らね松は知るらむ」(同・一四五、山上憶良)、「後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも」(同・一四六、人麿歌集)等がある。併し歌は皆皇子の御歌には及ばないのは、心が間接になるからであろう。また、穂積朝臣老《ほづみのあそみおゆ》が近江行幸(養老元年か)に供奉《ぐぶ》した時の「吾が命し真幸《まさき》くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白浪」(巻三・二八八)もあるが、皇子の歌ほど切実にひびかない。
「椎の葉」は、和名鈔は、「椎子[#(和名之比)]」であるから椎《しい》の葉《は》であってよいが、楢《なら》の葉《は》だろうという説がある。そして新撰字鏡に、「椎、奈良乃木《ナラノキ》也」とあるのもその証となるが、陰暦十月上旬には楢は既に落葉し尽している。また「遅速《おそはや》も汝《な》をこそ待ため向つ峰《を》の椎の小枝《こやで》の逢ひは違《たげ》はじ」(巻十四・三四九三)と或本の歌、「椎の小枝《さえだ》の時は過ぐとも」の椎《しい》は思比《シヒ》、四比《シヒ》と書いているから、楢《なら》ではあるまい。そうすれば、椎の小枝を折ってそれに飯を盛ったと解していいだろう。「片岡の此《この》向《むか》つ峯《を》に椎《しひ》蒔かば今年の夏の陰になみむか」(巻七・一〇九九)も椎《しい》であろうか。そして此歌は詠[#レ]岳だから、椎の木の生長のことなどそう合理的でなくとも、ふとそんな気持になって詠んだものであろう。

           ○

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天《あま》の原《はら》ふりさけ見《み》れば大王《おほきみ》の御寿《みいのち》は長《なが》く天足《あまた》らしたり 〔巻二・一四七〕 倭姫皇后
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 天智天皇御|不予《ふよ》にあらせられた時、皇后(倭姫王)の奉れる御歌である。天皇は十年冬九月御不予、十月御病重く、十二月近江宮に崩御したもうたから、これは九月か十月ごろの御歌であろうか。
 一首の意は、天を遠くあおぎ見れば、悠久にしてきわまりない。今、天皇の御寿《おんいのち》もその天の如くに満ち足っておいでになる、聖寿無極である、というのである。
 天皇御不予のことを知らなければ、ただの寿歌、祝歌のように受取れる御歌であるが、繰返し吟誦し奉れば、かく御願い、かく仰せられねばならぬ切な御心の、切実な悲しみが潜むと感ずるのである。特に、結句に「天足らしたり」と強く断定しているのは、却ってその詠歎の究竟《きゅうきょう》とも謂うことが出来る。橘守部《たちばなのもりべ》は、この御歌の「天の原」は天のことでなしに、家の屋根の事だと考証し、新室を祝う室寿《むろほぎ》の詞の中に「み空を見れば万代にかくしもがも」云々とある等を証としたが、その屋根を天に準《たと》えることは、新家屋を寿《ことほ》ぐのが主な動機だから自然にそうなるので、また、万葉巻十九(四二七四)の新甞会《にいなめえ》の歌の「天《あめ》にはも五百《いほ》つ綱はふ万代《よろづよ》に国知らさむと五百つ綱|延《は》ふ」でも、宮殿内の肆宴《しえん》が主だからこういう云い方になるのである。御不予御平癒のための願望動機とはおのずから違わねばならぬと思うのである。縦《たと》い、実際的の吉凶を卜《ぼく》する行為があったとしても、天空を仰いでも卜せないとは限らぬし、そういう行為は現在伝わっていないから分からぬ。私は、歌に「天の原ふりさけ見れば」とあるから、素直に天空を仰ぎ見たことと解する旧説の方が却って原歌の真を伝えているのでなかろうかと思うのである。守部説は少し穿過《うがちす》ぎた。
 この歌は「天の原ふりさけ見れば」といって直ぐ「大王の御寿は」と続けている。これだけでみると、吉凶を卜して吉の徴でも得たように取れるかも知れぬが、これはそういうことではあるまい。此処に常識的意味の上に省略と単純化とがあるので、此は古歌の特徴なのである。散文ならば、蒼天の無際無極なるが如く云々と補充の出来るところなのである。この御歌の下の句の訓も、古鈔本では京都大学本がこう訓み、近くは略解《りゃくげ》がこう訓んで諸家それに従うようになったものである。

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青旗《あをはた》の木幡《こはた》の上を通《かよ》ふとは目《め》には見《み》れども直《ただ》に逢《あ》はぬかも 〔巻二・一四八〕 倭姫皇后
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 御歌の内容から見れば、天智天皇崩御の後、倭姫皇后の御作歌と看做してよいようである。初句「青旗の」は、下の「木旗」に懸《かか》る枕詞で、青く樹木の繁っているのと、下のハタの音に関聯せしめたものである。「木幡」は地名、山城の木幡《こはた》で、天智天皇の御陵のある山科《やましな》に近く、古くは、「山科の木幡《こはた》の山を馬はあれど」(巻十一・二四二五)ともある如く、山科の木幡とも云った。天皇の御陵の辺を見つつ詠まれたものであろう。右は大体契沖の説だが、「青旗の木旗」をば葬儀の時の幢幡《どうばん》のたぐいとする説(考・檜嬬手・攷證)がある。自分も一たびそれに従ったことがあるが、今度は契沖に従った。
 一首の意。〔青旗の〕(枕詞)木幡山の御墓のほとりを天がけり通いたもうとは目にありありとおもい浮べられるが、直接にお逢い奉ることが無い。御身と親しく御逢いすることがかなわない、というのである。
 御歌は単純蒼古で、徒《いたず》らに艶《つや》めかず技巧を無駄使せず、前の御歌同様集中傑作の一つである。「直に」は、現身と現身と直接に会うことで、それゆえ万葉に用例がなかなか多い。「百重《ももへ》なす心は思へど直《ただ》に逢はぬかも」(巻四・四九六)、「うつつにし直にあらねば」(巻十七・三九七八)、「直にあらねば恋ひやまずけり」(同・三九八〇)、「夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに」(巻十二・二九五九)などである。「目には見れども」は、眼前にあらわれて来ることで、写象として、幻《まぼろし》として、夢等にしていずれでもよいが、此処は写象としてであろうか。「み空ゆく月読《つくよみ》男《をとこ》ゆふさらず目には見れども寄るよしもなし」(巻七・一三七二)、「人言《ひとごと》をしげみこちたみ我背子《わがせこ》を目には見れども逢ふよしもなし」(巻十二・二九三八)の歌があるが、皆民謡風の軽さで、この御歌ほどの切実なところが無い。

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人《ひと》は縦《よ》し思《おも》ひ止《や》むとも玉《たま》かづら影《かげ》に見《み》えつつ忘《わす》らえぬかも 〔巻二・一四九〕 倭姫皇后
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 これには、「天皇崩じ給ひし時、倭太后《やまとのおほきさき》の御作歌一首」と明かな詞書《ことばがき》がある。倭太后は倭姫皇后のことである。
 一首の意は、他の人は縦《たと》い御崩《おかく》れになった天皇を、思い慕うことを止めて、忘れてしまおうとも、私には天皇の面影がいつも見えたもうて、忘れようとしても忘れかねます、というのであって、独詠的な特徴が存している。
「玉かづら」は日蔭蔓《ひかげかずら》を髪にかけて飾るよりカケにかけ、カゲに懸けた枕詞とした。山田博士は葬儀の時の華縵《けまん》として単純な枕詞にしない説を立てた。この御歌には、「影に見えつつ」とあるから、前の御歌もやはり写象のことと解することが出来るとおもう。「見し人の言問ふ姿面影にして」(巻四・六〇二)、「面影に見えつつ妹は忘れかねつも」(巻八・一六三〇)、「面影に懸かりてもとな思ほゆるかも」(巻十二・二九〇〇)等の用例が多い。
 この御歌は、「人は縦し思ひ止むとも」と強い主観の詞を云っているけれども、全体としては前の二つの御歌よりも寧《むし》ろ弱いところがある。それは恐らく下の句の声調にあるのではなかろうか。

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山吹《やまぶき》の立《た》ちよそひたる山清水《やましみづ》汲《く》みに行《ゆ》かめど道《みち》の知《し》らなく 〔巻二・一五八〕 高市皇子
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 十市皇女《とおちのひめみこ》が薨ぜられた時、高市皇子《たけちのみこ》の作られた三首の中の一首である。十市皇女は天武天皇の皇長女、御母は額田女王《ぬかだのおおきみ》、弘文天皇の妃であったが、壬申《じんしん》の戦後、明日香清御原《あすかのきよみはら》の宮(天武天皇の宮殿)に帰って居られた。天武天皇七年四月、伊勢に行幸御進発間際に急逝せられた。天武紀に、七年夏四月、丁亥朔、欲[#レ]幸[#二]斎宮[#一]、卜[#レ]之、癸巳食[#レ]卜、仍取[#二]平旦時[#一]、警蹕既動、百寮成[#レ]列、乗輿命[#レ]蓋、以未[#レ]及[#二]出行[#一]、十市皇女、卒然病発、薨[#二]於宮中[#一]、由[#レ]此鹵簿既停、不[#レ]得[#二]幸行[#一]、遂不[#レ]祭[#二]神祇[#一]矣とある。高市皇子は異母弟の間柄にあらせられる。御墓は赤穂にあり、今は赤尾に作っている。
 一首の意は、山吹の花が、美しくほとりに咲いている山の泉の水を、汲みに行こうとするが、どう通《とお》って行ったら好いか、その道が分からない、というのである。山吹の花にも似た姉の十市皇女が急に死んで、どうしてよいのか分からぬという心が含まれている。
 作者は山清水のほとりに山吹の美しく咲いているさまを一つの写象として念頭に浮べているので、謂わば十市皇女と関聯した一つの象徴なのである。そこで、どうしてよいか分からぬ悲しい心の有様を「道の知らなく」と云っても、感情上|毫《すこ》しも無理ではない。併し、常識からは、一定の山清水を指定しているのなら、「道の知らなく」というのがおかしいというので、橘守部の如く、「山吹の立ちよそひたる山清水」というのは、「黄泉」という支那の熟語をくだいてそういったので、黄泉まで尋ねて行きたいが幽冥界を異にしてその行く道を知られないというように解するようになる。守部の解は常識的には道理に近く、或は作者はそういう意図を以て作られたのかも知れないが、歌の鑑賞は、字面にあらわれたものを第一義とせねばならぬから、おのずから私の解釈のようになるし、それで感情上決して不自然ではない。
 第二句、「立儀足」は旧訓サキタルであったのを代匠記がタチヨソヒタルと訓んだ。その他にも異訓があるけれども大体代匠記の訓で定まったようである。ヨソフという語は、「水鳥のたたむヨソヒに」(巻十四・三五二八)をはじめ諸例がある。「山吹の立ちよそひたる山清水」という句が、既に写象の鮮明なために一首が佳作となったのであり、一首の意味もそれで押とおして行って味えば、この歌の優れていることが分かる。古調のいい難い妙味があると共に、意味の上からも順直で無理が無い。黄泉云々の事はその奥にひそめつつ、挽歌としての関聯を鑑賞すべきである。なぜこの歌の上の句が切実かというに、「かはづ鳴く甘南備《かむなび》河にかげ見えて今か咲くらむ山吹の花」(巻八・一四三五)等の如く、当時の人々が愛玩した花だからであった。

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北山《きたやま》につらなる雲《くも》の青雲《あをぐも》の星離《ほしさか》りゆき月《つき》も離《さか》りて 〔巻二・一六一〕 持統天皇
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 天武天皇崩御の時、皇后(後の持統天皇)の詠まれた御歌である。原文には一書曰、太上天皇御製歌、とあるのは、文武天皇の御世から見て持統天皇を太上天皇と申奉った。即ち持統天皇御製として言伝えられたものである。
 一首は、北山に連《つらな》ってたなびき居る雲の、青雲の中の(蒼き空の)星も移り、月も移って行く。天皇おかくれになって万《よろ》ず過ぎゆく御心持であろうが、ただ思想の綾《あや》でなく、もっと具体的なものと解していい。
 大体右の如く解したが、此歌は実は難解で種々の説がある。「北山に」は原文「向南山」である。南の方から北方にある山科の御陵の山を望んで「向南山」と云ったものであろう。「つらなる雲の」は原文
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