かいひろげたり。[#この註、2行目以降は3字下げ]


 敵


いづこにか敵のゐて、
敵のゐてかくるるごとし。
酒倉のかげをゆく日も、
街《まち》の問屋に
銀紙《ぎんがみ》買ひに行くときも、
うつし繪を手の甲に押し、
手の甲に押し、
夕日の水路《すゐろ》見るときも、
ただひとりさまよふ街の
いづこにか敵のゐて
つけねらふ、つけねらふ、靜こころなく。


 たそがれどき


たそがれどきはけうとやな、
傀儡師《くぐつまはし》の手に踊る
華魁《おいらん》の首|生《なま》じろく、
かつくかつくと目が動く…………

たそがれどきはけうとやな、
瀉に墮《おと》した黒猫の
足音もなく歸るころ、
人靈《ひとだま》もゆく、家《や》の上を。

たそがれどきはけうとやな、
馬に載せたる鮪《しび》の腹
薄く光つて滅《き》え去れば、
店の時計がチンと鳴る。

たそがれどきはけうとやな、
日さへ暮るれば、そつと來て
生膽取《いきぎもとり》の青き眼が
泣く兒|欲《ほ》しやと戸を覗《のぞ》く…………

たそがれどきはけうとしやな。


 赤き椿


わが眼《め》に赤き藪椿。
外《そと》の空氣にあかあかと、
音なく光り、はた、落つる。
いま死にのぞむわが乳母の
かなしき眼《め》つき…………藪椿。

醜《みにく》き面《かほ》をゆがめつつ
家畜《かちく》のごとく、はた泣くは、
わが手を執《と》るは、吸ひつくは、
憎《にく》く、汚《きた》なく恐ろしき
最愛《さいあい》の手か、たましひか。

かの眼《め》に赤き藪椿。
小さき頭惱《あたま》にあかあかと、
音なく光り、はた、落つる。


 二人


夏の日の午後《ひるすぎ》…………
瓦には紫の
薊ひとりかゞやき、
そことなしに雲が浮ぶ。

酒倉の壁は
二階の女部屋にてりかへし、
痛《いた》いやうに針が動く、
印度更紗のざくろの實。

暑い日だつた。
默《だま》つて縫ふ女の髪が、
その汗が、溜息《ためいき》が、
奇異《ふしぎ》な切なさが…………

惱ましいひるすぎ、
人形の首はころがり、
黒い蝶《チユウツケ》の斷《ちぎ》れた翅《つばさ》、
その粉《こな》の光る美くしさ、怪しさ。

たつた二人、…………
何か知らぬこころに
九歳《ここのつ》の兒が顫へて
そつと閉《し》めた部屋の戸。


 たはむれ


菖蒲の花の紫は
わが見物のこころかな。
かつは家鴨《あひる
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