代表せしめられている観があるのも、また重厚な「高野原の上」という名詞句で止めているあたりと調和して、万葉調の一代表的技法を形成している。また「今も見るごと」の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入句があるために、却って歌調を常識的にしていない。家持が「思ふどち斯くし遊ばむ、今も見るごと」(巻十七・三九九一)と歌っているのは恐らく此御歌の影響であろう。
 この歌の詞書は、「長皇子与志貴皇子於佐紀宮倶宴歌」とあり、左注、「右一首長皇子」で、「御歌」とは無い。これも、中皇命の御歌(巻一・三)の題詞を理解するのに参考となるだろう。目次に、「長皇子御歌」と「御」のあるのは、目次製作者の筆で、歌の方には無かったものであろう。
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巻第二

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秋《あき》の田《た》の穂《ほ》のへに霧《き》らふ朝霞《あさがすみ》いづへの方《かた》に我《わ》が恋《こひ》やまむ 〔巻二・八八〕 磐姫皇后
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 仁徳天皇の磐姫《いわのひめ》皇后が、天皇を慕うて作りませる歌というのが、万葉巻第二の巻頭に四首載っている。此歌はその四番目である。四首はどういう時の御作か、仁徳天皇の後妃|八田《やた》皇女との三角関係が伝えられているから、感情の強く豊かな御方であらせられたのであろう。
 一首は、秋の田の稲穂の上にかかっている朝霧がいずこともなく消え去るごとく(以上序詞)私の切ない恋がどちらの方に消え去ることが出来るでしょう、それが叶《かな》わずに苦しんでおるのでございます、というのであろう。
「霧らふ朝霞」は、朝かかっている秋霧のことだが、当時は、霞といっている。キラフ・アサガスミという語はやはり重厚で平凡ではない。第三句までは序詞だが、具体的に云っているので、象徴的として受取ることが出来る。「わが恋やまむ」といういいあらわしは切実なので、万葉にも、「大船のたゆたふ海に碇《いかり》おろしいかにせばかもわが恋やまむ」(巻十一・二七三八)、「人の見て言《こと》とがめせぬ夢《いめ》にだにやまず見えこそ我が恋やまむ」(巻十二・二九五八)の如き例がある。
 この歌は、磐姫皇后の御歌とすると、もっと古調なるべきであるが、恋歌としては、読人不知の民謡歌に近いところがある。併し万葉編輯当時は皇后の御歌という言伝えを素直に受納れて疑わなかったのであろう。そこで自分は恋愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである。他の三首も皆佳作で棄てがたい。
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君が行日《ゆきけ》長《なが》くなりぬ山|尋《たづ》ね迎へか行かむ待ちにか待たむ (巻二・八五)
斯くばかり恋ひつつあらずは高山《たかやま》の磐根《いはね》し枕《ま》きて死なましものを (同・八六)
在りつつも君をば待たむうち靡《なび》く吾が黒髪に霜の置くまでに (同・八七)
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 八五の歌は、憶良の類聚歌林に斯く載ったが、古事記には軽太子《かるのひつぎのみこ》が伊豫の湯に流された時、軽の大郎女《おおいらつめ》(衣通《そとおり》王)の歌ったもので「君が行日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」となって居り、第三句は枕詞に使っていて、この方が調べが古い。八六の「恋ひつつあらずは」は、「恋ひつつあらず」に、詠歎の「は」の添わったもので、「恋ひつつあらずして」といって、それに満足せずに先きの希求をこめた云い方である。それだから、散文に直せば、従来の解釈のように、「……あらんよりは」というのに帰着する。

