大宝二年の行幸は、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て京師に還幸になったのは十一月二十五日であるのを見れば、恐らくその年はそう寒くなかったのかも知れないのである。
また、「古にありけむ人のもとめつつ衣に摺りけむ真野の榛原」(巻七・一一六六)、「白菅の真野の榛原心ゆもおもはぬ吾し衣《ころも》に摺《す》りつ」(同・一三五四)、「住吉の岸野の榛に染《にほ》ふれど染《にほ》はぬ我やにほひて居らむ」(巻十六・三八〇一)、「思ふ子が衣摺らむに匂ひこせ島の榛原秋立たずとも」(巻十・一九六五)等の、衣摺るは、萩花の摺染《すりぞめ》ならば直ぐに出来るが、ハンの実を煎じて黒染にするのならば、さう簡単には出来ない。もっとも、攷證では、「この榛摺は木の皮をもてすれるなるべし」とあるが、これでも技術的で、この歌にふさわしくない。そこでこの二首の「榛」はハギの花であって、ハンの実でないとおもうのである。なお、「引き攀《よ》ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入《こき》れつ染《し》まば染《し》むとも」(巻八・一六四四)、「藤浪の花なつかしみ、引よぢて袖に扱入《こき》れつ、染《し》まば染《し》むとも」(巻十九・四一九二)等も、薫染の趣で、必ずしも摺染めにすることではない。つまり「衣にほはせ」の気持である。なお、榛はハギかハンかという問題で、「いざ子ども大和へはやく白菅の真野の榛原手折りてゆかむ」(巻三・二八〇)の中の、「手折りてゆかむ」はハギには適当だが、ハンには不適当である。その次の歌、「白菅の真野の榛原ゆくさ来さ君こそ見らめ真野の榛原」(同・二八一)もやはりハギの気持である。以上を綜合《そうごう》して、「引馬野ににほふ榛原」も萩の花で、現地にのぞんでの歌と結論したのであった。以上は結果から見れば皆新しい説を排して旧《ふる》い説に従ったこととなる。
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いづくにか船泊《ふなはて》すらむ安礼《あれ》の埼《さき》こぎ回《た》み行《ゆ》きし棚無《たなな》し小舟《をぶね》 〔巻一・五八〕 高市黒人
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これは高市黒人《たけちのくろひと》の作である。黒人の伝は審《つまびらか》でないが、持統文武両朝に仕えたから、大体柿本人麿と同時代である。「船泊《ふなはて》」は此処では名詞にして使っている。「安礼の埼」は参河《みかわ》国の埼であろうが現在の何処《どこ》にあたるか未だ審でない。(新居《あらい》崎だろうという説もあり、また近時、今泉氏、ついで久松氏は御津《みと》附近の岬だろうと考証した。)「棚無し小舟」は、舟の左右の舷《げん》に渡した旁板《わきいた》(※[#「木+世」、第3水準1−85−56])を舟棚《ふなたな》というから、その舟棚の無い小さい舟をいう。
一首の意は、今、参河の安礼《あれ》の埼《さき》のところを漕《こ》ぎめぐって行った、あの舟棚《ふなたな》の無い小さい舟は、いったい何処に泊《とま》るのか知らん、というのである。
この歌は旅中の歌だから、他の旅の歌同様、寂しい気持と、家郷(妻)をおもう気持と相纏《あいまつわ》っているのであるが、この歌は客観的な写生をおろそかにしていない。そして、安礼の埼といい、棚無し小舟といい、きちんと出すものは出して、そして、「何処にか船泊すらむ」と感慨を漏らしているところにその特色がある。歌調は人麿ほど大きくなく、「すらむ」などといっても、人麿のものほど流動的ではない。結句の、「棚無し小舟」の如き、四三調の名詞止めのあたりは、すっきりと緊縮させる手法である。
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いざ子《こ》どもはやく日本《やまと》へ大伴《おほとも》の御津《みつ》の浜松《はままつ》待《ま》ち恋《こ》ひぬらむ 〔巻一・六三〕 山上憶良
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山上憶良《やまのうえのおくら》が大唐《もろこし》にいたとき、本郷《ふるさと》(日本)を憶って作った歌である。憶良は文武天皇の大宝元年、遣唐大使|粟田真人《あわたのまひと》に少録として従い入唐し、慶雲元年秋七月に帰朝したから、この歌は帰りの出帆近いころに作ったもののようである。「大伴」は難波の辺一帯の地域の名で、もと大伴氏の領地であったからであろう。「大伴の高師の浜の松が根を」(巻一・六六)とあるのも、大伴の地にある高師の浜というのである。「御津」は難波の湊《みなと》のことである。そしてもっとくわしくいえば難波津よりも住吉津即ち堺であろうといわれている。
一首の意は、さあ皆のものどもよ、早く日本へ帰ろう、大伴の御津の浜のあの松原も、吾々を待ちこがれているだろうから、というのである。やはり憶良の歌に、「大伴の御津の松原かき掃きて吾《われ》立ち待たむ早帰りませ」(巻五・八九五)があり、なお、「朝なぎに真楫《まかぢ》榜《こ》ぎ出て見つつ来し御津の松原浪越しに見ゆ」(巻七・一一八五)があるから、大きい松原のあったことが分かる。
「いざ子ども」は、部下や年少の者等に対して親しんでいう言葉で、既に古事記応神巻に、「いざ児ども野蒜《ぬびる》つみに蒜《ひる》つみに」とあるし、万葉の、「いざ子ども大和へ早く白菅の真野《まぬ》の榛原《はりはら》手折りて行かむ」(巻三・二八〇)は、高市黒人の歌だから憶良の歌に前行している。「白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競《きほ》ひて萩の遊びせむ」(巻十・二一七三)もまたそうである。「いざ児ども香椎《かしひ》の潟《かた》に白妙の袖さへぬれて朝菜|採《つ》みてむ」(巻六・九五七)は旅人の歌で憶良のよりも後れている。つまり、旅人が憶良の影響を受けたのかも知れぬ。
この歌は、環境が唐の国であるから、自然にその気持も一首に反映し、そういう点で規模の大きい歌だと謂うべきである。下の句の歌調は稍|弛《たる》んで弱いのが欠点で、これは他のところでも一言触れて置いたごとく、憶良は漢学に達していたため、却って日本語の伝統的な声調を理会することが出来なかったのかも知れない。一首としてはもう一歩緊密な度合の声調を要求しているのである。後年、天平八年の遣新羅国使等の作ったものの中に、「ぬばたまの夜明《よあか》しも船は榜《こ》ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ」(巻十五・三七二一)、「大伴の御津の泊《とまり》に船|泊《は》てて立田の山を何時か越え往《い》かむ」(同・三七二二)とあるのは、この憶良の歌の模倣である。なお、大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》の歌に、「ひさかたの天の露霜置きにけり宅《いへ》なる人も待ち恋ひぬらむ」(巻四・六五一)というのがあり、これも憶良の歌の影響があるのかも知れぬ。斯くの如く憶良の歌は当時の人々に尊敬せられたのは、恐らく彼は漢学者であったのみならず、歌の方でもその学者であったからだとおもうが、そのあたりの歌は、一般に分かり好くなり、常識的に合理化した声調となったためとも解釈することが出来る。即ち憶良のこの歌の如きは、細かい顫動《せんどう》が足りない、而してたるんでいるところのあるものである。
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葦《あし》べ行く鴨の羽《は》がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ 〔巻一・六四〕 志貴皇子
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文武天皇が慶雲三年(九月二十五日から十月十二日まで)難波《なにわ》宮に行幸あらせられたとき志貴皇子《しきのみこ》(天智天皇の第四皇子、霊亀二年薨)の詠まれた御歌である。難波宮のあったところは現在明かでない。
大意。難波の地に旅して、そこの葦原に飛びわたる鴨の翼《はね》に、霜降るほどの寒い夜には、大和の家郷がおもい出されてならない。鴨でも共寝をするのにという意も含まれている。
「葦べ行く鴨」という句は、葦べを飛びわたる字面であるが、一般に葦べに住む鴨の意としてもかまわぬだろう。「葦べゆく鴨の羽音のおとのみに」(巻十二・三〇九〇)、「葦べ行く雁の翅《つばさ》を見るごとに」(巻十三・三三四五)、「鴨すらも己《おの》が妻どちあさりして」(巻十二・三〇九一)等の例があり、参考とするに足る。
