は吉野離宮のあった宮滝の南にある山である。象《きさ》という土地の中にある山の意であろう。「来らむ」は「行くらむ」という意に同じであるが、彼方《かなた》(大和)を主として云っている(山田博士の説)。従って大和に親しみがあるのである。
一首の意。(今吉野の離宮に供奉して来ていると、)呼子鳥が象の山のところを呼び鳴きつつ越えて居る。多分大和の京(藤原京)の方へ鳴いて行くのであろう。(家郷のことがおもい出されるという意を含んでいる。)
呼子鳥であるから、「呼びぞ」と云ったし、また、ただ「鳴く」といおうよりも、その方が適切な場合もあるのである。而してこの歌には「鳴く」という語も入っているから、この「鳴きてか」の方は稍間接的、「呼びぞ」の方が現在の状態で作者にも直接なものであっただろう。「大和には」の「に」は方嚮《ほうこう》で、「は」は詠歎の分子ある助詞である。この歌を誦しているうちに優れているものを感ずるのは、恐らく全体が具象的で現実的であるからであろう。そしてそれに伴う声調の響が稍渋りつつ平俗でない点にあるだろう。初句の「には」と第二句の「らむ」と結句の「なる」のところに感慨が籠って居て、第三句の「呼子鳥」は文法的には下の方に附くが、上にも下にも附くものとして鑑賞していい。高市黒人は万葉でも優れた歌人の一人だが、その黒人の歌の中でも佳作の一つであるとおもう。
普通ならば「行くらむ」というところを、「来らむ」というに就いて、「行くらむ」は対象物が自分から離れる気持、「来らむ」は自分に接近する気持であるから、自分を藤原京の方にいるように瞬間見立てれば、吉野の方から鳴きつつ来る意にとり、「来らむ」でも差支がないこととなり、古来その解釈が多い。代匠記に、「本来の住所なれば、我方にしてかくは云也」と解し、古義に「おのが恋しく思ふ京師|辺《アタリ》には、今鳴きて来らむかと、京師を内にしていへるなり」と解したのは、作者の位置を一瞬藤原京の内に置いた気持に解したのである。けれどもこの解は、大和を内とするというところに「鳴きてか来らむ」の解に無理がある。然るに、山田博士に拠ると越中地方では、彼方を主とする時に「来る」というそうであるから、大和(藤原京)を主として、其処に呼子鳥が確かに行くということをいいあらわすときには、「呼子鳥が大和京へ来る」ということになる。「大和には啼きてか来らむ霍公鳥《ほととぎす》汝が啼く毎に亡き人おもほゆ」(巻十・一九五六)という歌の、「啼きてか来らむ」も、大和の方へ行くだろうというので、大和の方へ親しんで啼いて行く意となる。なお、「吾が恋を夫《つま》は知れるを行く船の過ぎて来《く》べしや言《こと》も告げなむ」(巻十・一九九八)の「来べしや」も「行くべしや」の意、「霞ゐる富士の山傍《やまび》に我が来《き》なば何方《いづち》向きてか妹が嘆かむ」(巻十四・三三五七)の、「我が来なば」も、「我が行かば」という意になるのである。
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み吉野《よしぬ》の山《やま》のあらしの寒《さむ》けくにはたや今夜《こよひ》も我《わ》がひとり寝《ね》む 〔巻一・七四〕 作者不詳
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大行天皇《さきのすめらみこと》(文武)が吉野に行幸したもうた時、従駕の人の作った歌である。「はたや」は、「またも」に似てそれよりも詠歎が強い。この歌は、何の妙も無く、ただ順直にいい下しているのだが、情の純なるがために人の心を動かすに足るのである。この種の声調のものは分かり易いために、模倣歌を出だし、遂に平凡になってしまうのだが、併しそのために此歌の価値の下落することがない。その当時は名は著しくない従駕の人でも、このくらいの歌を作ったのは実に驚くべきである。「ながらふるつま吹く風の寒き夜にわが背の君はひとりか寝《ね》らむ」(巻一・五九)も選出したのであったが、歌数の制限のために、此処に附記するにとどめた。
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ますらをの鞆《とも》の音《おと》すなりもののふの大臣《おほまへつぎみ》楯《たて》立《た》つらしも 〔巻一・七六〕 元明天皇
