のは、天平勝宝四年二月二日だとことわってあるから、その辺の事情は好く分からない。
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否《いな》といへど強《し》ふる志斐《しひ》のが強《し》ひがたりこの頃《ごろ》聞《き》かずてわれ恋《こ》ひにけり 〔巻三・二三六〕 持統天皇
否《いな》といへど語れ語れと詔《の》らせこそ志斐《しひ》いは奏《まを》せ強語《しひがたり》と詔《の》る 〔巻三・二三七〕 志斐嫗
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この二つは、持統天皇と志斐嫗《しいのおみな》との御問答歌である。此老女は語部《かたりべ》などの職にいて、記憶もよく話も面白かったものに相違ない。第一の歌は御製で、話はもう沢山だといっても、無理に話して聞かせるお前の話も、このごろ暫く聞かぬので、また聞きたくなった。第二の歌は嫗の和《こた》え奉った歌で、もう御話は止しましょうと申上げても、語れ語れと御仰せになったのでございましょう。それを今無理強いの御話とおっしゃる、それは御無理でございます。二つは諧謔《かいぎゃく》的問答歌であるから、即興的であり機智的でもある。その調子を詞の繰返しなどによって知ることが出来る。しかし、お互の御親密の情がこれだけ自由自在に現われるということは、後代の吾等には寧ろ異といわねばならぬ程である。万葉集の歌は千差万別だが、人麿の切実な歌などのあいだに、こういう種類の歌があるのもなつかしく、尊敬せねばならぬのである。この第一の歌の題詞はただ「天皇」とだけあるが、諸家が皆持統天皇であらせられると考えている。さすれば天皇の歌人としての御力量は、「春過ぎて夏来るらし」の御製等と共に、近臣の助力云々などの想像の、いかに当らぬものだかということを証明するものである。「志斐い」の「い」は語調のための助詞で、「紀の関守い留めなむかも」(巻四・五四五)などと同じい。山田博士は、「このイは主格を示す古代の助詞」だと云っている。
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大宮《おほみや》の内《うち》まで聞《きこ》ゆ網引《あびき》すと網子《あご》ととのふる海人《あま》の呼《よ》び声《ごゑ》 〔巻三・二三八〕 長意吉麻呂
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長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろ》が詔に応《こた》え奉った歌であるが、持統天皇か文武天皇か難波宮(長柄豊崎宮《ながらのとよさきのみや》。現在の大阪豊崎町)に行幸せられた時の作であろう。
海岸で網を引上げるために、網引く者どもの人数を揃《そろ》えいろいろ差図手配する海人《あま》のこえが、離宮の境内まで聞こえて来る、という歌である。応詔の歌だから、調べも謹直であるが、ありの儘を詠んでいる。併しありの儘を詠んでいるから、大和の山国から海浜に来た人々の、喜ばしく珍しい心持が自然にあらわれるので、強《し》いて心持を出そうなどと意図しても、そう旨《うま》く行くものでは無い。
また、この歌は応詔の歌であるが、特に帝徳を讃美したような口吻もなく、離宮に聞こえて来る海人等の声を主にして歌っているのであるが、それでも立派に応詔歌になっているのを見ると、万葉集に散見する献歌の中に、強いて寓意《ぐうい》を云々するのは間違だとさえおもえるのである。例えば、「うち手折《たを》り多武《たむ》の山霧しげみかも細川の瀬に波のさわげる」(巻九・一七〇四)という、舎人皇子《とねりのみこ》に献った歌までに寓意を云々するが如きである。つまり、同じく「詔」でも、属目《しょくもく》の歌を求められる場合が必ずあるだろうとおもうからである。
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滝《たぎ》の上《うへ》の三船《みふね》の山《やま》に居《ゐ》る雲《くも》の常《つね》にあらむとわが思《も》はなくに 〔巻三・二四二〕 弓削皇子
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弓削皇子《ゆげのみこ》(天武天皇第六皇子、文武天皇三年薨去)が吉野に遊ばれた時の御歌である。滝《たぎ》は宮滝の東南にその跡が残っている。三船山はその南にある。
滝の上の三船の山には、あのようにいつも雲がかかって見えるが、自分等はああいう具合に常住ではない。それが悲しい、というので、「居る雲の」は、「常」にかかるのであろう。「常にあらむとわが思はなくに」の句に深い感慨があって、人麿の、「いさよふ波の行方しらずも」などとも一脈相通ずるものがあるのは、当時の人の心にそういう共通な観相的傾向があったとも解釈することが出来る。なお集中、「常にあらぬかも」、「常ならめやも」の句ある歌もあって参考とすべきである。いずれにしても此歌は、景を叙しつつ人間の心に沁み入るものを持って居る。此御歌に対して、春日王《かすがのおおきみ》は、「大君は千歳にまさむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや」(巻三・二四三)と和《こた》えていられる。
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玉藻《たまも》かる敏馬《みぬめ》を過《す》ぎて夏草《なつくさ》の野島《ぬじま》の埼《さき》に船《ふね》ちかづきぬ 〔巻三・二五〇〕 柿本人麿
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これは、柿本朝臣人麻呂|※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅《きりょ》歌八首という中の一つである。※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅八首は、純粋の意味の連作でなく、西へ行く趣の歌もあり、東へ帰る趣の歌もある。併し八首とも船の旅であるのは注意していいと思う。敏馬は摂津武庫郡、小野浜から和田岬までの一帯、神戸市の灘区に編入せられている。野島は淡路の津名郡に野島村がある。
一首の意は、〔玉藻かる〕(枕詞)摂津の敏馬《みぬめ》を通《とお》って、いよいよ船は〔夏草の〕(枕詞)淡路の野島の埼に近づいた、というのである。
内容は極めて単純で、ただこれだけだが、その単純が好いので、そのため、結句の、「船ちかづきぬ」に特別の重みがついて来ている。一首に枕詞が二つ、地名が二つもあるのだから、普通謂う意味の内容が簡単になるわけである。この歌の、「船近づきぬ」という結句は、客観的で、感慨がこもって居り、驚くべき好い句である。万葉集中では、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(巻一・四八)、「風をいたみ奥《おき》つ白浪高からし海人《あま》の釣舟浜に帰りぬ」(巻三・二九四)、「あらたまの年の緒ながく吾が念《も》へる児等に恋ふべき月近づきぬ」(巻十九・四二四四)等の例があり、その結句は、文法的には客観的であって、感慨のこもっているものである。第三句、「夏草の」を現実の景と解する説もあるが、これは、「夏草の靡き寝《ぬ》」の如きから、「寝《ぬ》」と「野《ぬ》」との同音によって枕詞となったと解釈した。またこう解すれば、「奴流」(寝)は「奴島」(巻三・二四九)のヌと同じく、時には「努」(野)とも通用したことが分かるし、阿之比奇能夜麻古要奴由伎《アシヒキノヤマコエヌユキ》(巻十七・三九七八)の、「奴由伎」は「野ゆき」であるから、「奴」、「努」の通用した実例である。即ち甲類乙類の仮名通用の例でもあり、野の中間音でヌと発音した積極的な例ともなり、ノと書くことの間違だということも分かるのである。また現在淡路三原郡に沼島《ぬしま》村があるのは、野島の変化だとせば、野島をヌシマと発音した証拠となる。
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稲日野《いなびぬ》も行《ゆ》き過《す》ぎがてに思《おも》へれば心《こころ》恋《こほ》しき可古《かこ》の島《しま》見《み》ゆ 〔巻三・二五三〕 柿本人麿
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人麿作、これも八首中の一つである。稲日野《いなびぬ》は印南野《いなみぬ》とも云い、播磨の印南郡の東部即ち加古川流域の平野と加古・明石《あかし》三郡にわたる地域をさして云っていたようである。約《つづ》めていえば、稲日野は加古川の東方にも西方にも亙《わた》っていた平野と解釈していい。可古島は現在の高砂《たかさご》町あたりだろうと云われている。島でなくて埼でも島と云ったことは、伊良虞《いらご》の島《しま》の条下《じょうか》で説明し、また後に出て来る、倭島《やまとしま》の条下でも明かである。加古は今は加古郡だが、もとは(明治二十二年迄)印南郡であった。
一首の意は、広々とした稲日野《いなびぬ》近くの海を航していると、舟行が捗々《はかばか》しくなく、種々ものおもいしていたが、ようやくにして恋しい加古の島が見え出した、というので、西から東へ向って航している趣《おもむき》の歌である。
「稲日野も」の「も」は、「足引のみ山も清《さや》に落ちたぎつ」(巻六・九二〇)、「筑波根《つくばね》の岩もとどろに落つるみづ」(巻十四・三三九二)などの「も」の如く、軽く取っていいだろう。「過ぎがてに」は、舟行が遅くて、広々した稲日野の辺を中々通過しないというので、舟はなるべく岸近く漕《こ》ぐから、稲日野が見えている趣なのである。「思へれば」は、彼此《かれこれ》おもう、いろいろおもうの意で、此句と、前の句との間に小休止があり、これはやはり人麿的なのであるから、「ものおもふ」ぐらいの意に取ればいい。つまり旅の難儀の気持である。然るに従来この句を、稲日野の景色が佳いので、立去り難いという気持の句だと解釈した先輩(契沖以下殆ど同説)の説が多い。併しこの場合にはそれは感服し難い説で、そうなれば歌がまずくなってしまうと思うがどうであろうか。また用語の類例としては、「繩の浦に塩焼くけぶり夕されば行き過ぎかねて山に棚引く」(巻三・三五四)があって、私の解釈の無理でないことを示している。
この歌は※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅中の感懐であって、風光の移るにつれて動く心の儘を詠じ、歌詞それに伴うてまことに得難い優れた歌となった。そして、「心|恋《こほ》しき加古の島」あたりの情調には、恋愛にかようような物懐しいところがあるが、人麿は全体としてそういう抒情的方面の豊かな歌人であった。
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ともしびの明石《あかし》大門《おほと》に入《い》らむ日《ひ》や榜《こ》ぎ別《わか》れなむ家《いへ》のあたり見《み》ず 〔巻三・二五四〕 柿本人麿
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人麿作、※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅八首中の一。これは西の方へ向って船で行く趣である。
一首の意は、〔ともしびの〕(枕詞)明石《あかし》の海門《かいもん》を通過する頃には、いよいよ家郷の大和《やまと》の山々とも別れることとなるであろう。その頃には家郷の大和も、もう見えずなる、というのである。「入らむ日や」の「や」は疑問で、「別れなむ」に続くのである。
歌柄の極めて大きいもので、その点では万葉集中|稀《まれ》な歌の一つであろうか。そして、「入らむ[#「らむ」に白丸傍点]日や」といい、「別れなむ[#「なむ」に白丸傍点]」というように調子をとっているのも波動的に大きく聞こえ、「の」、「に」、「や」などの助詞の使い方が実に巧みで且つ堂々としておる。特に、第四句で、「榜ぎ別れなむ」と切って、結句で、「家のあたり見ず」と独立的にしたのも、その手腕|敬憬《けいけい》すべきである。由来、「あたり見ず」というような語には、文法的にも毫も詠歎の要素が無いのである。「かも」とか、「けり」とか、「はや」とか、「あはれ」とか云って始めて詠歎の要素が入って来るのである。文法的にはそうなのであるが、歌の声調方面からいうと、響きから論ずるから、「あたり見ず」で充分詠歎の響があり、結句として、「かも」とか、「けり」とかに匹敵するだけの効果をもっているのである。この事は、万葉の秀歌に随処に見あたるので、「その草深野」、「棚無し小舟」、「印南《いなみ》国原」、「厳橿《いつかし》が本」という種類でも、「月かたぶきぬ」、「加古の島見ゆ」、「家のあたり見ず」でも、また、詠歎の入っている、「見れど飽
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