要)の如きがある。けれどもそういう説は一つの穿《うが》ちに過ぎないとおもう。この歌は集中佳作の一つであるが、興に乗じて一気に表出したという種類のもので、沈潜重厚の作というわけには行かない。同じく句の繰返しがあっても前出天智天皇の、「妹が家も継ぎて見ましを」の御製の方がもっと重厚である。これは作歌の態度というよりも性格ということになるであろうか、そこで、守部の説は穿ち過ぎたけれども、「戯れ給へる也」というところは一部当っている。

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わが里《さと》に大雪《おほゆき》降《ふ》れり大原《おほはら》の古《ふ》りにし里《さと》に降《ふ》らまくは後《のち》 〔巻二・一〇三〕 天武天皇
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 天武天皇が藤原夫人《ふじわらのぶにん》に賜わった御製である。藤原夫人は鎌足の女《むすめ》、五百重娘《いおえのいらつめ》で、新田部皇子《にいたべのみこ》の御母、大原大刀自《おおはらのおおとじ》ともいわれた方である。夫人《ぶにん》は後宮に仕える職の名で、妃に次ぐものである。大原は今の高市《たかいち》郡|飛鳥《あすか》村|小原《おはら》の地である。
 一首は、こちらの里には今日大雪が降った、まことに綺麗だが、おまえの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だろう、というのである。
 天皇が飛鳥の清御原《きよみはら》の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂わば即興の戯れであるけれども、親しみの御語気さながらに出ていて、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。然かもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌には無くなっている。つまり人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっているのである。

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わが岡《をか》の※[#「靈」の「巫」に代えて「龍」、第3水準1−94−88]神《おかみ》に言《い》ひて降《ふ》らしめし雪《ゆき》の摧《くだけ》し其処《そこ》に散《ち》りけむ 〔巻二・一〇四〕 藤原夫人
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 藤原夫人《ふじわらのぶにん》が、前の御製に和《こた》え奉ったものである。※[#「靈」の「巫」に代えて「龍」、第3水準1−94−88]神《おかみ》というのは支那ならば竜神のことで、水や雨雪を支配する神である。一首の意は、陛下はそうおっしゃいますが、そちらの大雪とおっしゃるのは、実はわたくしが岡の※[#「靈」の「巫」に代えて「龍」、第3水準1−94−88]神に御祈して降らせました雪の、ほんの摧《くだ》けが飛ばっちりになったに過ぎないのでございましょう、というのである。御製の御|揶揄《やゆ》に対して劣らぬユウモアを漂わせているのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。歌としては御製の方が優るが、天皇としては、こういう女性的な和え歌の方が却って御喜になられたわけである。

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我《わ》が背子《せこ》を大和《やまと》へ遣《や》ると小夜《さよ》更《ふ》けてあかとき露《つゆ》にわが立《た》ち霑《ぬ》れし 〔巻二・一〇五〕 大伯皇女
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 大津皇子《おおつのみこ》(天武天皇第三皇子)が窃《ひそ》かに伊勢神宮に行かれ、斎宮|大伯皇女《おおくのひめみこ》に逢われた。皇子が大和に帰られる時皇女の詠まれた歌である。皇女は皇子の同母姉君の関係にある。
 一首は、わが弟の君が大和に帰られるを送ろうと夜ふけて立っていて暁の露に霑れた、というので、暁は、原文に鶏鳴露《アカトキツユ》とあるが、鶏鳴《けいめい》(四更|丑刻《うしのこく》)は午前二時から四時迄であり、また万葉に五更露爾《アカトキツユニ》(巻十・二二一三)ともあって、五更《ごこう》(寅刻《とらのこく》)は午前四時から六時迄であるから、夜の更《ふけ》から程なく暁《あかとき》に続くのである。そこで、歌の、「さ夜ふけてあかとき露に」の句が理解出来るし、そのあいだ立って居られたことをも示して居るのである。
 大津皇子は天武天皇崩御の後、不軌《ふき》を謀ったのが露《あら》われて、朱鳥《あかみとり》元年十月三日死を賜わった。伊勢下向はその前後であろうと想像せられて居るが、史実的には確かでなく、単にこの歌だけを読めば恋愛(親愛)情調の歌である。併し、別離の情が切実で、且つ寂しい響が一首を流れているのをおもえば、そういう史実に関係あるものと仮定しても味うことの出来る歌である。「わが背子」は、普通恋人または夫《おっと》のことをいうが、この場合は御弟を「背子」と云っている。親しんでいえば同一に帰着するからである。「大和へやる」の「やる」という語も注意すべきもので、単に、「帰る」とか「行く」とかいうのと違って、自分の意志が活《はたら》いている。名残惜しいけれども帰してやるという意志があり、そこに強い感動がこもるのである。「かへし遣る使なければ」(巻十五・三六二七)、「この吾子《あこ》を韓国《からくに》へ遣るいはへ神たち」(巻十九・四二四〇)等の例がある。

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二人《ふたり》行《ゆ》けど行《ゆ》き過《す》ぎがたき秋山《あきやま》をいかにか君《きみ》がひとり越《こ》えなむ 〔巻二・一〇六〕 大伯皇女
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 大伯皇女《おおくのひめみこ》の御歌で前の歌の続と看做《みな》していい。一首の意は、弟の君と一しょに行ってもうらさびしいあの秋山を、どんな風《ふう》にして今ごろ弟の君はただ一人で越えてゆかれることか、というぐらいの意であろう。前の歌のうら悲しい情調の連鎖としては、やはり悲哀の情調となるのであるが、この歌にはやはり単純な親愛のみで解けないものが底にひそんでいるように感ぜられる。代匠記に、「殊ニ身ニシムヤウニ聞ユルハ、御謀反ノ志ヲモ聞セ給フベケレバ、事ノ成《なり》ナラズモ覚束《おぼつか》ナク、又ノ対面モ如何ナラムト思召《おぼしめす》御胸ヨリ出レバナルベシ」とあるのは、或は当っているかも知れない。また、「君がひとり」とあるがただの御一人でなく御伴もいたものであろう。

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あしひきの山《やま》の雫《しづく》に妹《いも》待《ま》つとわれ立《た》ち沾《ぬ》れぬ山《やま》の雫《しづく》に 〔巻二・一〇七〕 大津皇子
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 大津皇子が石川郎女《いしかわのいらつめ》(伝未詳)に贈った御歌で、一首の意は、おまえの来るのを待って、山の木の下に立っていたものだから、木からおちる雨雫にぬれたよ、というのである。「妹待つと」は、「妹待つとて」、「妹を待とうとして、妹を待つために」である。「あしひきの」は、万葉集では巻二のこの歌にはじめて出て来た枕詞であるが、説がまちまちである。宣長の「足引城《あしひきき》」説が平凡だが一番真に近いか。「足《あし》は山の脚《あし》、引は長く引延《ひきは》へたるを云。城《き》とは凡て一構《ひとかまへ》なる地《ところ》を云て此は即ち山の平《たひら》なる処をいふ」(古事記伝)というのである。御歌は、繰返しがあるために、内容が単純になった。けれどもそのために親しみの情が却って深くなったように思えるし、それに第一その歌調がまことに快いものである。第二句の「雫に」は「沾れぬ」に続き、結句の「雫に」もまたそうである。こういう簡単な表現はいざ実行しようとするとそう容易にはいかない。
 右に石川郎女の和《こた》え奉った歌は、「吾《あ》を待つと君が沾《ぬ》れけむあしひきの山《やま》の雫《しづく》にならましものを」(巻二・一〇八)というので、その雨雫になりとうございますと、媚態を示した女らしい語気の歌である。郎女の歌は受身でも機智が働いているからこれだけの親しい歌が出来た。共に互の微笑をこめて唱和しているのだが、皇子の御歌の方がしっとりとして居るところがある。

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古《いにしへ》に恋《こ》ふる鳥《とり》かも弓弦葉《ゆづるは》の御井《みゐ》の上《うへ》より鳴《な》きわたり行《ゆ》く 〔巻二・一一一〕 弓削皇子
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 持統天皇が吉野に行幸あらせられた時、従駕の弓削皇子《ゆげのみこ》(天武天皇第六皇子)から、京に留まっていた額田王に与えられた歌である。持統天皇の吉野行幸は前後三十二回にも上るが、杜鵑《ほととぎす》の啼《な》く頃だから、持統四年五月か、五年四月であっただろう。
 一首の意は、この鳥は、過去ったころの事を思い慕うて啼く鳥であるのか、今、弓弦葉《ゆづるは》の御井《みい》のほとりを啼きながら飛んで行く、というのである。
「古《いにしへ》」即ち、過去の事といふのは、天武天皇の御事で、皇子の御父であり、吉野とも、また額田王とも御関係の深かったことであるから、そこで杜鵑を機縁として追懐せられたのが、「古に恋ふる鳥かも」という句で、簡浄の中に情緒《じょうちょ》充足し何とも言えぬ句である。そしてその下に、杜鵑の行動を写して、具体的現実的なものにしている。この関係は芸術の常道であるけれども、こういう具合に精妙に表われたものは極く稀《まれ》であることを知って置く方がいい。「弓弦葉の御井」は既に固有名詞になっていただろうが、弓弦葉(ゆずり葉)の好い樹が清泉のほとりにあったためにその名を得たので、これは、後出の、「山吹のたちよそひたる山清水」(巻二・一五八)と同様である。そして此等のものが皆一首の大切な要素として盛られているのである。「上より」は経過する意で、「より」、「ゆ」、「よ」等は多くは運動の語に続き、此処では「啼きわたり行く」という運動の語に続いている。この語なども古調の妙味実に云うべからざるものがある。既に年老いた額田王は、この御歌を読んで深い感慨にふけったことは既に言うことを須《もち》いない。この歌は人麿と同時代であろうが、人麿に無い簡勁《かんけい》にして静和な響をたたえている。
 額田王は右の御歌に「古《いにしへ》に恋ふらむ鳥は霍公鳥《ほととぎす》けだしや啼きしわが恋ふるごと」(同・一一二)という歌を以て和《こた》えている。皇子の御歌には杜鵑《ほととぎす》のことははっきり云ってないので、この歌で、杜鵑を明かに云っている。そして、額田王も亦《また》古を追慕すること痛切であるが、そのように杜鵑が啼いたのであろうという意である。この歌は皇子の歌よりも遜色があるので取立てて選抜しなかった。併し既に老境に入った額田王の歌として注意すべきものである。なぜ皇子の歌に比して遜色《そんしょく》があるかというに、和え歌は受身の位置になり、相撲ならば、受けて立つということになるからであろう。贈り歌の方は第一次の感激であり、和え歌の方はどうしても間接になりがちだからであろう。

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人言《ひとごと》をしげみ言痛《こちた》みおのが世《よ》にいまだ渡《わた》らぬ朝川《あさかは》わたる 〔巻二・一一六〕 但馬皇女
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 但馬皇女《たじまのひめみこ》(天武天皇皇女)が穂積皇子《ほづみのみこ》(天武天皇第五皇子)を慕われた歌があって、「秋の田の穂向《ほむき》のよれる片寄りに君に寄りなな言痛《こちた》かりとも」(巻二・一一四)の如き歌もある。この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、窃《ひそ》かに穂積皇子に接せられたのが露《あら》われた時の御歌である。
「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるの
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