万葉秀歌
斎藤茂吉
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)我国《わがくに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三百首選二百首選一百首選|乃至《ないし》五十首選
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)古兄※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]湯気《コエテユケ》
[#…]:返り点
(例)庚戌泊[#二]干伊豫熟田津石湯行宮[#一]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)御[#(ノ)]字
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なよ/\
−−
序
万葉集は我国《わがくに》の大切な歌集で、誰でも読んで好いものとおもうが、何せよ歌の数が四千五百有余もあり、一々注釈書に当ってそれを読破しようというのは並大抵のことではない。そこで選集を作って歌に親しむということも一つの方法だから本書はその方法を採った。選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、数は先ず全体の一割ぐらいの見込で、長歌は罷《や》めて短歌だけにしたから、万葉の短歌が四千二百足らずあるとして大体一割ぐらい選んだことになろうか。
本書はそのような標準にしたが、これは国民全般が万葉集の短歌として是非知って居らねばならぬものを出来るだけ選んだためであって、万人向きという意図はおのずから其処《そこ》に実行せられているわけである。ゆえに専門家的に漸《ようや》く標準を高めて行き、読者諸氏は本書から自由に三百首選二百首選一百首選|乃至《ないし》五十首選をも作ることが出来る。それだけの余裕を私は本書のなかに保留して置いた。
そうして選んだ歌に簡単な評釈を加えたが、本書の目的は秀歌の選出にあり、歌が主で注釈が従、評釈は読者諸氏の参考、鑑賞の助手の役目に過ぎないものであって、而《しか》して今は専門学者の高級にして精到な注釈書が幾つも出来ているから、私の評釈の不備な点は其等《それら》から自由に補充することが出来る。
右のごとく歌そのものが主眼、評釈はその従属ということにして、一首一首が大切なのだから飽くまで一首一首に執着して、若し大体の意味が呑込《のみこ》めたら、しばらく私の評釈の文から離れ歌自身について反復熟読せられよ。読者諸氏は本書を初から順序立てて読まれても好《よ》し、行き当りばったりという工合に頁《ページ》を繰って出た歌だけを読まれても好し、忙しい諸氏は労働のあいま田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前等々に於て、一、二首或は二、三首乃至十首ぐらいずつ読まれることもまた可能である。要は繰返して読み一首一首を大切に取扱って、早読して以て軽々しく取扱われないことを望むのである。
本書では一首一首に執着するから、いわゆる万葉の精神、万葉の日本的なもの、万葉の国民性などいうことは論じていない。これに反して一助詞がどう一動詞がどう第三句が奈何《いかん》結句が奈何というようなことを繰返している。読者諸氏は此等《これら》の言に対してしばらく耐忍せられんことをのぞむ。万葉集の傑作といい秀歌と称するものも、地を洗って見れば決して魔法のごとく不可思議なものでなく、素直で当り前な作歌の常道を踏んでいるのに他ならぬという、その最も積極的な例を示すためにいきおいそういう細かしきことになったのである。
本書で試みた一首一首の短評中には、先師ほか諸学者の結論が融込《とけこ》んでいること無論であるが、つまりは私の一家見ということになるであろう。そうして万人向きな、誰《たれ》にも分かる「万葉集入門」を意図したのであったのだけれども、いよいよとなれば仮借しない態度を折に触れつつ示した筈《はず》である。昭和十三年八月二十九日斎藤茂吉。
