が人の心を牽《ひ》く。特に皇女が皇子に逢うために、秘《ひそ》かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。普通女が男の許に通うことは稀だからである。

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石見《いはみ》のや高角山《たかつぬやま》の木《こ》の間《ま》よりわが振《ふ》る袖《そで》を妹《いも》見《み》つらむか 〔巻二・一三二〕 柿本人麿
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 柿本人麿が石見《いわみ》の国から妻に別れて上京する時詠んだものである。当時人麿は石見の国府(今の那賀《なか》郡|下府上府《しもこうかみこう》)にいたもののようである。妻はその近くの角《つぬ》の里《さと》(今の都濃津《つのつ》附近)にいた。高角山は角の里で高い山というので、今の島星山《しまのほしやま》であろう。角の里を通り、島星山の麓を縫うて江川《ごうのがわ》の岸に出たもののようである。
 大意。石見の高角山の山路を来てその木の間から、妻のいる里にむかって、振った私の袖を妻は見たであろうか。
 角の里から山までは距離があるから、実際は妻が見なかったかも知れないが、心の自然的なあらわれとして歌っている。そして人麿一流の波動的声調でそれを統一している。そしてただ威勢のよい声調などというのでなく、妻に対する濃厚な愛情の出ているのを注意すべきである。

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小竹《ささ》の葉《は》はみ山《やま》もさやに乱《みだ》れども吾《われ》は妹《いも》おもふ別《わか》れ来《き》ぬれば 〔巻二・一三三〕 柿本人麿
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 前の歌の続きである。人麿が馬に乗って今の邑智《おおち》郡の山中あたりを通った時の歌だと想像している。私は人麿上来の道筋をば、出雲路、山陰道を通過せしめずに、今の邑智郡から赤名越《あかなごえ》をし、備後《びんご》にいでて、瀬戸内海の船に乗ったものと想像している。
 大意。今通っている山中の笹の葉に風が吹いて、ざわめき乱《みだ》れていても、わが心はそれに紛《まぎ》れることなくただ一向《ひたすら》に、別れて来た妻のことをおもっている。
 今現在山中の笹の葉がざわめき乱れているのを、直ぐ取りあげて、それにも拘《かか》わらずただ一筋に妻をおもうと言いくだし、それが通俗に堕せないのは、一首の古調のためであり、人麿的声調のためである。そして人麿はこういうところを歌うのに決して軽妙には歌っていない。飽くまで実感に即して執拗《しつよう》に歌っているから軽妙に滑《すべ》って行かないのである。
 第三句ミダレドモは古点ミダルトモであったのを仙覚はミダレドモと訓んだ。それを賀茂真淵はサワゲドモと訓み、橘守部はサヤゲドモと訓み、近時この訓は有力となったし、「ササ[#「ササ」に白丸傍点]の葉はみ山もサヤ[#「サヤ」に白丸傍点]にサヤ[#「サヤ」に白丸傍点]げども」とサ音で調子を取っているのだと解釈しているが、これは寧《むし》ろ、「ササ[#「ササ」に白丸傍点]の葉はミヤマ[#「ミヤマ」に二重丸傍点]もサヤ[#「サヤ」に白丸傍点]にミダレ[#「ミダレ」に二重丸傍点]ども」のようにサ音とミ音と両方で調子を取っているのだと解釈する方が精《くわ》しいのである。サヤゲドモではサの音が多過ぎて軽くなり過ぎる。次に、万葉には四段に活かせたミダルの例はなく、あっても他動詞だから応用が出来ないと論ずる学者(沢瀉博士)がいて、殆ど定説にならんとしつつあるが、既にミダリニの副詞があり、それが自動詞的に使われている以上(日本書紀に濫・妄・浪等を当てている)は、四段に活用した証拠となり、古訓法華経の、「不[#二]妄《ミダリニ》開示[#一]」、古訓老子の、「不[#レ]知[#レ]常|妄《ミダリニ》作[#(シテ)]凶[#(ナリ)]」等をば、参考とすることが出来る。即ち万葉時代の人々が其等をミダリニと訓んでいただろう。そのほかミダリガハシ、ミダリゴト、ミダリゴコチ、ミダリアシ等の用例が古くあるのである。また自動詞他動詞の区別は絶対的でない以上、四段のミダルは平安朝以後のように他動詞に限られた一種の約束を人麿時代迄|溯《さかのぼ》らせることは無理である。また、此の場合の笹の葉の状態は聴覚よりも寧ろ聴覚を伴う視覚に重きを置くべきであるから、それならばミダレドモと訓む方がよいのである。若しどうしても四段に活用せしめることが出来ないと一歩を譲って、下二段に活用せしめるとしたら、古訓どおりにミダルトモと訓んでも毫《ごう》も鑑賞に差支《さしつかえ》はなく、前にあった人麿の、「ささなみの志賀の大わだヨドムトモ」(巻一・三一)の歌の場合と同じく、現在の光景でもトモと用い得るのである。声調の上からいえばミダルトモでもサヤゲドモよりも優《ま》さっている。併しミダレドモと訓むならばもっとよいのだから、私はミダレドモの訓に執着するものである。(本書は簡単を必要とするからミダル四段説は別論して置いた。)
 巻七に、「竹島の阿渡白波は動《とよ》めども(さわげども)われは家おもふ廬《いほり》悲しみ」(一二三八)というのがあり、類似しているが、人麿の歌の模倣ではなかろうか。

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青駒《あをこま》の足掻《あがき》を速《はや》み雲居《くもゐ》にぞ妹《いも》があたりを過《す》ぎて来《き》にける 〔巻二・一三六〕 柿本人麿
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 これもやはり人麿が石見から大和へのぼって来る時の歌で、第二長歌の反歌になっている。「青駒」はいわゆる青毛の馬で、黒に青みを帯びたもの、大体黒馬とおもって差支ない。白馬だという説は当らない。「足掻を速み」は馬の駈《か》けるさまである。
 一首の意は、妻の居るあたりをもっと見たいのだが、自分の乗っている青馬の駈けるのが速いので、妻のいる筈の里も、いつか空遠《そらとお》く隔ってしまった、というのである。
 内容がこれだけだが、歌柄が強く大きく、人麿的声調を遺憾なく発揮したものである。恋愛の悲哀といおうより寧ろ荘重の気に打たれると云った声調である。そこにおのずから人麿的な一つの類型も聯想せられるのだが、人麿は細々《こまごま》したことを描写せずに、真率《しんそつ》に真心をこめて歌うのがその特徴だから内容の単純化も行われるのである。「雲居にぞ」といって、「過ぎて来にける」と止めたのは実に旨い。もっともこの調子は藤原の御井の長歌にも、「雲井にぞ遠くありける」(巻一・五二)というのがある。この歌の次に、「秋山に落つる黄葉《もみぢば》しましくはな散り乱《みだ》れそ妹《いも》があたり見む」(巻二・一三七)というのがある。これも客観的よりも、心の調子で歌っている。それを嫌う人は嫌うのだが、軽浮に堕ちない点を見免《みのが》してはならぬのである。この石見から上来する時の歌は人麿としては晩年の作に属するものであろう。

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磐代《いはしろ》の浜松《はままつ》が枝《え》を引《ひ》き結《むす》び真幸《ささき》くあらば亦《また》かへり見《み》む 〔巻二・一四一〕 有間皇子
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 有間皇子《ありまのみこ》(孝徳天皇皇子)が、斉明天皇の四年十一月、蘇我赤兄《そがのあかえ》に欺《あざむ》かれ、天皇に紀伊の牟婁《むろ》の温泉(今の湯崎温泉)行幸をすすめ奉り、その留守に乗じて不軌《ふき》を企てたが、事露見して十一月五日却って赤兄のために捉《とら》えられ、九日紀の温湯《ゆ》の行宮《あんぐう》に送られて其処で皇太子中大兄の訊問《じんもん》があった。斉明紀四年十一月の条に、「於[#レ]是皇太子、親間[#二]有間皇子[#一]曰、何故謀反、答曰、天与[#二]赤兄[#一]知、吾全不[#レ]解」の記事がある。この歌は行宮へ送られる途中磐代(今の紀伊日高郡南部町岩代)海岸を通過せられた時の歌である。皇子は十一日に行宮から護送され、藤白坂で絞《こう》に処せられた。御年十九。万葉集の詞書には、「有間皇子自ら傷《かな》しみて松が枝を結べる歌二首」とあるのは、以上のような御事情だからであった。
 一首の意は、自分はかかる身の上で磐代まで来たが、いま浜の松の枝を結んで幸を祈って行く。幸に無事であることが出来たら、二たびこの結び松をかえりみよう、というのである。松枝を結ぶのは、草木を結んで幸福をねがう信仰があった。
 無事であることが出来たらというのは、皇太子の訊問に対して言い開きが出来たらというので、皇子は恐らくそれを信じて居られたのかも知れない。「天と赤兄と知る」という御一語は悲痛であった。けれども此歌はもっと哀切である。こういう万一の場合にのぞんでも、ただの主観の語を吐出《はきだ》すというようなことをせず、御自分をその儘《まま》素直にいいあらわされて、そして結句に、「またかへり見む」という感慨の語を据えてある。これはおのずからの写生で、抒情詩としての短歌の態度はこれ以外には無いと謂《い》っていいほどである。作者はただ有りの儘に写生したのであるが、後代の吾等がその技法を吟味すると種々の事が云われる。例えば第三句で、「引き結び」と云って置いて、「まさきくあらば」と続けているが、そのあいだに幾分の休止あること、「豊旗雲に入日さし」といって、「こよひの月夜」と続け、そのあいだに幾分の休止あるのと似ているごときである。こういう事が自然に実行せられているために、歌調が、後世の歌のような常識的平俗に堕《おち》ることが無いのである。

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家《いへ》にあれば笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を草枕《くさまくら》旅《たび》にしあれば椎《しひ》の葉《は》に盛《も》る 〔巻二・一四二〕 有間皇子
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 有間皇子の第二の歌である。「笥」というのは和名鈔に盛食器也とあって飯笥《いいけ》のことである。そしてその頃高貴の方の食器は銀器であっただろうと考証している(山田博士)。
 一首は、家(御殿)におれば、笥(銀器)に盛る飯をば、こうして旅を来ると椎の葉に盛る、というのである。笥をば銀の飯笥とすると、椎の小枝とは非常な差別である。
 前の御歌は、「真幸《まさき》くあらばまたかへりみむ」と強い感慨を漏らされたが、痛切複雑な御心境を、かく単純にあらわされたのに驚いたのであるが、此歌になると殆ど感慨的な語がないのみでなく、詠歎的な助詞も助動詞も無いのである。併し底を流るる哀韻を見のがし得ないのはどうしてか。吾等の常識では「草枕旅にしあれば」などと、普通|※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅《きりょ》の不自由を歌っているような内容でありながら、そういうものと違って感ぜねばならぬものを此歌は持っているのはどうしてか。これは史実を顧慮するからというのみではなく、史実を念頭から去っても同じことである。これは皇子が、生死の問題に直面しつつ経験せられた現実を直《ただち》にあらわしているのが、やがて普通の※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅とは違ったこととなったのである。写生の妙諦《みょうてい》はそこにあるので、この結論は大体間違の無いつもりである。
 中大兄皇子の、「香具《かぐ》山と耳成《みみなし》山と会ひしとき立ちて見に来し印南《いなみ》国原」(巻一・一四)という歌にも、この客観的な荘厳があったが、あれは伝説を歌ったので、「嬬《つま》を争ふらしき」という感慨を潜めていると云っても対象が対象だから此歌とは違うのである。然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして、斯《かか》る客観的荘厳を成就《じょうじゅ》せられた。
 皇子の以上の二首、特にはじめの方は時の人々を感動せしめたと見え、「磐代の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも」(巻二・一四三)、「磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ」(同・一四四、長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》)、「つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知
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