かぬかも」、「見れば悲しも」、「隠さふべしや」等でも、結局は同一に帰するのである。そういうことを万葉の歌人が実行しているのだから、驚き尊敬せねばならぬのである。こういう事は、近く出す拙著、「短歌初学門」でも少しく説いて置いた筈である。

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天《あま》ざかる夷《ひな》の長路《ながぢ》ゆ恋《こ》ひ来れば明石《あかし》の門《と》より倭島《やまとしま》見《み》ゆ 〔巻三・二五五〕 柿本人麿
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 人麿作、※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅八首中の一。これは西から東へ向って帰って来る時の趣で、一首の意は、遠い西の方から長い海路を来、家郷恋しく思いつづけて来たのであったが、明石の海門まで来ると、もう向うに大和が見える、というので、※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅の歌としても随分自然に歌われている。それよりも注意するのは、一首が人麿一流の声調で、強く大きく豊かだということである。そしていて、浮腫《ふしゅ》のようにぶくぶくしていず、遒勁《しゅうけい》とも謂《い》うべき響だということである。こういう歌調も万葉歌人全般という訣《わけ》には行かず、家持の如きも、こういう歌調を学んでなおここまで到達せずにしまったところを見れば、何《なん》の彼《か》のと安易に片付けてしまわれない、複雑な問題が包蔵されていると考うべきである。この歌の、「恋ひ来れば」も、前の、「心|恋《こほ》しき」に類し、ただ一つこういう主観語を用いているのである。一、二参考歌を拾うなら、「旅にして物恋《ものこほ》しきに山下の赤《あけ》のそほ船沖に榜《こ》ぐ見ゆ」(巻三・二七〇)は黒人作、「堀江より水脈《みを》さかのぼる楫《かぢ》の音の間なくぞ奈良は恋しかりける」(巻二十・四四六一)は家持作である。共に「恋」の語が入っている。
 なお、人麿の※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅歌には、「飼飯《けひ》の海の庭《には》よくあらし苅《かり》ごもの乱《みだ》れいづ見ゆ海人《あま》の釣船」(巻三・二五六)というのもあり、棄てがたいものである。飼飯の海は、淡路西海岸三原郡|湊《みなと》町の近くに慶野松原がある。其処《そこ》の海であろう。なお、人麿が筑紫《つくし》に下った時の歌、「名ぐはしき稲見《いなみ》の海の奥つ浪|千重《ちへ》に隠《かく》りぬ大和島根は」(同・三〇三)、「大王《おほきみ》の遠《とほ》のみかどと在り通ふ島門《しまと》を見れば神代し念《おも》ほゆ」(同・三〇四)があり、共に佳作であるが、人麿の歌が余り多くなるので、従属的に此処《ここ》に記すこととした。新羅《しらぎ》使等が船上で吟誦した古歌として、「天離《あまざか》るひなの長道《ながぢ》を恋ひ来れば明石の門より家の辺《あたり》見ゆ」(巻十五・三六〇八)があるが、此は人麿の歌が伝わったので、人麿の歌を分かり好く変化せしめている。

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矢釣山《やつりやま》木立《こだち》も見《み》えず降《ふ》り乱《みだ》る雪《ゆき》に驟《うくつ》く朝《あした》たぬしも 〔巻三・二六二〕 柿本人麿
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 柿本人麿が新田部《にいたべ》皇子に献《たてまつ》った長歌の反歌で、長歌は、「やすみしし吾|大王《おほきみ》、高|耀《ひか》る日《ひ》の皇子《みこ》、敷《し》きいます大殿《おほとの》の上に、ひさかたの天伝《あまづた》ひ来る、雪じもの往きかよひつつ、いや常世《とこよ》まで」という簡浄なものである。この短歌の下の句の原文は、「落乱、雪驪、朝楽毛」で、古来種々の訓があった。私が人麿の歌を評釈した時には、新訓(佐佐木博士)の、「雪に驪《こま》うつ朝《あした》たぬしも」に従ったが、今回は、故生田耕一氏の「雪に驟《うくつ》く朝楽しも」に従った。ウクツクとは、新撰字鏡に、驟也、宇久豆久《ウクヅク》とあって、馬を威勢よく走らせることである。矢釣山は、高市郡八釣村がある、そこであろう。この歌は、大体そう訓んで味うと、なかなかよい歌で棄てがたいのである。「矢釣山木立も見えず降りみだる」あたりの歌調は、人麿でなければ出来ないものを持っている。結句の訓も種々で考《こう》のマヰリクラクモに従う学者も多い。山田博士は、「雪にうくづきまゐり来らくも」と訓み、「古は初雪の見参といふ事ありて、初雪に限らず、大雪には早朝におくれず祗候《しこう》すべき儀ありしなり」(講義)と云っている。なお吉田増蔵氏は、「雪に馬|並《な》めまゐり来らくも」と訓んだ。また、「乱」をマガフ、サワグ等とも訓んでいる。これは、四段の自動詞に活用しないという結論に本《もと》づく根拠もあるのだが、私は今回もミダルに従った。若し、マヰリクラクモと訓むとすると、「ふる雪を腰になづみて参《まゐ》り来し験《しるし》もあるか年のはじめに」(巻十九・四二三〇)が参考となる歌である。

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もののふの八十《やそ》うぢ河《がは》の網代木《あじろぎ》にいさよふ波《なみ》のゆくへ知《し》らずも 〔巻三・二六四〕 柿本人麿
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 柿本人麿が近江から大和へ上ったとき宇治川のほとりで詠んだものである。「もののふの八十氏《やそうぢ》」は、物部《もののふ》には多くの氏《うじ》があるので、八十氏《やそうじ》といい、同音の宇治川《うじがわ》に続けて序詞とした。網代木《あじろぎ》は、網の代用という意味だが、これは冬宇治川の氷魚《ひお》を捕るために、沢山の棒杭を水中に打ち、恐らく上流に向って狭くなるように打ったと思うが、其処が水流が急でないために魚が集って来る、それを捕るのである。其処の棒杭に水が停滞して白い波を立てている光景である。
 この歌も、「あまざかる夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ」の歌のように、直線的に伸々《のびのび》とした調べのものである。この歌の上の句は序詞で、現代歌人の作歌態度から行けば、寧ろ鑑賞の邪魔をするのだが、吾等はそれを邪魔と感ぜずに、一首全体の声調的効果として受納れねばならぬ。そうすれば豊潤で太い朗かな調べのうちに、同時に切実峻厳、且つ無限の哀韻を感得することが出来る。この哀韻は、「いさよふ波の行方《ゆくへ》知らず」にこもっていることを知るなら、上の句の形式的に過ぎない序詞は、却って下の句の効果を助長せしめたと解釈することも出来るのである。この限り無き哀韻は、幾度も吟誦してはじめて心に伝わり来るもので、平俗な理論で始末すべきものではない。
 この哀韻は、近江旧都を過ぎた心境の余波だろうとも説かれている。これは否定出来ない。なおこの哀韻は支那文学の影響、或は仏教観相の影響だろうとも云われている。人麿ぐらいな力量を有《も》つ者になれば、その発達史も複雑で、支那文学も仏教も融《と》けきっているとも解釈出来るが、この歌の出来た時の人麿の態度は、自然への観入・随順であっただけである。その関係を前後混同して彼此《かれこれ》云ったところで、所詮《しょせん》戯論に終わるので、理窟は幾何《いくら》精《くわ》しいようでも、この歌から遊離した上《うわ》の空《そら》の言辞ということになるのである。或人はこの歌を空虚な歌として軽蔑するが、自分はやはり人麿一代の傑作の一つとして尊敬するものである。