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妹《いも》が家《いへ》も継《つ》ぎて見ましを大和《やまと》なる大島《おほしま》の嶺《ね》に家《いへ》もあらましを 〔巻二・九一〕 天智天皇
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 天智天皇が鏡王女《かがみのおおきみ》に賜わった御製歌である。鏡王女は鏡王の女、額田王の御姉で、後に藤原|鎌足《かまたり》の嫡妻《ちゃくさい》となられた方とおもわれるが、この御製歌はそれ以前のものであろうか、それとも鎌足薨去(天智八年)の後、王女が大和に帰っていたのに贈りたもうた歌であろうか。そして、「大和なる」とことわっているから、天皇は近江に居給うたのであろう。「大島の嶺」は所在地不明だが、鏡王女の居る処の近くで相当に名高かった山だろうと想像することが出来る。(後紀大同三年、平群《へぐり》朝臣の歌にあるオホシマあたりだろうという説がある。さすれば現在の生駒郡平群村あたりであろう。)
 一首の意は、あなたの家をも絶えずつづけて見たいものだ。大和のあの大島の嶺にあなたの家があるとよいのだが、というぐらいの意であろう。
「見ましを」と「あらましを」と類音で調子を取って居り、同じ事を繰返して居るのである。そこで、天皇の御住いが大島の嶺にあればよいというのではあるまい。若しそうだと、歌は平凡になる。或は通俗になる。ここは同じことを繰返しているので、古調の単純素朴があらわれて来て、優秀な歌となるのである。前の三山の御歌も傑作であったが、この御製になると、もっと自然で、こだわりないうちに、無限の情緒を伝えている。声調は天皇一流の大きく強いもので、これは御気魄《おんきはく》の反映にほかならないのである。「家も」の「も」は「をも」の意だから、無論王女を見たいが、せめて「家をも」というので、強めて詠歎をこもらせたとすべきであろう。
 この御製は恋愛か或は広義の往来存問か。語気からいえば恋愛だが、天皇との関係は審《つまびら》かでない。また天武天皇の十二年に、王女の病|篤《あつ》かった時天武天皇御自ら臨幸あった程であるから、その以前からも重んぜられていたことが分かる。そこでこの歌は恋愛歌でなくて安否を問いたもうた御製だという説(山田博士)がある。鎌足歿後の御製ならば或はそうであろう。併し事実はそうでも、感情を主として味うと広義の恋愛情調になる。

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秋山《あきやま》の樹《こ》の下《した》がくり逝《ゆ》く水《みづ》の吾《われ》こそ益《ま》さめ御思《みおもひ》よりは 〔巻二・九二〕 鏡王女
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 右の御製に鏡王女の和《こた》え奉った歌である。
 一首は、秋山の木の下を隠れて流れゆく水のように、あらわには見えませぬが、わたくしの君をお慕い申あげるところの方がもっと多いのでございます。わたくしをおもってくださる君の御心よりも、というのである。
「益さめ」の「益す」は水の増す如く、思う心の増すという意がある。第三句までは序詞で、この程度の序詞は万葉には珍らしくないが、やはり誤魔化《ごまか》さない写生がある。それから、「われこそ益《ま》さめ御思《みおもひ》よりは」の句は、情緒こまやかで、且つおのずから女性の口吻《こうふん》が出ているところに注意せねばならない。特に、結句を、「御思よりは」と止めたのに無限の味いがあり、甘美に迫って来る。これもこの歌だけについて見れば恋愛情調であるが、何処か遜《へりくだ》ってつつましく云っているところに、和え歌として此歌の価値があるのであろう。試みに同じ作者が藤原鎌足の妻になる時鎌足に贈った歌、「玉くしげ覆《おほ》ふを安《やす》み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)の方は稍《やや》気軽に作っている点に差別がある。併し「君が名はあれど吾が名し惜しも」の句にやはり女性の口吻が出ていて棄てがたいものである。