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
参照注釈書略表
抄…………仙覚「万葉集抄」
拾穂抄……北村季吟「万葉拾穂抄」
代匠記……契沖「万葉代匠記」
僻案抄……荷田春満「万葉集僻案抄」
考…………賀茂真淵「万葉考」
槻落葉……荒木田久老「万葉考槻落葉」
略解………橘千蔭「万葉集略解」
燈…………富士谷御杖「万葉集燈」
攷證………岸本由豆流「万葉集攷證」
檜嬬手……橘守部「万葉集檜嬬手」
緊要………橘守部「万葉集緊要」
古義………鹿持雅澄「万葉集古義」
美夫君志…木村正辞「万葉集美夫君志」
註疏………近藤芳樹「万葉集註疏」
新釈………伊藤左千夫「万葉集新釈」
新考………井上通泰「万葉集新考」
選釈………佐佐木信綱「万葉集選釈」
新解………武田祐吉「万葉集新解」
新講………次田潤「万葉集新講」
講義………山田孝雄「万葉集講義」
総釈………楽浪書院版「万葉集総釈」
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
巻第一
○
[#ここから5字下げ]
たまきはる宇智《うち》の大野《おほぬ》に馬《うま》並《な》めて朝《あさ》踏《ふ》ますらむその草《くさ》深野《ふかぬ》 〔巻一・四〕 中皇命
[#ここで字下げ終わり]
舒明《じょめい》天皇が、宇智野《うちぬ》、即《すなわ》ち大和|宇智《うち》郡の野(今の五条町の南、阪合部《さかあいべ》村)に遊猟したもうた時、中皇命《なかちすめらみこと》が間人連老《はしびとのむらじおゆ》をして献《たてまつ》らしめた長歌の反歌である。中皇命は未詳だが、賀茂真淵《かものまぶち》は荷田春満《かだのあずままろ》の説に拠《よ》り、「皇」の下に「女」を補って、「中皇女命《なかつひめみこのみこと》」と訓《よ》み、舒明天皇の皇女で、のち、孝徳天皇の后に立ちたもうた間人《はしびと》皇后だとし、喜田博士は皇后で後天皇になられた御方だとしたから、此処では皇極《こうぎょく》(斉明《さいめい》)天皇に当らせられる。即ち前説に拠れば舒明の皇女、後説に拠れば舒明の皇后ということになる。間人連老は孝徳天皇紀|白雉《はくち》五年二月遣唐使の判官に「間人連老」とあるその人であろう。次に作者は中皇命か間人連老か両説あるが、これは中皇命の御歌であろう。縦《よ》しんば間人連老の作という仮定をゆるすとしても中皇命の御心を以て作ったということになる。間人連老の作だとする説は、題詞に「御歌」となくしてただ「歌」とあるがためだというのであるが、これは編輯《へんしゅう》当時既に「御」を脱していたのであろう。考《こう》に、「御字を補ひつ」と云ったのは恣《ほしいまま》に過ぎた観があっても或《あるい》は真相を伝えたものかも知れない。「中大兄三山歌」(巻一・一三)でも「御」の字が無い。然るにこの三山歌は目録には「中大兄三山御歌」と「御」が入っているに就き、代匠記には「中大兄ハ天智天皇ナレバ尊《みこと》トカ皇子《みこ》トカ有《あり》ヌベキニヤ。傍例ニヨルニ尤《もっとも》有《ある》ベシ。三山ノ下ニ目録ニハ御ノ字アリ。脱セルカ」と云っている如く、古くから本文に「御」字の無い例がある。そして、「万葉集はその原本の儘《まま》に伝はり、改刪《かいさん》を経ざるものなるを思ふべし」(講義)を顧慮すると、目録の方の「御」は目録作製の時につけたものとも取れる。なお、この「御字」につき、「御字なきは転写のとき脱せる歟《か》。但天皇に献り給ふ故に、献御歌とはかゝざる歟《か》なるべし」(僻案抄《へきあんしょう》)、「御歌としるさざるは、此は天皇に対し奉る所なるから、殊更に御[#(ノ)]字をばかゝざりしならんか」(美夫君志《みぶくし》)等の説をも参考とすることが出来る。
