今日しはじめて
小蒸汽の見えつるといふ。

朝明《あさあけ》の霧にむせびし
西國《にしぐに》の新しき香《か》よ。

そが鈍《にぶ》き笛のもとより、
鵞の鳥は鳴きてのぼりぬ。

ひとむれのその鳴きごゑよ、
しらしらとわれに寄り來つ。

そはかなし、『見も知らぬ兒よ、
汝《な》が紅き實《み》を欲し。』といふ。

いひしらぬそのくちをしさ、
逃げまどひ、泣きてかへりぬ。

母上に賜《た》びし桃の實、
われひとり食《たう》べむものを。


 胡瓜


そのにほひなどか忘れむ。
ほのじろき胡瓜《きうり》の花よ。
そのひと日、かげにかくれて
わが見てし胡瓜の花よ。

かの日には歌舞伎見るとて
父上にせがみまつりき。
そがために小さき兄弟《はらから》
日をひと日家を追はれき。

弟は水の邊《へ》に立ち、
聲あげて泣きもいでしか。
われははた胡瓜の棚に
身をひそめすすり泣きしき。

かくしても幼き涙
頬にくゆるしばしがほどぞ、
珍《めづ》らなる新らしき香に
うち噎《むせ》びなべて忘れつ。

さあれ、かの痛《つ》らき父の眼《め》
たまたまに思ひいでつつ、
日をひと日、泣きも疲れて
數へ見てし胡瓜の花よ。


 源平將棊


春の夜の源平將棊、
あはれなほ思ひぞ出づる。
ただ一夜《ひとよ》あてにをさなく
ほのかにも見てしばかりに。

その君はわれとおなじく
かぶろ髪、ゆめの眸《まみ》して
紅《くれなゐ》の玉をとらしき。
われは白、かくて對《むか》ひぬ。

春の夜の源平將棊、
そののちは露だにあはず、
名も知らず、われも長じて
二十歳《はたとせ》の春にあへれど。

などかまた忘れはつべき。
紅のとらす玉ゆゑ、
いとけなく勝たせまつりし
そのかみの春の夜のゆめ。


 朝


日は皐月《さつき》、
小野のしら花、
鈴状《すゞなり》に咲きて夜あけぬ。
靜《しずか》なり、ひとり坐れば。
靜なり、ひとり坐れば。――
くるる戸の
 きしるにほひも。

君は早や、
麥の青みを――
鈴鳴らし朝の祷《いの》りに、――
白《しら》ぎぬに摺りもこそゆけ、
白ぎぬに摺りもこそゆけ、
野の寺へ。――
 かくも思ひぬ。

ああしばし、
星のうすれに、
髪なぶる風のなよびも、
水鳥のほののしらべも、
水鳥のほののしらべも、
われききぬ。
 きみがこころも。


 人生


野の皐月《さつき》、空ものどかに、
白き雲
前へ 次へ
全70ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北原 白秋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング