「陣(陳)雲之」で旧訓タナビククモノであるが、古写本中ツラナルクモノと訓んだのもある。けれども古来ツラナルクモという用例は無いので、山田博士の如きも旧訓に従った。併しツラナルクモも可能訓と謂われるのなら、この方が型を破って却って深みを増して居る。次に「青雲」というのは青空・青天・蒼天などということで、雲というのはおかしいようだが、「青雲のたなびく日すら霖《こさめ》そぼ降る」(巻十六・三八八三)、「青雲のいでこ我妹子」(巻十四・三五一九)、「青雲の向伏すくにの」(巻十三・三三二九)等とあるから、晴れた蒼天をも青い雲と信じたものであろう。そこで、「北山に続く青空」のことを、「北山につらなる雲の青雲の」と云ったと解し得るのである。これから、星のことも月のことも、単に「物変星移幾度秋」の如きものでなく、現実の星、現実の月の移ったことを見ての詠歎と解している。
 面倒な歌だが、右の如くに解して、自分は此歌を尊敬し愛誦している。「春過ぎて夏来るらし」と殆ど同等ぐらいの位置に置いている。何か渾沌《こんとん》の気があって二二ガ四と割切れないところに心を牽《ひ》かれるのか、それよりももっと真実なものがこの歌にあるからであろう。自分は、「北山につらなる雲の」だけでももはや尊敬するので、それほど古調を尊んでいるのだが、少しく偏しているか知らん。

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神風《かむかぜ》の伊勢《いせ》の国《くに》にもあらましを何《なに》しか来《き》けむ君《きみ》も有《あ》らなくに 〔巻二・一六三〕 大来皇女
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 大津皇子が薨じ給うた後、大来《おおく》(大伯)皇女が伊勢の斎宮から京に来られて詠まれた御歌である。御二人は御姉弟の間柄であることは既に前出の歌のところで云った。皇子は朱鳥《あかみとり》元年十月三日に死を賜わった。また皇女が天武崩御によって斎王《いつきのおおきみ》を退き(天皇の御代毎に交代す)帰京せられたのはやはり朱鳥元年十一月十六日だから、皇女は皇子の死を大体知っていられたと思うが、帰京してはじめて事の委細を聞及ばれたものであっただろう。
 一首の意。〔神風の〕(枕詞)伊勢国にその儘とどまっていた方がよかったのに、君も此世を去って、もう居られない都に何しに還って来たことであろう。
「伊勢の国にもあらましを」の句は、皇女真実の御声であったに相違ない。家郷である大和、ことに京に還るのだから喜ばしい筈なのに、この御詞のあるのは、強く読む者の心を打つのである。第三句に、「あらましを」といい、結句に、「あらなくに」とあるのも重くして悲痛である。
 なお、同時の御作に、「見まく欲り吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに」(巻二・一六四)がある。前の結句、「君もあらなくに」という句が此歌では第三句に置かれ、「馬疲るるに」という実事の句を以て結んで居るが、、この結句にもまた愬《うった》えるような響がある。以上の二首は連作で二つとも選《よ》っておきたいが、今は一つを従属的に取扱うことにした。

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現身《うつそみ》の人《ひと》なる吾《われ》や明日《あす》よりは二上山《ふたかみやま》を弟背《いろせ》と吾《わ》が見《み》む 〔巻二・一六五〕 大来皇女
磯《いそ》の上《うへ》に生《お》ふる馬酔木《あしび》を手折《たを》らめど見《み》すべき君《きみ》がありと云《い》はなくに 〔巻二・一六六〕 同
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 大津皇子を葛城《かずらき》の二上山に葬った時、大来皇女《おおくのひめみこ》哀傷して作られた御歌である。「弟背《いろせ》」は原文「弟世」とあり、イモセ、ヲトセ、ナセ、ワガセ等の諸訓があるが、新訓のイロセに従った。同母兄弟をイロセということ、古事記に、「天照大御神之|伊呂勢《イロセ》」、「其|伊呂兄《イロセ》五瀬命」等の用例がある。
 大意。第一首。生きて現世に残っている私は、明日からはこの二上山をば弟の君とおもって見て慕い偲《しの》ぼう。今日いよいよ此処に葬り申すことになった。第二首。石のほとりに生えている、美しいこの馬酔木の花を手折もしようが、その花をお見せ申す弟の君はもはやこの世に生きて居られない。
「君がありと云はなくに」は文字どおりにいえば、「一般の人々が此世に君が生きて居られるとは云わぬ」ということで、人麿の歌などにも、「人のいへば」云々とあるのと同じく、一般にそういわれているから、それが本当であると強めた云い方にもなり、兎《と》に角《かく》そういう云い方をしているのである。馬酔木については、「山もせに咲ける馬酔木の、悪《にく》からぬ君をいつしか、往きてはや見む」(巻八・一四二八)、「馬酔木なす栄えし君が掘りし井の」(巻七・一一二八)等があり、自生して人の好み賞した花である。
 この二首は、前の御歌等に較べて、稍しっとりと底深くなっているようにおもえる。「何しか来けむ」というような強い激越の調がなくなって、「現身の人なる吾や」といって、諦念《ていねん》の如き心境に入ったもののいいぶりであるが、併し二つとも優れている。

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あかねさす日《ひ》は照《て》らせれどぬばたまの夜《よ》渡《わた》る月《つき》の隠《かく》らく惜《を》しも 〔巻二・一六九〕 柿本人麿
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 日並皇子尊《ひなみしのみこのみこと》の殯宮《あらきのみや》の時、柿本人麿の作った長歌の反歌である。皇子尊《みこのみこと》と書くのは皇太子だからである。日並皇子尊(草壁皇子《くさかべのみこ》)は持統三年に薨ぜられた。
「ぬばたまの夜わたる月の隠らく」というのは日並皇子尊の薨去なされたことを申上げたので、そのうえの、「あかねさす日は照らせれど」という句は、言葉のいきおいでそう云ったものと解釈してかまわない。つまり、「月の隠らく惜しも」が主である。全体を一種象徴的に歌いあげている。そしてその歌調の渾沌《こんとん》として深いのに吾々は注意を払わねばならない。
 この歌の第二句は、「日は照らせれど」であるから、以上のような解釈では物足りないものを感じ、そこで、「あかねさす日」を持統天皇に譬《たと》え奉ったものと解釈する説が多い。然るに皇子尊薨去の時には天皇が未だ即位し給わない等の史実があって、常識からいうと、実は変な辻棲《つじつま》の合わぬ歌なのである。併し此処は真淵《まぶち》が万葉考《まんようこう》で、「日はてらせれどてふは月の隠るるをなげくを強《ツヨ》むる言のみなり」といったのに従っていいと思う。或はこの歌は年代の明かな人麿の作として最初のもので、初期(想像年齢二十七歳位)の作と看做していいから、幾分常識的散文的にいうと腑《ふ》に落ちないものがあるかも知れない。特に人麿のものは句と句との連続に、省略があるから、それを顧慮しないと解釈に無理の生ずる場合がある。

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島《しま》の宮《みや》まがりの池《いけ》の放《はな》ち鳥《どり》人目《ひとめ》に恋《こ》ひて池《いけ》に潜《かづ》かず 〔巻二・一七〇〕 柿本人麿
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 人麿が日並皇子尊殯宮の時作った中の、或本歌一首というのである。「勾《まがり》の池」は島の宮の池で、現在の高市《たかいち》郡高市村の小学校近くだろうと云われている。一首の意は、勾の池に放《はな》ち飼《がい》にしていた禽鳥《きんちょう》等は、皇子尊のいまさぬ後でも、なお人なつかしく、水上に浮いていて水に潜《くぐ》ることはないというのである。
 真淵は此一首を、舎人《とねり》の作のまぎれ込んだのだろうと云ったが、舎人等の歌は、かの二十三首でも人麿の作に比して一般に劣るようである。例えば、「島の宮|上《うへ》の池なる放ち鳥荒びな行きそ君|坐《ま》さずとも」(巻二・一七二)、「御立《みたち》せし島をも家と住む鳥も荒びなゆきそ年かはるまで」(同・一八〇)など、内容は類似しているけれども、何処か違うではないか。そこで参考迄に此一首を抜いて置いた。

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東《ひむがし》の滝《たぎ》の御門《みかど》に侍《さもら》へど昨日《きのふ》も今日《けふ》も召《め》すこともなし 〔巻二・一八四〕 日並皇子宮の舎人
あさ日《ひ》照《て》る島《しま》の御門《みかど》におぼほしく人音《ひとおと》もせねばまうらがなしも 〔巻二・一八九〕 同
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 日並の皇子尊に仕えた舎人等が慟傷《どうしょう》して作った歌二十三首あるが、今その中二首を選んで置いた。「東の滝の御門」は皇子尊の島の宮殿の正門で、飛鳥《あすか》川から水を引いて滝をなしていただろうと云われている。「人音もせねば」は、人の出入も稀に寂《さび》れた様をいった。
 大意。第一首。島の宮の東門の滝の御門に伺候して居るが、昨日も今日も召し給うことがない。嘗《かつ》て召し給うた御声を聞くことが出来ない。第二首。嘗て皇子尊の此世においでになった頃は、朝日の光の照るばかりであった島の宮の御門も、今は人の音ずれも稀になって、心もおぼろに悲しいことである、というのである。
 舎人等の歌二十三首は、素直に、心情を抒《の》べ、また当時の歌の声調を伝えて居る点を注意すべきであるが、人麿が作って呉れたという説はどうであろうか。よく読み味って見れば、少し楽《らく》でもあり、手の足りないところもあるようである。なお二十三首のうちには次の如きもある。
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朝日てる佐太の岡べに群れゐつつ吾が哭《な》く涙やむ時もなし(巻二・一七七)
御立せし島の荒磯《ありそ》を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも(同・一八一)
あさぐもり日の入りぬれば御立せし島に下りゐて嘆きつるかも(同・一八八)
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敷妙《しきたへ》の袖交《そでか》へし君《きみ》玉垂《たまだれ》のをち野《ぬ》に過《す》ぎぬ亦《また》も逢《あ》はめやも 〔巻二・一九五〕 柿本人麿
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 この歌は、川島《かわしま》皇子が薨《こう》ぜられた時、柿本人麿が泊瀬部《はつせべ》皇女と忍坂部《おさかべ》皇子とに献《たてまつ》った歌である。川島皇子(天智天皇第二皇子)は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは御兄妹の御関係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御両人に同時に御見せ申したと解していい。「敷妙の」も、「玉垂の」もそれぞれ下の語に懸《かか》る枕詞である。「袖|交《か》へし」のカフは波《は》行下二段に活用し、袖をさし交《かわ》して寝ることで、「白妙の袖さし交《か》へて靡《なび》き寝《ね》し」(巻三・四八一)という用例もある。「過ぐ」とは死去することである。
 一首は、敷妙の袖をお互に交《か》わして契りたもうた川島皇子の君は、今|越智野《おちぬ》(大和国高市郡)に葬られたもうた。今後二たびお逢いすることが出来ようか、もうそれが出来ない、というのである。
 この歌は皇女の御気持になり、皇女に同情し奉った歌だが、人麿はそういう場合にも自分の事のようになって作歌し得たもののようである。そこで一首がしっとりと充実して決して申訣《もうしわけ》の余所余所《よそよそ》しさというものが無い。第四句で、「越智野に過ぎぬ」と切って、二たび語を起して、「またもあはめやも」と止めた調べは、まことに涙を誘うものがある。

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零《ふ》る雪《ゆき》はあはにな降《ふ》りそ吉隠《よなばり》の猪養《ゐがひ》の岡《をか》の塞《せき》なさまくに 〔巻二・二〇三〕 穂積皇子
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 但馬《たじま》皇女が薨ぜられた(和銅元年六月)時から、幾月か過ぎて雪の降った冬の日に、穂積皇子が遙かに御墓(猪養の岡)を望まれ、悲傷|流涕《りゅうてい》して作られた歌である。皇女と皇
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