続けた例がある。梓弓はアヅサユミノと六音で読む説が有力だが、「安都佐能由美乃《アヅサユミノ》」(巻十四・三五六七)によって、アヅサノユミノと訓んだ。その方が口調がよいからである。なお参考歌には、天武天皇御製に、「その[#「その」に白丸傍点]雪の時なきが如《ごと》、その[#「その」に白丸傍点]雨の間なきが如《ごと》、隈《くま》もおちず思ひつつぞ来る、その[#「その」に白丸傍点]山道を」(巻一・二五)がある。なお山部赤人の歌に、「朝猟に鹿猪《しし》履《ふ》み起し、夕狩に鳥ふみ立て、馬|並《な》めて御猟ぞ立たす、春の茂野《しげぬ》に」(巻六・九二六)がある。赤人のには此歌の影響があるらしい。「馬なめて」もよい句で、「友なめて遊ばむものを、馬なめて往《ゆ》かまし里を」(巻六・九四八)という用例もある。
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山越《やまごし》の風《かぜ》を時《とき》じみ寝《ぬ》る夜《よ》落《お》ちず家《いへ》なる妹《いも》をかけて偲《しぬ》びつ 〔巻一・六〕 軍王
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舒明天皇が讃岐《さぬき》国|安益《あや》郡に行幸あった時、軍王《いくさのおおきみ》の作った長歌の反歌である。軍王の伝は不明であるが、或は固有名詞でなく、大将軍《いくさのおおきみ》のことかも知れない(近時題詞の軍王見山を山の名だとする説がある)。天皇の十一年十二月伊豫の温湯《ゆ》の宮《みや》に行幸あったから、そのついでに讃岐安益郡(今の綾歌《あやうた》郡)にも立寄られたのであっただろうか。「時じみ」は非時、不時などとも書き、時ならずという意。「寝る夜おちず」は、寝る毎晩毎晩欠かさずにの意。「かけて」は心にかけての意である。
一首の意は、山を越して、風が時ならず吹いて来るので、ひとり寝る毎夜毎夜、家に残っている妻を心にかけて思い慕うた、というのである。言葉が順当に運ばれて、作歌感情の極めて素直にあらわれた歌であるが、さればといって平板に失したものでなく、捉《とら》うべきところは決して免《の》がしてはいない。「山越しの風」は山を越して来る風の意だが、これなども、正岡子規が嘗《かつ》て注意した如く緊密で巧《たくみ》な云い方で、この句があるために、一首が具体的に緊《し》まって来た。この語には、「朝日かげにほへる山に照る月の飽かざる君を山越《やまごし》に置きて」(巻四・四九五)の例が参考となる。また、「かけて偲ぶ」という用例は、その他の歌にもあるが、心から離さずにいるという気持で、自然的に同感を伴うために他にも用例が出来たのである。併しこの「懸く」という如き云《い》い方はその時代に発達した云い方であるので、現在の私等が直ちにそれを取って歌語に用い、心の直接性を得るという訣《わけ》に行かないから、私等は、語そのものよりも、その語の出来た心理を学ぶ方がいい。なおこの歌で学ぶべきは全体としてのその古調である。第三句の字余りなどでもその破綻《はたん》を来さない微妙な点と、「風を時じみ」の如く圧搾《あっさく》した云い方と、結句の「つ」止めと、そういうものが相待って綜合《そうごう》的な古調を成就しているところを学ぶべきである。第三句の字余りは、人麿の歌にも、「幸《さき》くあれど」等があるが、後世の第三句の字余りとは趣がちがうので破綻|云々《うんぬん》と云った。「つ」止めの参考歌には、「越の海の手結《たゆひ》の浦を旅にして見ればともしみ大和しぬびつ」(巻三・三六七)等がある。
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秋《あき》の野《ぬ》のみ草苅《くさか》り葺《ふ》き宿《やど》れりし兎道《うぢ》の宮処《みやこ》の仮廬《かりいほ》し思《おも》ほゆ 〔巻一・七〕 額田王
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額田王《ぬかだのおおきみ》の歌だが、どういう時に詠《よ》んだものか審《つまびら》かでない。ただ兎道《うじ》は山城の宇治で、大和と近江との交通路に当っていたから、行幸などの時に仮の御旅宿を宇治に設けたもうたことがあったのであろう。その時額田王は供奉《ぐぶ》し、後に当時を追懐して詠んだものと想像していい。額田王は、額田姫王と書紀にあるのと同人だとすると、額田王は鏡王《かがみのおおきみ》の女で、鏡女王《かがみのおおきみ》の妹であったようだ。初め大海人皇子《おおあまのみこ》と御婚《みあい》して十市皇女《とおちのひめみこ》を生み、ついで天智天皇に寵《ちょう》せられ近江京に行っていた。「かりいほ」は、原文「仮五百《かりいほ》」であるが真淵の考《こう》では、カリホと訓んだ。
一首の意。嘗《かつ》て天皇の行幸に御伴をして、山城の宇治で、秋の野のみ草(薄《すすき》・萱《かや》)を刈って葺《ふ》いた行宮《あんぐう》に宿《やど》ったときの興深かったさまがおもい出されます。
この歌は、独詠的の追懐であるか、或は対者にむかってこういうことを云ったものか不明だが、単純な独詠ではないようである。意味の内容がただこれだけで取りたてていうべき曲が無いが、単純素朴のうちに浮んで来る写象は鮮明で、且つその声調は清潔である。また単純な独詠歌でないと感ぜしめるその情味が、この古調の奥から伝わって来るのをおぼえるのである。この古調は貴むべくこの作者は凡ならざる歌人であった。
歌の左注に、山上憶良《やまのうえのおくら》の類聚歌林《るいじゅうかりん》に、一書によれば、戊申年《つちのえさるのとし》、比良宮に行幸の時の御製云々とある。この戊申の歳を大化四年とすれば、孝徳天皇の御製ということになるが、今は額田王の歌として味うのである。題詞等につき、万葉の編輯当時既に異伝があったこと斯くの如くである。
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熟田津《にぎたづ》に船乗《ふなの》りせむと月待《つきま》てば潮《しほ》もかなひぬ今《いま》は榜《こ》ぎ出《い》でな 〔巻一・八〕 額田王
