寓意の如きは奥の奥へ潜《ひそ》めて置くのが、現代人の鑑賞の態度でなければならない。そうして味えば、この歌には皇子一流の写生法と感傷とがあって、しんみりとした人生観相を暗指《あんじ》しているのを感じ、選ぶなら選ばねばならぬものに属している。寓意説のおこるのは、このしみじみした感傷があるためであるが、それをば寓意として露骨にするから、全体を破壊してしまうのである。天平十一年|大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》の歌に、「ますらをの高円《たかまと》山に迫《せ》めたれば里に下《お》りける※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》ぞこれ」(巻六・一〇二八)というのがあり、これは実際この小獣を捕えた時の歌で寓意でなく、この小獣に注して、「俗に牟射佐妣《むささび》といふ」とあるから愛すべき小獣として人の注目を牽《ひ》いたものであろう。略解《りゃくげ》に、「此御歌は人の強《し》ひたる物ほしみして身を亡すに譬《たとへ》たまへるにや。此皇子の御歌にはさる心なるも又見ゆ。大友大津の皇子たちの御事などを御まのあたり見たまひて、しかおぼすべきなり」とあるなどは寓意説に溺れたものである。(檜嬬手《ひのつまで》も全く略解の説を踏襲している。)

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旅《たび》にしてもの恋《こほ》しきに山下《やました》の赤《あけ》のそほ船《ぶね》沖《おき》に榜《こ》ぐ見《み》ゆ 〔巻三・二七〇〕 高市黒人
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 高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅八首中の一つである。この歌の、「山下《やました》の」は、「秋山の下《した》ぶる妹」(巻二・二一七)などの如く、紅葉の美しいのに関係せしめて使って居るから、「赤」の枕詞に用いたものらしい。「そほ」は赭土《しゃど》から取った塗料で、赭土といっても、赤土、鉄分を含んだ泥土、粗製の朱等いろいろであった。その精品を真朱《まそほ》といって、「仏つくる真朱《まそほ》足らずは」(巻十六・三八四一)の例がある。「赤のそほ船」は赤く塗った船である。「沖ゆくや赤羅《あから》小船」(同・三八六八)も赤く塗った船のことである。そこで一首の意味は、旅中にあれば何につけ都が恋しいのに、沖の方を見れば赤く塗った船が通って行く、あれは都へのぼるのであろう。羨しいことだ、というので、今から見れば※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅の歌の常套《じょうとう》手段のようにも取れるが、当時の歌人にとっては常に実感であったのであろう。黒人の歌は具象的で写象も鮮明だが、人麿の歌調ほど切実でないから、「もの恋しき」と云ったり、「古への人にわれあれや」等と云っても、稍通俗に感ぜしめる余裕がある。巻一(六七)に、「旅にしてもの恋《こほ》しぎの鳴くことも聞えざりせば恋ひて死なまし」は持統天皇難波行幸の時、高安大島《たかやすのおおしま》の作ったものだが、上の句が似ている。