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和銅元年、元明《げんめい》天皇御製歌である。寧楽《なら》宮遷都は和銅三年だから、和銅元年には天皇はいまだ藤原宮においでになった。即ち和銅元年は御即位になった年である。
一首の意は、兵士等の鞆の音が今しきりにしている。将軍が兵の調練をして居ると見えるが、何か事でもあるのであろうか、というのである。「鞆」は皮製の円形のもので、左の肘《ひじ》につけて弓を射たときの弓弦の反動を受ける、その時に音がするので多勢のおこすその鞆の音が女帝の御耳に達したものであろう。「もののふの大臣《おほまへつぎみ》」は軍を統《す》べる将軍のことで、続紀に、和銅二年に蝦夷《えみし》を討った将軍は、巨勢麿《こせのまろ》、佐伯石湯《さへきのいわゆ》だから、御製の将軍もこの二人だろうといわれている。「楯たつ」は、楯は手楯でなくもっと大きく堅固なもので、それを立てならべること、即ち軍陣の調練をすることとなるのである。
どうしてこういうことを仰せられたか。これは軍の調練の音をお聞きになって、御心配になられたのであった。考に、「さて此御時みちのく越後の蝦夷《エミシ》らが叛《ソム》きぬれば、うての使を遣さる、その御軍《みいくさ》の手ならしを京にてあるに、鼓吹のこゑ鞆の音など(弓弦のともにあたりて鳴音也)かしかましきを聞し召て、御位の初めに事有《ことある》をなげきおもほす御心より、かくはよみませしなるべし。此|大御哥《おほみうた》にさる事までは聞えねど、次の御こたへ哥と合せてしるき也」とある。
御答歌というのは、御名部皇女《みなべのひめみこ》で、皇女は天皇の御姉にあたらせられる。「吾が大王《おほきみ》ものな思ほし皇神《すめかみ》の嗣《つ》ぎて賜へる吾無けなくに」(巻一・七七)という御答歌で、陛下よどうぞ御心配あそばすな、わたくしも皇祖神の命により、いつでも御名代になれますものでございますから、というので、「吾」は皇女御自身をさす。御製歌といい御答歌といい、まことに緊張した境界で、恋愛歌などとは違った大きなところを感得しうるのである。個人を超えた集団、国家的の緊張した心の世界である。御製歌のすぐれておいでになるのは申すもかしこいが、御姉君にあらせられる皇女が、御妹君にあらせらるる天皇に、かくの如き御歌を奉られたというのは、後代の吾等拝誦してまさに感涙を流さねばならぬほどのものである。御妹君におむかい、「吾が大王ものな思ほし」といわれるのは、御妹君は一天万乗の現神《あきつかみ》の天皇にましますからである。
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飛《と》ぶ鳥《とり》の明日香《あすか》の里《さと》を置《お》きて去《い》なば君《きみ》が辺《あたり》は見《み》えずかもあらむ 〔巻一・七八〕 作者不詳
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元明天皇、和銅三年春二月、藤原宮から寧楽《なら》宮に御遷りになった時、御輿《みこし》を長屋原《ながやのはら》(山辺郡長屋)にとどめ、藤原京の方を望みたもうた。その時の歌であるが作者の名を明記してない。併《しか》し作者は皇子・皇女にあらせられる御方のようで、天皇の御姉、御名部皇女《みなべのひめみこ》(天智天皇皇女、元明天皇御姉)の御歌と推測するのが真に近いようである。
「飛ぶ鳥の」は「明日香《あすか》」にかかる枕詞。明日香(飛鳥)といって、なぜ藤原といわなかったかというに、明日香はあの辺の総名で、必ずしも飛鳥浄御原宮《あすかのきよみはらのみや》(天武天皇の京)とのみは限局せられない。そこで藤原京になってからも其処と隣接している明日香にも皇族がたの御住いがあったものであろう。この歌の、「君」というのは、作者が親まれた男性の御方のようである。
この歌も、素直に心の動くままに言葉を使って行き、取りたてて技巧を弄《ろう》していないところに感の深いものがある。「置きて」という表現は、他にも、「大和を置きて」、「みやこを置きて」などの例もあり、注意すべき表現である。結句の、「見えずかもあらむ」の「見えず」というのも、感覚に直接で良く、この類似の表現は万葉に多い。
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うらさぶる情《こころ》さまねしひさかたの天《あめ》の時雨《しぐれ》の流《なが》らふ見《み》れば 〔巻一・八二〕 長田王
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詞書《ことばがき》には和銅五年夏四月|長田王《ながたのおおきみ》(長親王《ながのみこ》の御子か)が、伊勢の山辺《やまべ》の御井《みい》(山辺離宮の御井か壱志郡新家村か)で詠まれたようになっているが、原本の左注に、この歌はどうもそれらしくない、疑って見れば其当時誦した古歌であろうと云っているが、季節も初夏らしくない。ウラサブルは「心寂《こころさび》しい」意。サマネシはサは接頭語、マネシは「多い」、「頻《しき》り」等の語に当る。ナガラフはナガルという良《ら》行下二段の動詞を二たび波《は》行下二段に活用せしめた。事柄の時間的継続をあらわすこと、チル(散る)からチラフとなる場合などと同じである。
一首の意は、天から時雨《しぐれ》の雨が降りつづくのを見ると、うら寂《さび》しい心が絶えずおこって来る、というのである。
時雨は多くは秋から冬にかけて降る雨に使っているから、やはり其時この古歌を誦したものであろうか。旅中にあって誦するにふさわしいもので、古調のしっとりとした、はしゃがない好い味いのある歌である。事象としては「天の時雨の流らふ」だけで、上の句は主観で、それに枕詞なども入っているから、内容としては極く単純なものだが、この単純化がやがて古歌の好いところで、一首の綜合がそのために渾然《こんぜん》とするのである。雨の降るのをナガラフと云っているのなども、他にも用例があるが、響きとしても実に好い響きである。
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秋《あき》さらば今《いま》も見《み》るごと妻《つま》ごひに鹿《か》鳴《な》かむ山《やま》ぞ高野原《たかぬはら》の上《うへ》 〔巻一・八四〕 長皇子
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長皇子《ながのみこ》(天武天皇第四皇子)が志貴皇子《しきのみこ》(天智天皇第四皇子)と佐紀《さき》宮に於て宴せられた時の御歌である。御二人は従兄弟《いとこ》の関係になっている。佐紀宮は現在の生駒郡|平城《へいじょう》村、都跡《みあと》村、伏見村あたりで、長皇子の宮のあったところであろう。志貴皇子の宮は高円《たかまと》にあった。高野原は佐紀宮の近くの高地であっただろう。
一首の意は、秋になったならば、今二人で見て居るような景色の、高野原一帯に、妻を慕って鹿が鳴くことだろう、というので、なお、そうしたら、また一段の風趣となるから、二たび来られよという意もこもっている。
この歌は、「秋さらば」というのだから現在は未だ秋でないことが分かる。「鹿鳴かむ山ぞ」と将来のことを云っているのでもそれが分かる。其処に「今も見るごと」という視覚上の句が入って来ているので、種々の解釈が出来たのだが、この、「今も見るごと」という句を直ぐ「妻恋ひに」、「鹿鳴かむ山」に続けずに寧ろ、「山ぞ」、「高野原の上」の方に関係せしめて解釈せしめる方がいい。即ち、現在見渡している高野原一帯の佳景その儘に、秋になるとこの如き興に添えてそのうえ鹿の鳴く声が聞こえるという意味になる。「今も見るごと」は「現在ある状態の佳き景色の此の高野原に」というようになり、単純な視覚よりももっと広い意味になるから、そこで視覚と聴覚との矛盾を避けることが出来るのであって、他の諸学者の種々の解釈は皆不自然のようである。
この御歌は、豊かで緊密な調べを持っており、感情が濃《こま》やかに動いているにも拘《かかわ》らず、そういう主観の言葉というものが無い。それが、「鳴かむ」といい、「山ぞ」で
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