志貴皇子の御歌は、その他のもそうであるが、歌調明快でありながら、感動が常識的粗雑に陥るということがない。この歌でも、鴨の羽交《はがい》に霜が置くというのは現実の細かい写実といおうよりは一つの「感」で運んでいるが、その「感」は空漠《くうばく》たるものでなしに、人間の観察が本となっている点に強みがある。そこで、「霜ふりて」と断定した表現が利くのである。「葦べ行く」という句にしても稍《やや》ぼんやりしたところがあるけれども、それでも全体としての写象はただのぼんやりではない。
集中には、「埼玉《さきたま》の小埼の沼に鴨ぞ翼《はね》きる己が尾に零《ふ》り置ける霜を払ふとならし」(巻九・一七四四)、「天飛ぶや雁の翅《つばさ》の覆羽《おほひは》の何処《いづく》もりてか霜の降りけむ」(巻十・二二三八)、「押し照る難波ほり江の葦べには雁|宿《ね》たるかも霜の零《ふ》らくに」(同・二一三五)等の歌がある。
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あられうつ安良礼松原《あられまつばら》住吉《すみのえ》の弟日娘《おとひをとめ》と見《み》れど飽《あ》かぬかも 〔巻一・六五〕 長皇子
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長皇子《ながのみこ》(天武天皇第四皇子)が、摂津の住吉海岸、安良礼松原で詠まれた御歌で、其処にいた弟日娘《おとひおとめ》という美しい娘と共に松原を賞したもうた時の御よろこびである。この歌の「と」の用法につき、あられ松原と[#「と」に白丸傍点]弟日娘と[#「と」に白丸傍点]両方とも見れど飽きないと解く説もある。娘は遊行女婦《うかれめ》であったろうから、美しかったものであろう。初句の、「あられうつ」は、下の「あられ」に懸けた枕詞で、皇子の造語と看做《みな》していい。一首は、よい気持になられての即興であろうが、不思議にも軽浮に艶めいたものがなく、寧ろ勁健《けいけん》とも謂《い》うべき歌調である。これは日本語そのものがこういう高級なものであったと解釈することも可能なので、自分はその一代表のつもりで此歌を選んで置いた。「見れど飽かぬかも」の句は万葉に用例がなかなか多い。「若狭《わかさ》なる三方の海の浜|清《きよ》みい往き還らひ見れど飽かぬかも」(巻七・一一七七)、「百伝ふ八十《やそ》の島廻《しまみ》を榜《こ》ぎ来れど粟の小島し見れど飽かぬかも」(巻九・一七一一)、「白露を玉になしたる九月《ながつき》のありあけの月夜《つくよ》見れど飽かぬかも」(巻十・二二二九)等、ほか十五、六の例がある。これも写生によって配合すれば現代に活かすことが出来る。
この歌の近くに、清江娘子《すみのえのおとめ》という者が長皇子に進《たてまつ》った、「草枕旅行く君と知らませば岸《きし》の埴土《はにふ》ににほはさましを」(巻一・六九)という歌がある。この清江娘子は弟日娘子《おとひおとめ》だろうという説があるが、或は娘子は一人のみではなかったのかも知れない。住吉の岸の黄土で衣を美しく摺《す》って記念とする趣である。「旅ゆく」はいよいよ京へお帰りになることで、名残を惜しむのである。情緒が纏綿《てんめん》としているのは、必ずしも職業的にのみこの媚態《びたい》を示すのではなかったであろう。またこれを万葉巻第一に選び載せた態度もこだわりなくて円融《えんゆう》とも称すべきものである。
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大和《やまと》には鳴《な》きてか来《く》らむ呼子鳥《よぶこどり》象《きさ》の中山《なかやま》呼《よ》びぞ越《こ》ゆなる 〔巻一・七〇〕 高市黒人
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持統天皇が吉野の離宮に行幸せられた時、扈従《こじゅう》して行った高市連黒人《たけちのむらじくろひと》が作った。呼子鳥はカッコウかホトトギスか、或は両者ともにそう云われたか、未だ定説が無いが、カッコウ(閑古鳥)を呼子鳥と云った場合が最も多いようである。「象の中山」
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