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斉明天皇が(斉明天皇七年正月)新羅《しらぎ》を討ちたまわんとして、九州に行幸せられた途中、暫時伊豫の熟田津《にぎたづ》に御滞在になった(熟田津|石湯《いわゆ》の行宮)。其時お伴をした額田王の詠んだ歌である。熟田津という港は現在何処かというに、松山市に近い三津浜だろうという説が有力であったが、今はもっと道後温泉に近い山寄りの地(御幸寺山附近)だろうということになっている。即ち現在はもはや海では無い。
一首の意は、伊豫の熟田津で、御船が進発しようと、月を待っていると、いよいよ月も明月となり、潮も満ちて船出するのに都合好くなった。さあ榜ぎ出そう、というのである。
「船乗り」は此処ではフナノリという名詞に使って居り、人麿の歌にも、「船乗りすらむをとめらが」(巻一・四〇)があり、また、「播磨国より船乗して」(遣唐使時奉幣祝詞)という用例がある。また、「月待てば」は、ただ月の出るのを待てばと解する説もあるが、此は満潮を待つのであろう。月と潮汐とには関係があって、日本近海では大体月が東天に上るころ潮が満始るから、この歌で月を待つというのはやがて満潮を待つということになる、また書紀の、「庚戌泊[#二]于伊豫熟田津石湯行宮[#一]」とある庚戌《かのえいぬ》は十四日に当る。三津浜では現在陰暦の十四日頃は月の上る午後七、八時頃八合満となり午後九時前後に満潮となるから、此歌は恰《あたか》も大潮の満潮に当ったこととなる。すなわち当夜は月明であっただろう。月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に稀なる秀歌として現出した。そして五句とも句割がなくて整調し、句と句との続けに、「に」、「と」、「ば」、「ぬ」等の助詞が極めて自然に使われているのに、「船乗せむと[#「せむと」に白丸傍点]」、「榜ぎいでな[#「いでな」に白丸傍点]」という具合に流動の節奏を以て緊《し》めて、それが第二句と結句である点などをも注意すべきである。結句は八音に字を余し、「今は」というのも、なかなか強い語である。この結句は命令のような大きい語気であるが、縦《たと》い作者は女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきとしてこの表現があるのである。供奉応詔歌の真髄もおのずからここに存じていると看《み》ればいい。
結句の原文は、「許芸乞菜」で、旧訓コギコナであったが、代匠記初稿本で、「こぎ出なとよむべきか」という一訓を案じ、万葉集燈でコギイデナと定めるに至った。「乞」をイデと訓《よ》む例は、「乞我君《イデアギミ》」、「乞我駒《イデワガコマ》」などで、元来さあさあと促がす詞《ことば》であるのだが「出で」と同音だから借りたのである。一字の訓で一首の価値に大影響を及ぼすこと斯くの如くである。また初句の「熟田津に」の「に」は、「に於《おい》て」の意味だが、橘守部《たちばなのもりべ》は、「に向って」の意味に解したけれどもそれは誤であった。斯《か》く一助詞の解釈の差で一首の意味が全く違ってしまうので、訓詁《くんこ》の学の大切なことはこれを見ても分かる。
なお、この歌は山上憶良の類聚歌林に拠《よ》ると、斉明天皇が舒明天皇の皇后であらせられた時一たび天皇と共に伊豫の湯に御いでになられ、それから斉明天皇の九年に二たび伊豫の湯に御いでになられて、往時を追懐遊ばされたとある。そうならば此歌は斉明天皇の御製であろうかと左注で云っている。若しそれが本当で、前に出た宇智野の歌の中皇命が斉明天皇のお若い時(舒明皇后)だとすると、この秀歌を理会するにも便利だとおもうが、此処では題どおりに額田王の歌として鑑賞したのであった。
橘守部は、「熟田津に」を「に向って」と解し、「此歌は備前の大伯《オホク》より伊与の熟田津へ渡らせ給ふをりによめるにこそ」と云ったが、それは誤であった。併し、「に」に方嚮《ほうこう》(到着地)を示す用例は無いかというに、やはり用例はあるので、「粟島《あはしま》に漕ぎ渡らむと思へども明石《あかし》の門浪《となみ》いまだ騒げり」(巻七・一二〇七)。この歌の「に」は方嚮を示している。
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紀《き》の国《くに》の山《やま》越《こ》えて行《ゆ》け吾《わ》が背子《せこ》がい立《た》たせりけむ厳橿《いつかし》がもと 〔巻一・九〕 額田王
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紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之《ワガセコガ》、射立為兼《イタタセリケム》、五可新何本《イツカシガモト》」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂《い》っていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿《いつかし》が本《もと》」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿《いつかし》は厳《おごそ》かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗《かつ》て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以[#二]倭姫命[#一]為[#二]御杖[#一]貢[#二]奉於天照大神[#一]是以倭姫命以[#二]天照大神[#(ヲ)][#一]鎮[#二]坐磯城[#(ノ)]厳橿之本[#一]とあり、古事記雄略巻に、美母呂能《ミモロノ》、伊都加斯賀母登《イツカシガモト》、加斯賀母登《カシガモト》、由由斯伎加母《ユユシキカモ》、加志波良袁登売《カシハラヲトメ》、云々とある如
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