壞れ物に觸るやうな心持ちで恐れて誰もえう抱けなかつたさうである。それで彼此往來するにしても俥からでなしに、わざわざ古めかしい女駕籠《をんなのりもの》を仕立てたほど和蘭の舶來品扱ひにされた。それでもある時なぞは着いてすぐ玄關に舁ぎ据えた駕籠の、扉をあけて手から手へ渡されたばかりをもう蒼くなつて痙攣けて了つたさうである。
 三歳の時、私は劇しい窒扶斯《チブス》に罹つた。さうして朱欒《ザボン》の花の白くちるかげから通つてゆく葬列を見て初めて私は乳母の死を知つた。彼女は私の身熱のあまり高かつたため何時《いつ》しか病を傳染《うつ》されて、私の身代りに死んだのである。私の彼女に於ける記憶は別にこれといふものもない。ただ母上のふところから伸びあがつて白い柩を眺めた時、その時が初めのまた終りであった。
 家に來た乳母はおいそと云つた。私はよく彼女《かれ》と外目《ほかめ》の母の家に行つては何時《いつ》も長長と滯留した。さうして迎ひの人力車がその銀の輪をキラキラさして遙かの山すその岡の赤い曼珠沙華のかげから寢ころんで見た小さな視界のひとすじ道を懷かしさうに音をたてて軋つて來るまで、私たちは山にゆき谷にゆき、さうしてただ夢の樣に何ものかを探し囘つてもう馴《なれ》つこになつて珍らしくもない自分たちの瀉くさい海の方へ歸らうとも思はなんだ。
 かういふ次第で私は小さい時から山のにほひに親しむことが出來た。私はその山の中で初めて松脂のにほひを嗅ぎ、ゐもりの赤い腹を知つた。さうして玉蟲と斑猫《はんめう》と毒茸と、…………いろいろの草木、昆蟲、禽獸から放散する特殊のかをりを凡て驚異の觸感を以て嗅いで囘つた。かかる場合に私の五官はいかに新らしい喜悦に顫へたであらう。それは恰度薄い紗《きれ》に冷たいアルコールを浸して身體の一部を拭いたあとのやうに山の空氣は常に爽やかな幼年時代の官感を刺戟せずには措かなかつた。
 南關の春祭りはまた六騎《ロツキユ》の街に育った羅漫的《ロマンチツク》な幼兒をして山に對する好奇心を煽てるに充分であつた。私は祭物見の前後に顫へながらどんぐりの實のお池の水に落つる音をきき、それからわかい叔母の乳くびを何となく手で觸つた。

   5

 さて、柳河の虚弱なびいどろ罎[#「びいどろ罎」に傍点]は何時《いつ》のまにか内氣な柔順《おとな》しいさうして癇の蟲のひりひりした兒になつた。私は
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