それから、攷證《こうしょう》で、「この歌もし中皇命の御歌ならば、そを奉らせ給ふを取次せし人の名を、ことさらにかくべきよしなきをや」と云って、間人連老の作だという説に賛成しているが、これも、老《おゆ》が普通の使者でなくもっと中皇命との関係の深いことを示すので、特にその名を書いたと見れば解釈がつき、必ずしも作者とせずとも済むのである。考の別記に、「御歌を奉らせ給ふも老は御乳母の子などにて御|睦《むつまじ》き故としらる」とあるのは、事実は問わずとも、その思考の方嚮《ほうこう》には間違は無かろうとおもう。諸注のうち、二説の分布状態は次の如くである。中皇命作説(僻案抄・考・略解《りゃくげ》・燈《ともしび》・檜嬬手《ひのつまで》・美夫君志・左千夫新釈・講義)、間人連老作説(拾穂抄《しゅうすいしょう》・代匠記・古義・攷證《こうしょう》・新講・新解・評釈)。「たまきはる」は命《いのち》、内《うち》、代《よ》等にかかる枕詞であるが諸説があって未詳である。仙覚・契沖《けいちゅう》・真淵らの霊極《たまきはる》の説、即ち、「タマシヒノキハマル内の命」の意とする説は余り有力でないようだが、つまりは其処に落着くのではなかろうか。なお宣長《のりなが》の「あら玉|来経《きふ》る」説、即ち年月の経過する現《うつ》という意。久老《ひさおい》の「程《たま》来経《きふ》る」説。雅澄《まさずみ》の「手纏《たま》き佩《は》く」説等がある。宇智《うち》と内《うち》と同音だからそう用いた。
一首の意は、今ごろは、〔たまきはる〕(枕詞)宇智の大きい野に沢山の馬をならべて朝の御猟をしたまい、その朝草を踏み走らせあそばすでしょう。露の一ぱいおいた草深い野が目に見えるようでございます、という程の御歌である。代匠記に、「草深キ野ニハ鹿ヤ鳥ナドノ多ケレバ、宇智野ヲホメテ再《ふたたび》云也《いふなり》」。古義に、「けふの御かり御|獲物《えもの》多くして御興|尽《つき》ざるべしとおぼしやりたるよしなり」とある。
作者が皇女でも皇后でも、天皇のうえをおもいたもうて、その遊猟の有様に聯想《れんそう》し、それを祝福する御心持が一首の響に滲透《しんとう》している。決して代作態度のよそよそしいものではない。そこで代作説に賛成する古義でも、「此|題詞《ハシツクリ》のこゝろは、契沖も云るごとく、中皇女のおほせによりて間人連老が作《ヨミ》てたてまつれるなるべし。されど意はなほ皇女の御意を承りて、天皇に聞えあげたるなるべし」と云っているのは、この歌の調べに云うに云われぬ愛情の響があるためで、古義は理論の上では間人連老の作だとしても、鑑賞の上では、皇女の御意云々を否定し得ないのである。此一事軽々に看過してはならない。それから、この歌はどういう形式によって献られたかというに、「皇女のよみ給ひし御歌を老《オユ》に口誦《クジユ》して父天皇の御前にて歌はしめ給ふ也」(檜嬬手)というのが真に近いであろう。
一首は、豊腴《ほうゆ》にして荘潔、些《いささか》の渋滞なくその歌調を完《まっと》うして、日本古語の優秀な特色が隈《くま》なくこの一首に出ているとおもわれるほどである。句割れなどいうものは一つもなく、第三句で「て」を置いたかとおもうと、第四句で、「朝踏ますらむ」と流動的に据えて、小休止となり、結句で二たび起して重厚荘潔なる名詞止にしている。この名詞の結句にふかい感情がこもり余響が長いのである。作歌当時は言語が極《きわ》めて容易に自然にこだわりなく運ばれたとおもうが、後代の私等には驚くべき力量として迫って来るし、「その」などという続けざまでも言語の妙いうべからざるものがある。長歌といいこの反歌といい、万葉集中最高峰の一つとして敬うべく尊むべきものだとおもうのである。
この長歌は、「やすみしし吾《わが》大王《おほきみ》の、朝《あした》にはとり撫《な》でたまひ、夕《ゆふべ》にはい倚《よ》り立たしし、御執《みと》らしの梓弓《あずさのゆみ》の、長弭《ながはず》(中弭《なかはず》)の音すなり、朝猟《あさかり》に今立たすらし、暮猟《ゆふかり》に今立たすらし、御執《みと》らしの梓弓の、長弭(中弭)の音すなり」(巻一・三)というのである。これも流動声調で、繰返しによって進行せしめている点は驚くべきほど優秀である。朝猟夕猟と云ったのは、声調のためであるが、実は、朝猟も夕猟もその時なされたと解することも出来るし、支那の古詩にもこの朝猟夕猟と
次へ
全54ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング