子との御関係は既に云った如くである。吉隠《よなばり》は磯城《しき》郡初瀬町のうちで、猪養の岡はその吉隠にあったのであろう。「あはにな降りそ」は、諸説あるが、多く降ること勿《なか》れというのに従っておく。「塞《せき》なさまくに」は塞《せき》をなさんに、塞《せき》となるだろうからという意で、これも諸説がある。金沢本には、「塞」が「寒」になっているから、新訓では、「寒からまくに」と訓んだ。
 一首は、降る雪は余り多く降るな。但馬皇女のお墓のある吉隠の猪養の岡にかよう道を遮《さえぎ》って邪魔になるから、というので、皇子は藤原京(高市郡鴨公村)からこの吉隠(初瀬町)の方を遠く望まれたものと想像することが出来る。
 皇女の薨ぜられた時には、皇子は知太政官事《ちだいじょうかんじ》の職にあられた。御多忙の御身でありながら、或雪の降った日に、往事のことをも追懐せられつつ吉隠の方にむかってこの吟咏をせられたものであろう。この歌には、解釈に未定の点があるので、鑑賞にも邪魔する点があるが、大体右の如くに定めて鑑賞すればそれで満足し得るのではあるまいか。前出の、「君に寄りなな」とか、「朝川わたる」とかは、皆皇女の御詞であった。そして此歌に於てはじめて吾等は皇子の御詞に接するのだが、それは皇女の御墓についてであった。そして血の出るようなこの一首を作られたのであった。結句の「塞なさまくに」は強く迫る句である。

           ○

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秋山《あきやま》の黄葉《もみぢ》を茂《しげ》み迷《まど》はせる妹《いも》を求《もと》めむ山道《やまぢ》知らずも 〔巻二・二〇八〕 柿本人麿
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 これは人麿が妻に死なれた時|詠《よ》んだ歌で、長歌を二つも作って居り、その反歌の一つである。この人麿の妻というのは軽《かる》の里《さと》(今の畝傍町大軽和田石川五条野)に住んでいて、其処に人麿が通ったものと見える。この妻の急に死んだことを使の者が知らせた趣《おもむき》が長歌に見えている。
 一首は、自分の愛する妻が、秋山の黄葉《もみじ》の茂きがため、その中に迷い入ってしまった。その妻を尋ね求めんに道が分からない、というのである。
 死んで葬られることを、秋山に迷い入って隠れた趣に歌っている。こういう云い方は、現世の生の連続として遠い処に行く趣にしてある。当時は未だそう信じていたものであっただろうし、そこで愛惜の心も強く附帯していることとなる。「迷はせる」は迷いなされたという具合に敬語にしている。これは死んだ者に対しては特に敬語を使ったらしく、その他の人麿の歌にも例がある。この一首は亡妻を悲しむ心が極《きわ》めて切実で、ただ一気に詠みくだしたように見えて、その実心の渦が中にこもっているのである。「求めむ」と云ってもただ尋ねようというよりも、もっと覚官的に人麿の身に即したいい方であるだろう。
 なお、人麿の妻を悲しんだ歌に、「去年《こぞ》見てし秋の月夜は照らせども相見し妹《いも》はいや年さかる」(巻二・二一一)、「衾道《ふすまぢ》を引手《ひきて》の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし」(同・二一二)がある。共に切実な歌である。二一一の第三句は、「照らせれど」とも訓んでいる。一周忌の歌だろうという説もあるが、必ずしもそう厳重に穿鑿《せんさく》せずとも、今秋の清い月を見て妻を追憶して歎く趣に取ればいい。「衾道を」はどうも枕詞のようである。「引手山」は不明だが、春日《かすが》の羽易《はがい》山の中かその近くと想像せられる。

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楽浪《ささなみ》の志我津《しがつ》の子《こ》らが罷道《まかりぢ》の川瀬《かはせ》の道《みち》を見ればさぶしも 〔巻二・二一八〕 柿本人麿
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 吉備津采女《きびつのうねめ》が死んだ時、人麿の歌ったものである。「志我津《しがつ》の子ら」とあるから、志我津《しがつ》即ち今の大津あたりに住んでいた女で、多分吉備の国(備前備中備後|美作《みまさか》)から来た采女で、現職を離れてから近江の大津辺に住んでいたものと想像せられる。「子ら」の「ら」は親愛の語で複数を示すのではない。「罷道《まかりぢ》」は此世を去って死んで黄泉《よみ》の国へ行く道の意である。
 一首は、楽浪《ささなみ》の志我津《しがつ》にいた吉備津采女《きびつのうねめ》が死んで、それを送って川の瀬を渡って行く、まことに悲しい、というのである。「川瀬の道」という語は古代語として注意してよく、実際の光景であったのであろうが、特に「川瀬」とことわったのを味うべきである。川瀬の音も作者の心に沁《し》みたものと見える。
 この歌は不思議に悲しい調べを持って居り、全体としては句に屈折・省略等も無く、むつかしくない歌であるが、不思議にも身に沁みる歌である。どういう場合に人麿がこの采女の死に逢ったのか、或は依頼されて作ったものか、そういうことを種々問題にし得る歌だが、人麿は此時、「あまかぞふ大津《おほつ》の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔《くや》しき」(巻二・二一九)という歌をも作っている。これは、生前縁があって一たび会ったことがあるが、その時にはただ何気なく過した。それが今となっては残念である、というので、これで見ると人麿は依頼されて作ったのでなく、采女は美女で名高かった者のようでもあり、人麿は自ら感激して作っていることが分かる。

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妻《つま》もあらば採《つ》みてたげまし佐美《さみ》の山野《やまぬ》の上《へ》の宇波疑《うはぎ》過《す》ぎにけらずや 〔巻二・二二一〕 柿本人麿
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 人麿が讃岐《さぬき》狭岑《さみね》島で溺死者を見て詠んだ長歌の反歌である。今仲多度郡に属し砂弥《しゃみ》島と云っている。坂出《さかいで》町から近い。
 一首の意は、若し妻が一しょなら、野のほとりの兎芽子《うはぎ》(よめ菜)を摘んで食べさせようものを、あわれにも唯一人こうして死んでいる。そして野の兎芽子《うはぎ》はもう季節を過ぎてしまっているではないか、というのである。
 タグという動詞は下二段に活用し、飲食することである。人麿はこういう種類の歌にもなかなか骨を折り、自分の身内か恋人でもあるかのような態度で作歌して居る。それゆえ軽くすべって行くようなことがなく、飽くまで人麿自身から遊離していないものとして受取ることが出来るのである。

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鴨山《かもやま》の磐根《いはね》し纏《ま》ける吾《われ》をかも知《し》らにと妹《いも》が待《ま》ちつつあらむ 〔巻二・二二三〕 柿本人麿
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 人麿が石見国にあって死なんとした時、自ら悲しんで詠んだ歌である。当時人麿は石見国府の役人として、出張の如き旅にあって、鴨山のほとりで死んだものであろう。
 一首は、鴨山の巌《いわお》を枕として死んで居る吾をも知らずに、吾が妻は吾の帰るのを待ち詫《わ》びていることであろう、まことに悲しい、という意である。
 人麿の死んだ時、妻の依羅娘子《よさみのおとめ》が、「けふけふと吾が待つ君は石川《いしかは》の峡《かひ》に(原文、石水貝爾)交《まじ》りてありといはずやも」(巻二・二二四)と詠んで居り、娘子は多分、角《つぬ》の里《さと》にいた人麿の妻と同一人であろうから、そうすれば「鴨山」という山は、石川の近くで国府から少くも十数里ぐらい離れたところと想像することが出来る。そこで自分は昭和九年に「鴨山考」を作って、石川を現在の江川《ごうのがわ》だと見立て、邑智《おおち》郡|粕淵《かすぶち》村の津目山《つのめやま》を鴨山だろうという仮説を立てたのであったが、昭和十二年一月、おなじ粕淵村の大字|湯抱《ゆかかえ》に「鴨山」という名のついた実在の山を発見した。これは二つ峰のある低い山(三六〇米)で津目山より約半里程隔っている。この事は「鴨山後考」(昭和十三年「文学」六ノ一)で発表した。
 この歌は、謂わば人麿の辞世の歌であるが、いつもの人麿の歌程威勢がなく、もっと平凡でしっとりとした悲哀がある。また人麿は死に臨んで悟道めいたことを云わずに、ただ妻のことを云っているのも、なかなかよいことである。次に人麿の歿年はいつごろかというに、真淵は和銅三年ごろだろうとしてあるが、自分は慶雲四年ごろ石見に疫病の流行した時ではなかろうかと空想した。さすれば真淵説より数年若くて死ぬことになるが、それでも四十五歳ぐらいである。
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巻第三

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大君《おほきみ》は神《かみ》にしませば天雲《あまぐも》の雷《いかづち》のうへに廬《いほり》せるかも 〔巻三・二三五〕 柿本人麿
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 天皇(持統天皇)雷岳《いかずちのおか》(高市郡飛鳥村大字雷)行幸の時、柿本人麿の献《たてまつ》った歌である。
 一首の意は、天皇は現人神《あらひとがみ》にましますから、今、天に轟《とどろ》く雷《いかずち》の名を持っている山のうえに行宮《あんぐう》を御造りになりたもうた、というのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神随《かむながら》にましますというのである。
 これは供奉《ぐぶ》した人麿が、天皇の御威徳を讃仰し奉ったもので、人麿の真率《しんそつ》な態度が、おのずからにして強く大きいこの歌調を成さしめている。雷岳は藤原宮(高市郡鴨公村高殿の伝説地)から半里ぐらいの地であるから、今の人の観念からいうと御散歩ぐらいに受取れるし、雷岳は低い丘陵であるから、この歌をば事々しい誇張だとし、或は、「歌の興」に過ぎぬと軽く見る傾向もあり、或は支那文学の影響で腕に任せて作ったのだと評する人もあるのだが、この一首の荘重な歌調は、そういう手軽な心境では決して成就し得るものでないことを知らねばならない。抒情詩としての歌の声調は、人を欺くことの出来ぬものである、争われぬものであるということを、歌を作るものは心に慎《つつし》み、歌を味うものは心を引締めて、覚悟すべきものである。現在でも雷岳の上に立てば、三山をこめた大和平野を一望のもとに眼界に入れることが出来る。人暦は遂に自らを欺かず人を欺かぬ歌人であったということを、吾等もようやくにして知るに近いのであるが、賀茂真淵此歌を評して、「岳の名によりてただに天皇のはかりがたき御いきほひを申せりけるさまはただ此人のはじめてするわざなり」(新採百首解)と云ったのは、真淵は人麿を理会し得たものの如くである。結句の訓、スルカモ、セスカモ等があるが、セルカモに従った。此は荒木田|久老《ひさおい》(真淵門人)の訓である。
 この歌、或本には忍壁皇子《おさかべのみこ》に献ったものとして、「大君は神にしませば雲隠る雷山《いかづちやま》に宮敷《みやし》きいます」となっている。なお「大君は神にしませば赤駒のはらばふ田井《たゐ》を京師《みやこ》となしつ」(巻十九・四二六〇)、「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼《みぬま》を皇都《みやこ》となしつ」(同・四二六一)、「大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも」(巻三・二四一)等の参考歌がある。
 右のうち巻十九(四二六〇)の、「赤駒のはらばふ田井」の歌は、壬申乱《じんしんのらん》平定以後に、大将軍贈右大臣大伴卿の作である。この大将軍は即ち大伴御行《おおとものみゆき》で大伴安麿の兄に当り、高市大卿ともいい、大宝元年に薨じ右大臣を贈られた。壬申乱に天武天皇方の軍を指揮した。此歌は飛鳥の浄見原の京都を讃美したもので、「赤駒のはらばふ」は田の辺に馬の臥《ふ》しているさまである。此歌は即ち人麿の歌よりも前であるし、古調でなかなかいいところがあるので、巻十九で云うのを此処で一言費すことにした。四二六一は異伝で童謡風になっている。四二六〇の歌が人麿の歌より前だとすると、人麿に影響したとも取れるが、この歌をはじめて聞いた
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