て貧《まづ》しい六騎《ロツキユ》の厨裏《くりやうら》に濁つた澱みをつくるのであつた。そのちゆうまえんだ[#「ちゆうまえんだ」に傍点]はもと古い僧院の跡だといふ深い竹藪であつたのを、私の七八歳のころ、父が他から買ひ求めて、竹藪を拓き野菜をつくり、柑子を植ゑ、西洋草花を培養した。それでもなほ晝は赤い鬼百合の咲く畑に夜《よる》は幽靈の生《なま》じろい火が燃えた。
世間ではこの舊家を屋號通りに「油屋」と呼び、或は「古問屋《ふるどんや》」と稱へた。實際私の生家は此六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石數高く、魚類の問屋としては九州地方の老舖として夙《つと》に知られてゐたのである。從て濱に出ると平戸《ひらど》、五島、薩摩、天草、長崎等の船が無鹽、鹽魚、鯨、南瓜《ボウブラ》、西瓜、たまには鵞鳥、七面鳥の類まで積んで來て、絶えず取引してゐたものだつた。さうして魚市場の閑な折々《をり/\》は、血のついた腥くさい甃石《いしだゝみ》の上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を眞赤に開《あ》けては、激しい夕燒の中で、よく大きな雁首の煙管を管いつぱいに呑んで見せたものである。
私はかういふ雰圍氣の中で何時も可なり贅澤な氣分のもとに所謂油屋の Tonka John として安らかに生ひ立つたのである。
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私の第二の故郷は肥後の南關であつた。南關は柳河より東五里、筑後境の物靜かな山中の小市街である。その街の近郊|外目《ほかめ》の山あひに恰も小さな城のやうに何時も夕日の反照をうけて、たまたま舊道をゆく人の瞻仰の的となつた天守造りの眞白な三層樓があつた。それが母の生れた家であって、數代この近郷の尊敬と素朴な農人の信望とをあつめた石井家の邸宅であった。
私もまたこの小さな國の老侯のやうに敬はれ、侍《かしづ》かれ、慕はれて、餘生を讀書三昧に耽つた外祖|業隆《なりたか》翁の眞白な長髯のなつかしさを忘るる事が出來ぬ。私は土地の習慣上實はこの家で生れて――明治十八年二月二十五日――然る後古めかしい黒塗の駕籠に乘つて、まだ若い母上と柳河に歸つた。
私は生れて極めて虚弱な兒であつた。さうして癇癪の強い、ほんの僅かな外氣に當るか、冷たい指さきに觸《さは》られても、直ぐ四十度近くの高熱を喚び起した程、危險極まる兒であつた。石井家では私を柳河の「びいどろ罎」と綽名した位、殆ど
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