠に落ちるのが常であつた。

   7

 私はこの當時まだあの蒼い海といふもの曾て見たことがなかつた。海といふものに就ての私の第一の印象は私を抱いて船から上陸した人の眞白《まつしろ》な蝙蝠傘《かうもりがさ》の輝きであつた。それは夏の眞晝だつたかも知れぬ、痛《いた》いほど眼《め》に沁んだ白色はその後未だに忘れることが出來《でき》
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