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桜田《さくらだ》へ鶴《たづ》鳴《な》きわたる年魚市潟《あゆちがた》潮干《しほひ》にけらし鶴《たづ》鳴《な》きわたる 〔巻三・二七一〕 高市黒人
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 黒人作。※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅八首の一。「桜田《さくらだ》」は、和名鈔の尾張国愛知郡|作良《さくら》郷、現在熱田の東南方に桜がある。その桜という海浜に近い土地の田の事である。或は桜田という地名だという説もある。「年魚市《あゆち》潟」は、和名鈔に尾張国愛知郡|阿伊智《あいち》とあり、熱田南方の海岸一帯が即ち年魚市(書紀に吾湯市)潟で、桜はその一部である。今の熱田新田と称する辺も古《いにし》えは海だったろうと云われている。一首の意味は、陸の方から海に近い桜の田の方へ向って、鶴が群れて通って行くが、多分年魚市潟一帯が潮干になったのであろう、というのである。一首の中に地名が二つも入って居て、それに「鶴鳴きわたる」を二度繰返しているのだから、内容からいえば極く単純なものになってしまった。併し一首全体が高古の響を保持しているのは、内容がこせこせしない為めであり、「桜田へ鶴鳴きわたる」という唯一の現在的内容が却って鮮明になり、一首の風格も大きくなった。そのあいだに、「年魚市潟潮干にけらし」という推量句が入っているのだが、この推量も大体分かっている現実的推量で、ただぼんやりした想像ではないのが特色である。けれどもこの歌は、桜田が主で、桜田を眺める位置に作者が立っている趣で、あゆち潟というのはもっと離れているところであろう。一首の形態からいうと、前出の、「吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり」(巻二・九五)などと殆ど同じである。また内容からいうと、「年魚市潟潮干にけらし知多《ちた》の浦に朝|榜《こ》ぐ舟も沖に寄る見ゆ」(巻七・一一六三)「可之布江《かしふえ》に鶴鳴きわたる志珂《しか》の浦に沖つ白浪立ちし来らしも」(巻十五・三六五四)など類想の歌が多い。おなじ黒人の歌でも、「住吉《すみのえ》の得名津《えなつ》に立ちて見渡せば武庫の泊《とまり》ゆ出づる舟人」(巻三・二八三)は、少しく楽《らく》過ぎて、人麿の「乱れいづ見ゆあまの釣舟」(同・二五六)には及ばない。けれども黒人には黒人の本領があり、人麿の持っていないものがあるから、それを見のがさないように努むべきである。
 此処の、「四極《しはつ》山うち越え見れば笠縫《かさぬひ》の島榜ぎかくる棚無し小舟《をぶね》」(同・二七二)も佳作で、後年山部赤人に影響を与えたものである。四極《しはつ》山、笠縫《かさぬい》島は参河《みかわ》という説と摂津という説とあるが、今は仮りに契沖以来の、参河国|幡豆《はず》郡磯泊(之波止《シハト》)説に従って味うこととする。また、「妹も吾も一つなれかも三河なる二見《ふたみ》の道ゆ別れかねつる」(同・二七六)というのもある。三河の二見は御油《ごゆ》から吉田《よしだ》に出る二里半余の道だといわれている。「妹《いも》」は、かりそめに親しんだそのあたりの女であろう。上句は、お前も俺《おれ》も一体だからだろうと気転を利かしたいい方である。黒人のには上半にこういう主観句のものが多い。それが成功したのもあればまずいのもある。

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何処《いづく》にか吾《われ》は宿《やど》らむ高島《たかしま》の勝野《かちぬ》の原《はら》にこの日《ひ》暮《く》れなば 〔巻三・二七五〕 高市黒人
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 黒人作。※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅歌つづき。「高島の勝野」は、近江《おうみ》高島郡三尾のうち、今の大溝町である。黒人の※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅の歌はこれを見ても場処の移動につれ、その時々に詠んだことが分かる。これは勝野の原の日暮にあって詠んだので、それが現実的内容で、「何処にか吾は宿らむ」はそれに伴う自然的詠歎である。かく詠歎を初句第二句に置くのは、黒人の一つの傾向とも謂うことが出来るであろう。この詠歎は率直簡単なので却って効果があり、全体として旅中の寂しい心持を表現し得たものである。黒人作で、近江に関係あるものは、「磯の埼|榜《こ》ぎたみゆけば近江《あふみ》の海《み》八十《やそ》の湊《みなと》に鶴《たづ》さはに鳴く」(巻三・二七三)、「吾が船は比良《ひら》の湊に榜ぎ泊《は》てむ沖へな放《さか》りさ夜《よ》ふけにけり」(同・二七四)がある。「沖へな放かり」というのは、余り沖遠くに行くなというので特色のある句である。「わが舟は明石《あかし》の浦に榜ぎはてむ沖へな放《さ》かりさ夜ふけにけり」(巻七・一二二九)というのは、黒人の歌が伝誦のあいだに変化し、勝手に「明石」と直したものであろう。

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疾《と》く来《き》ても見《み》てましものを山城《やましろ》の高《たか》の槻《つき》村《むら》散《ち》りにけるかも 〔巻三・二七七〕 高市黒人
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 黒人※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅八首の一つ、これは山城の旅になっている。原文の「高槻村」は、旧訓タカツキムラノであったのを、槻落葉《つきのおちば》でタカツキノムラと訓み、「高く槻の木の生たる木群《こむら》をいふ成《なる》べし」といって学者多くそれに従ったが、生田耕一氏が、高は山城国|綴喜《つづき》郡多賀郷のタカで、今の多賀・井手あたりであろうという説をたて、他の歌例に、「山城の泉《いづみ》の小菅」、「山城の石田《いはた》の杜《もり》」などあるのを参考し、「山城の高《たか》の槻村」だとした。爾来《じらい》諸学者それを認容するに至った。
 一首の意は、もっと早く来て見れば好かったのに、今来て見れば此処の山城の高《たか》という村の槻の林の黄葉《もみじ》も散ってしまった、というので、高(多賀郷)の槻の林というものはその当時も有名であったのかも知れない。或は高というのは郷の名でも、作者の意識には、「高い槻の木」ということをほのめかそうとしたのであったのかも知れない。そうすれば、従来槻落葉の説に従って味って来たようにして味うことも出来る。この歌では、「山城の高の槻村散りにけるかも」という詠歎が主眼なのだが、沁みとおるような響が無い。また、「疾く来ても見てましものを」と云っても、いかにもあっさりして居る。是は単に旅の歌だから自然この程度の感慨になるのだが、つまりは黒人流なのだということになるのであろう。

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此処《ここ》にして家《いへ》やもいづく白雲《しらくも》の棚引《たなび》く山《やま》を越《こ》えて来《き》にけり 〔巻三・二八七〕 石上卿
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 志賀に行幸あった時、石上卿《いそのかみのまえつきみ》の作ったものであるが、作者の伝は不明で、行幸せられた天皇も、荒木田|久老《ひさおい》は、大宝二年|太上天皇《おおきみすめらみこと》(持統天皇)が三河美濃に行幸あった時、近江にも立寄られたのだろうと云っている。そうすれば石上麻呂であるかも知れない。左大臣石上麻呂は養老元年三月に薨じているから、後人が題詞を書いたとせば、「卿」でもよいのである。併し養老元年九月の行幸(元正天皇)の時だとすると、やはり槻落葉《つきのおちば》でいったごとく石上豊庭《いそのかみのとよにわ》だろうということとなる。この豊庭説が有力である。
 旅を遙々来た感じで、直線的にいい下して、相当の感情を出している歌である。大伴旅人の歌に、「此処にありて筑紫《つくし》や何処《いづく》白雲の棚引く山の方《かた》にしあるらし」(巻四・五七四)というのがあって、形態が似ている。これは旅人の歌よりも早いものであるが、只今は二つ並べて鑑賞することとする。この歌の、「白雲の棚引く山を越えて来にけり」も、近江で詠んだのだから、直接性があるし、旅人のは京《みやこ》にあって筑紫を詠んだのだから、間接のようだが、これは筑紫に残っている沙弥満誓《さみのまんぜい》に和《こた》えた歌だから、そういう意味で心に直接性があるのである。

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昼《ひる》見《み》れど飽《あ》かぬ田児《たご》の浦《うら》大王《おほきみ》のみことかしこみ夜《よる》見《み》つるかも 〔巻三・二九七〕 田口益人
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 田口益人《たぐちのますひと》が和銅元年|上野国司《かみつけぬのくにのつかさ》となって赴任《ふにん》の途上|駿河《するが》国|浄見《きよみ》埼を通って来た時の歌である。国司は守《かみ》・介《すけ》・掾《じょう》・目《さかん》ともに通じていうが、ここは国守である。浄見埼は廬原《いおはら》郡の海岸で今の興津《
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