思ひ出 抒情小曲集
北原白秋

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)苅麥《かりむぎ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)色|變《か》えて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※芙藍[#「さんずい+自」、第3水準1−86−66、X1−1]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おり/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

思ひ出 抒情小曲集
[#改丁]


 この小さき抒情小曲集をそのかみのあえかなりしわが母上と、愛弟 Tinka John に贈る。
                Tonka John.
[#改丁]


わが生ひたち
   …………時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく、
       時は逝く、赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく。
                     (過ぎし日第二十)

   1

 時は過ぎた。さうして温かい苅麥《かりむぎ》のほめきに、赤い首《くび》の螢に、或は青いとんぼの眼に、黒猫の美くしい毛色に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も何時の間にか慕はしい「思ひ出」の哀歡となつてゆく。
 捉へがたい感覺の記憶は今日もなほ私の心を苛《いら》だたしめ、恐れしめ、歎かしめ、苦しませる。この小さな抒情小曲集に歌はれた私の十五歳以前の Life はいかにも幼稚な柔順《おとな》しい、然し飾氣のない、時としては淫婦の手を恐るゝ赤い石竹の花のやうに無智であつた。さうして驚き易い私の皮膚と靈はつねに螽斯《きりぎりす》の薄い四肢のやうに新しい發見の前に喜び顫へた。兎に角私は感じた。さうして生れたまゝの水々しい五官の感觸が私にある「神秘」を傅へ、ある「懷疑」の萠芽を微かながらも泡立たせたことは事實である。さうしてまだ知らぬ人生の「秘密」を知らうとする幼年の本能は常に銀箔の光を放つ水面にかのついついと跳ねてゆく水すましの番ひにも震※[#「りっしんべん+西/米」、X−8]《わなな》いたのである。
 尤も、私は過去追憶にのみ生《い》きんとするものではない。私はまたこの現在の生活に不滿足な爲めに美くしい過ぎし日の世界に、懷かしい靈の避難所を見出さうとす
次へ
全70ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北原 白秋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング