おさかべのあたいちくに》の作である。出立のまぎわに、蘆《あし》の垣根の隅《すみ》の処に立って、袖もしおしおと濡《ぬ》れるまで泣いた、妻のことが思出されてならない、というので、「蘆垣の隈所」というあたりは実際であっただろう。また、「泣きしぞ思はゆ」も上総の東国語であるだろう。或は前にも「おも倍由」というのがあったから、必ずしも訛でないかも知れぬが、「泣きしぞ思ほゆる」というのが後の常識であるのに、「ぞ」でも「思はゆ」で止めている。「しほほ」も特殊で、濡れる形容であろうが、また、「しおしおと」とか、「しぬに」とも通うのかも知れない。
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大君《おほきみ》の命《みこと》かしこみ出《い》で来《く》れば我《わ》ぬ取《と》り着《つ》きていひし子《こ》なはも 〔巻二十・四三五八〕 防人
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上総|周淮《すえ》郡、上丁|物部竜《もののべのたつ》の作。下の句は、「我《わ》に[#「に」に白丸傍点]取り着きて言ひし子ろ[#「子ろ」に白丸傍点]はも」というのだが、それが訛《なま》ったのである。「我ぬ取り着きていひし子なはも」の句は、現実に見るような生々《いきいき》したところがあっていい。当時にあっては今の都会の女などに比して、感動の表出が活溌で且つ露骨であったとおもうのは、抑制が社会的に洗練せられないからであるが、歌として却って面白いのが残っている。「道のべの荊《うまら》の末《うれ》に這《は》ほ豆のからまる君を離《はか》れか行かむ」(同・四三五二)も同じような場面だが、この豆蔓《まめづる》の方は間接に序詞を使って技巧的であるが、それでも、豆蔓のからまるところは流石《さすが》に真実でおもしろい。
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筑波嶺《つくばね》のさ百合《ゆる》の花《はな》の夜床《ゆどこ》にも愛《かな》しけ妹《いも》ぞ昼《ひる》もかなしけ 〔巻二十・四三六九〕 防人
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常陸那賀郡、上丁|大舎人部千文《おおとねりべのちぶみ》の作である。「夜床《よどこ》」をユドコと訛ったから、「百合《ゆる》」のユに連続せしめて序詞とした。併し、「筑波嶺のさ百合の花の」までは、ただの空想でなく郷土的実際の見聞を本《もと》としたのが珍らしいのである。「かなしけ」は、「かなしき」の訛。一首の意は、夜の床でも可哀いい妻だが、昼日中でもやはり可哀《かあ》いくて忘れられない、というので、その言い方が如何にも素朴|直截《ちょくせつ》で愛誦するに堪《た》うべきものである。このいい方は巻十四の東歌に見るような民謡風なものだから、或はそういう既にあったものを書き記して通告したとも取れるが、若しこの千文《ちぶみ》という者が作ったとすると、東歌なども東国の人々によって作られたことが分かり、興味も亦《また》深いわけである。「旅行《たびゆき》に行くと知らずて母父《あもしし》に言申《ことまを》さずて今ぞ悔《くや》しけ」(巻二十・四三七六)の結句が、「悔しき」の訛で、「かなしき」を「かなしけ」と云ったのと同じである。
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あられ降《ふ》り鹿島《かしま》の神《かみ》を祈《いの》りつつ皇御軍《すめらみくさ》に吾《われ》は来《き》にしを 〔巻二十・四三七〇〕 防人
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前と同じ作者である。鹿島の神は、現在茨城県鹿島郡鹿島町に鎮座《ちんざ》する官幣大社鹿島神宮で、祭神は武甕槌命《たけみかづちのみこと》にまします。千葉県香取郡香取町に鎮座する官幣大社香取神宮(祭神|経津主命《ふつぬしのみこと》即ち伊波比主命《いわいぬしのみこと》)と共に、軍神として古代から崇敬《すうけい》至ったものであった。防人《さきもり》等は九州防衛のため出発するのであるが、出発に際しまた道すがらその武運の長久を祈願したのであった。土屋文明氏によれば、常陸の国府は今の石岡町にあったから、そこから鹿島郡軽野を過ぎ、下総国海上郡に出たようだから、途中鹿島の神に参拝することが出来たのである。
一首の意は、武神にまします鹿島の神に、武運をば御いのりしながら、天皇の御軍勢のなかに私は加わりまいりましたのでござりまする、というのである。
結句の「を」は感歎の助詞で、それを以て感奮の心を籠《こ》めて結句としたものである。併し若《も》しこの「来にしを」を、「来たものを」、「来たのに」というように余言を籠もらせたと解釈するなら、「皇御軍のために我は来しますらをなるを、夜昼ともに悲しと思ひし妻を留めて置つれば心弱く顧せらるゝ事を云ひ残して含めるなるべし」(代匠記)か「鹿島の神に祈願《こひいのり》て官軍《すめらみいくさ》に出《いで》て来しものをいかでいみじき功勲《いさを》を立てずして帰り来るべしや」(古義)かのいずれにかになる。「あられ降り」を「鹿島」の枕詞にしたのは、霰《あられ》が降って喧《かしま》しいから、同音でつづけた。カマカマシ、カシカマシ、カシマシとなったのだろうと云われて居る。こういう技巧も既に一部に行われていたものか、或はこの作者の発明か。
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ひなぐもり碓日《うすひ》の坂《さか》を越《こ》えしだに妹《いも》が恋《こひ》しく忘《わす》らえぬかも 〔巻二十・四四〇七〕 防人
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他田部子磐前《おさたべのこいわさき》という者の作。「ひなぐもり」は、日の曇り薄日《うすび》だから、「うすひ」の枕詞とした。一首は、まだようやく碓氷峠《うすいとうげ》を越えたばかりなのに、もうこんなに妻が恋しくて忘れられぬ、というのであろう。当時は上野からは碓氷峠を越して信濃《しなの》に入り、それから美濃《みの》路へ出たのであった。この歌は歌調が読んでいていかにも好く、哀韻さえこもっているので此辺《このへん》で選ぶとすれば選に入るべきものであろう。「だに」という助詞は多くは名詞につくが、必ずしもそうでなく、「棚霧《たなぎ》らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代《しろ》に添へてだに見む」(巻八・一六四二)、「池のべの小槻《をつき》が下の細竹《しぬ》な苅りそね其をだに君が形見に見つつ偲ばむ」(巻七・一二七六)等の例がある。
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防人《さきもり》に行くは誰《た》が夫《せ》と問《と》ふ人《ひと》を見《み》るが羨《とも》しさ物思《ものも》ひもせず 〔巻二十・四四二五〕 防人の妻
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昔年《さきつとし》の防人《さきもり》の歌という中にあるから、天平勝宝七歳よりもずっと前のものだということが分かる。またこれは防人の妻の作ったもののようである。一首は、見おくりの人だちの立《たち》こんだ中に交って、防人に行くのは誰ですか、どなたの御亭主ですか、などと、何の心配もなく、たずねたりする人を見ると羨《うらやま》しいのです、というので、そういう質問をしたのは女であったことをも推測するに難くはない。まことに複雑な心持をすらすらと云って除《の》けて、これだけのそつの無いものを作りあげたのは、そういう悲歎と羨望《せんぼう》の心とが張りつめていたためであろう。「物思ひもせず」と止めた結句も不思議によい。
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小竹《ささ》が葉《は》のさやぐ霜夜《しもよ》に七重《ななへ》着《か》る衣《ころも》にませる子《こ》ろが膚《はだ》はも 〔巻二十・四四三一〕 防人
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これも昔年の防人歌だと注せられている。一首は、笹の葉に冬の風が吹きわたって音するような、寒い霜夜に、七重もかさねて着る衣の暖かさよりも、恋しい女の膚《はだ》の方が暖い、というので、膚を中心として、「膚はも」と詠歎したのは覚官的である。また当時の民間では、七重の衣という言葉さえ羨《うらやま》しい程のものであっただろうから、こういう云い方も伝わっているのである。この歌も民謡風で防人が出発する時の歌などに似ないこと、前に出した、「かなしけ妹ぞ昼もかなしけ」(巻二十・四三六九)の場合と同じである。ただの東歌に類した民謡をば、蒐集《しゅうしゅう》した磐余伊美吉諸君《いわれのいみきもろきみ》が、進上された儘《まま》に防人の歌としたものであろう。
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雲雀《ひばり》あがる春《はる》べとさやになりぬれば都《みやこ》も見《み》えず霞《かすみ》たなびく 〔巻二十・四四三四〕 大伴家持
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これは家持作だが、天平勝宝七歳三月三日、防人《さきもり》を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]校《けんぎょう》する勅使、并《ならび》に兵部使人等、同《とも》に集《つど》える飲宴《うたげ》で、兵部少輔大伴家持の作ったものである。一首は、雲雀《ひばり》が天にのぼるような、春が明瞭《めいりょう》に来たのだから、都も見えぬまでに霞も棚びいている、というので、調《しらべ》がのびのびとして、苦渋が無く、清朗とでもいうべき歌である。「さやに」は清に、明かに、明瞭に、はっきりと、などの意で、この句はやはり一首にあっては大切な句である。なぜ家持はこういう歌を作ったかというに、その時来た勅使(安倍|沙美麿《さみまろ》)が、「朝なさな揚《あが》る雲雀になりてしか都に行きてはや帰り来む」(巻二十・四四三三)という歌を作ったので其《それ》に和したものである。勅使の歌が形式的|申訣《もうしわけ》的なので家持の歌も幾分そういうところがある。併し勅使の歌がまずいので、家持の歌が目立つのである。なお此時家持は、「含《ふふ》めりし花の初めに来しわれや散りなむ後に都へ行かむ」(同・四四三五)という歌をも作っているが、下の句はなかなか旨《うま》い。
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剣刀《つるぎたち》いよよ研《と》ぐべし古《いにしへ》ゆ清《さや》けく負《お》ひて来《き》にしその名《な》ぞ 〔巻二十・四四六七〕 大伴家持
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大伴家持は、天平勝宝八歳、「族《やから》に喩《さと》す歌」長短歌を作った。これは淡海真人三船《おうみのまひとみふね》の讒言《ざんげん》によって、出雲守大伴|古慈悲《こじひ》が任を解かれた、古慈悲は大伴の一家で宝亀八年八月に薨じた者だが、出雲守を罷《や》めさせられた時に家持がこの歌を作った。歌は句々緊張し、寧《むし》ろ悲痛の声ということの出来る程であり、長歌には、「聞く人の鑒《かがみ》にせむを、惜《あたら》しき清きその名ぞ、凡《おほろか》に心思ひて、虚言《むなこと》も祖《おや》の名|断《た》つな、大伴の氏《うぢ》と名に負《お》へる、健男《ますらを》の伴《とも》」というような句がある。この一首は、剣太刀《つるぎたち》をば愈《いよいよ》ますます励《はげ》み研《と》げ、既に神の御代から、清《さや》かに武勲の名望を背負い立って来たその家柄であるぞ、というので、「清《さや》けく」は清く明かにの意である。この短歌は、長歌の方でいろいろ細かく云ったから、大要的に結論を云ったようなものだが、やはり句々が緊張していていい。大伴家の家運が下降の向きにある時だったので、ことに悲痛の響となったのであろう。この短歌も威勢のよいのと同時に底に悲哀の韻をこもらせているのはそのためである。
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現身《うつせみ》は数《かず》なき身《み》なり山河《やまかは》の清《さや》けき見《み》つつ道《みち》を尋《たづ》ねな 〔巻二十・四四六八〕 大伴家持
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大伴家持が、「病に臥して無常を悲しみ修道を欲《ほり》して作れる歌」二首の一つである。「数なき」は、年齢の数の無いということ、年寿の幾何《いくら》もないこと、幾ばくも生きないことである。人間というものはそう長生をするものではない。よって、濁世を厭離《えんり》し、自然山川の清い風光に接見しつつ
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