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玉《たま》くしげ御室《みむろ》の山《やま》のさなかづらさ寝《ね》ずは遂《つひ》にありがつましじ 〔巻二・九四〕 藤原鎌足
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 内大臣藤原卿(鎌足)が鏡王女に答え贈った歌であるが、王女が鎌足に「たまくしげ覆《おほ》ふを安み明けて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」(巻二・九三)という歌を贈った。櫛笥《くしげ》の蓋《ふた》をすることが楽《らく》に出来るし、蓋を開《あ》けることも楽《らく》だから、夜の明けるの「明けて」に続けて序詞としたもので、夜が明けてからお帰りになると人に知れてしまいましょう、貴方には浮名が立ってもかまわぬでしょうが、私には困ってしまいます、どうぞ夜の明けぬうちにお帰りください、というので、鎌足のこの歌はそれに答えたのである。
「玉くしげ御室の山のさなかづら」迄は「さ寝」に続く序詞で、また、玉匣《たまくしげ》をあけて見んというミから御室山のミに続けた。或はミは中身《なかみ》のミだとも云われて居る。御室山は即ち三輪山で、「さな葛」はさね葛、美男かずらのことで、夏に白っぽい花が咲き、実は赤い。そこで一首は、そういうけれども、おまえとこうして寝ずには、どうしても居られないのだ、というので、結句の原文「有勝麻之自」は古来種々の訓のあったのを、橋本(進吉)博士がかく訓んで学界の定説となったものである。博士はカツと清《す》んで訓んでいる。ガツは堪える意、ガテナクニ、ガテヌカモのガテと同じ動詞、マシジはマジという助動詞の原形で、ガツ・マシジは、ガツ・マジ、堪うまじ、堪えることが出来ないだろう、我慢が出来ないと見える、というぐらいの意に落着くので、この儘こうして寝ておるのでなくてはとても我慢が出来まいというのである。「いや遠く君がいまさば有不勝自《アリガツマシジ》」(巻四・六一〇)、「辺にも沖にも依勝益士《ヨリガツマシジ》」(巻七・一三五二)等の例がある。
 鏡王女の歌も情味あっていいが、鎌足卿の歌も、端的で身体的に直接でなかなかいい歌である。身体的に直接ということは即ち心の直接ということで、それを表わす言語にも直接だということになる。「ましじ」と推量にいうのなども、丁寧で、乱暴に押《おし》つけないところなども微妙でいい。「つひに」という副詞も、強く効果的で此歌でも無くてならぬ大切な言葉である。「生けるもの遂《つひ》にも死ぬるものにあれば」(巻三・三四九)、「すゑ遂《つひ》に君にあはずは」(巻十三・三二五〇)等の例がある。

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吾はもや安見児《やすみこ》得《え》たり皆人《みなひと》の得《え》がてにすとふ安見児《やすみこ》得《え》たり 〔巻二・九五〕 藤原鎌足
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 内大臣藤原卿(鎌足)が采女《うねめ》安見児を娶《めと》った時に作った歌である。
 一首は、吾は今まことに、美しい安見児を娶った。世の人々の容易に得がたいとした、美しい安見児を娶った、というのである。
「吾はもや」の「もや」は詠歎の助詞で、感情を強めている。「まあ」とか、「まことに」とか、「実に」とかを加えて解せばいい。奉仕中の采女には厳しい規則があって濫《みだ》りに娶ることなどは出来なかった、それをどういう機会にか娶ったのだから、「皆人の得がてにすとふ」の句がある。もっともそういう制度を顧慮せずとも、美女に対する一般の感情として此句を取扱ってもかまわぬだろう。いずれにしても作者が歓喜して得意になって歌っているのが、率直な表現によって、特に、第二句と第五句で同じ句を繰返しているところにあらわれている。
 この歌は単純で明快で、濁った技巧が無いので、この直截性が読者の心に響いたので従来も秀歌として取扱われて来た。そこで注釈家の間に寓意説、例えば守部《もりべ》の、「此歌は、天皇を安見知し吾大君と申し馴て、皇子を安見す御子と申す事のあるに、此采女が名を、安見子と云につきて、今吾[#(レ)]安見子を得て、既に天皇の位を得たりと戯れ給へる也。されば皆人の得がてにすと云も、采女が事のみにはあらず、天皇の御位の凡人に得がたき方をかけ給へる御詞也。又得たりと云言を再びかへし給へるも、其御戯れの旨を慥《たし》かに聞せんとて也。然るにかやうなるをなほざりに見過して、万葉などは何の巧《たくみ》も風情もなきものと思ひ過めるは、実におのれ解く事を得ざるよりのあやまりなるぞかし」(万葉緊
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