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苦《くる》しくも降《ふ》り来《く》る雨《あめ》か神《みわ》が埼《さき》狭野《さぬ》のわたりに家《いへ》もあらなくに 〔巻三・二六五〕 長奥麻呂
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 長忌寸奥麻呂《ながのいみきおきまろ》(意吉麻呂)の歌である。神が埼(三輪崎)は紀伊国東|牟婁《むろ》郡の海岸にあり、狭野《さぬ》(佐野)はその近く西南方で、今はともに新宮市に編入されている。「わたり」は渡し場である。第二句で、「降り来る雨か」と詠歎して、愬《うった》えるような響を持たせたのにこの歌の中心があるだろう。そして心が順直に表わされ、無理なく受納れられるので、古来万葉の秀歌として評価されたし、「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」という如き、藤原定家の本歌取の歌もあるくらいである。それだけ感情が通常だとも謂えるが、奥麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。弁基《べんき》(春日蔵首老《かすがのくらびとおゆ》)の歌に、「まつち山ゆふ越え行きていほさきの角太河原《すみたかはら》にひとりかも寝む」(巻三・二九八)というのがあるが、この頃の人々は、自由に作っていて感のとおっているのは気持が好い。
 近時土屋文明氏は、「神之埼」をカミノサキと訓む説を肯定し、また紀伊新宮附近とするは万葉時代交通路の推定から不自然のようにおもわれることを指摘し、和泉《いずみ》日根郡の神前を以て擬するに至った。また佐野も近接した土地で共に万葉時代から存在した地名と推定することも出来、和泉ならば紀伊行幸の経路であるから、従駕の作者が詠じたものと見ることが出来るというのである。

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淡海《あふみ》の海《うみ》夕浪《ゆふなみ》千鳥《ちどり》汝《な》が鳴《な》けば心《こころ》もしぬにいにしへ思《おも》ほゆ 〔巻三・二六六〕 柿本人麿
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 柿本人麿の歌であるが、巻一の近江旧都回顧の時と同時の作か奈何《どう》か不明である。「夕浪千鳥」は、夕べの浪の上に立ちさわぐ千鳥、湖上の低い空に群れ啼いている千鳥で、古代造語法の一つである。一首の意は、淡海《おうみ》の湖に、その湖の夕ぐれの浪に、千鳥が群れ啼いている。千鳥等よ、お前等の啼く声を聞けば、真《しん》から心が萎《しお》れて、昔の都の栄華のさまを偲ばれてならない、というのである。
 この歌は、前の宇治河の歌よりも、もっと曲折のある調べで、その中に、「千鳥汝が鳴けば」という句があるために、調べが曲折すると共に沈厚なものにもなっている。また独詠的な歌が、相手を想像する対詠的歌の傾向を帯びて来たが、これは、「志賀の辛崎|幸《さき》くあれど」とつまりは同じ傾向となるから、ひょっとしたら、巻一の歌と同時の頃の作かも知れない。
 巻三(三七一)に、門部王《かどべのおおきみ》の、「飫宇《おう》の海の河原の千鳥汝が鳴けば吾が佐保河の念ほゆらくに」があり、巻八(一四六九)に沙弥《さみ》作、「足引の山ほととぎす汝が鳴けば家なる妹し常におもほゆ」、巻十五(三七八五)に宅守《やかもり》の、「ほととぎす間《あひだ》しまし置け汝が鳴けば吾《あ》が思《も》ふこころ甚《いた》も術《すべ》なし」があるが、皆人麿のこの歌には及ばないのみならず、人麿の此歌を学んだものかも知れない。

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※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》は木《こ》ぬれ求《もと》むとあしひきの山《やま》の猟夫《さつを》にあひにけるかも 〔巻三・二六七〕 志貴皇子
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 志貴皇子《しきのみこ》の御歌である。皇子は天智天皇第四皇子、持統天皇(天智天皇第二皇女)の御弟、光仁天皇の御父という御関係になる。
 一首の意は、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》が、林間の梢《こずえ》を飛渡っているうちに、猟師に見つかって獲《と》られてしまった、というのである。
 この歌には、何処かにしんみりとしたところがあるので、古来寓意説があり、徒《いたず》らに大望を懐《いだ》いて失脚したことなどを寓したというのであるが、この歌には、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠の事が歌ってあるのだから、第一に※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠の事を詠み給うた歌として受納れて味うべきである。
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