がたの風が吹いて、幽《かす》かな音をたてている。あわれなこの夕がたよ、というので、これも後世なら、「あわれ」とでもいうところで、一種の寂しい悲しい気持である。この歌は結句で、「この夕《ゆふべ》かも」と名詞に「かも」をつづけているが、これも晩景を主としたいい方で、この歌の場合やはり動かぬものかも知れない。「つるばみの解洗《ときあら》ひ衣《ぎぬ》のあやしくも殊に着欲《きほ》しきこの夕《ゆふべ》かも」(巻七・一三一四)という前例がある。
 小竹に風の渡る歌は既に人麿の歌にもあったが、竹の葉ずれの幽かな寂しいものとして観入したのは、やはりこの作者独特のもので、中世紀の幽玄の歌も特徴があるけれども、この歌ほど具象的でないから、真の意味の幽玄にはなりがたいのであった。「梅の花散らまく惜しみ吾が苑《その》の竹の林に鶯鳴くも」(巻五・八二四)は天平二年大伴旅人の家の祝宴で阿氏|奥島《おきしま》の作ったものであるから此歌に前行して居り、「御苑生《みそのふ》の竹の林に鶯はしば鳴きにしを雪は降りつつ」(巻十九・四二八六)は此歌の少し前即ち一月十一日家持の作ったものである。
 鹿持雅澄《かもちまさずみ》の古義では、「いささ群竹」を「いささかの群竹」とせずに、「五十竹葉群竹《イササムラタケ》」と解し、また近時|沢瀉《おもだか》博士は「い笹[#「い笹」に白丸傍点]群竹」と解し、「ゆざさの上に霜の降る夜を」(巻十・二三三六)の「ゆざさ」などの如く、「笹」のこととした。なお少しく増補するに、古今集|物名《ぶつめい》に、「いささめに時まつ間にぞ日は経ぬる心ばせをば人に見えつつ」とあるのは、「笹」を咏込《よみこ》むために、「いささめ」を用いた。但しこれは平安朝の例である。

           ○

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うらうらに照《て》れる春日《はるび》に雲雀《ひばり》あがり情《こころ》悲《かな》しも独《ひとり》しおもへば 〔巻十九・四二九二〕 大伴家持
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 同じく家持が天平勝宝五年二月二十五日に作ったものである。一首は、麗《うら》らかに照らしておる春の光の中に、雲雀《ひばり》が空高くのぼる、独居して、物思うとなく物思えば、悲しい心が湧《わ》くのを禁じ難い、というので、万葉集の大部分の歌が対詠歌、相待《そうたい》的な愬《うった》えの歌であるのに、この歌は、不思議にも独詠的な歌である。歌に、「独しおもへば」というのが其《それ》を証しているが、独居沈思の態度は既に支那の詩のおもかげでもあり、仏教的静観の趣でもある。これも家持の到《いた》り着いた一つの歌境であった。
 前言にもいった天平二年の旅人宅の歌に、山上憶良の、「春されば先づ咲く宿の梅の花ひとり見つつや春日くらさむ」(巻五・八一八)には、ややこの歌と類似点があるが、それ以外のものの多くは恋愛情調で、対者(男女)を予想したものが多い、従って人間的肉体的なものが多い。然るにこの歌になると、すでにその趣がちがって、自然観入による、その反応としての詠歎になっている。
 巻十九(四一九二)の霍公鳥|并《ならびに》藤花を詠じた長歌に、「夕月夜かそけき野べに、遙遙《はろばろ》に鳴く霍公鳥」とあるのも亦《また》家持の作、「雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく」(巻二十・四四三四)も亦家持の作で、この方は巻十九のよりも制作年代が遅い(天平勝宝七|歳《さい》三月三日)のは注意すべきである。なお、その三月三日には安倍|沙美麿《さみまろ》が、「朝な朝《さ》なあがる雲雀《ひばり》になりてしか都に行きてはや帰り来む」(同・四四三三)という歌を作っているが、やはり家持の影響とおもわれるふしがある。
 この歌の左に、「春日遅遅として、※[#「倉+鳥」、第3水準1−94−67]※[#「庚+鳥」、第3水準1−94−64]《ひばり》正に啼《な》く。悽惆《せいちう》の意、歌に非《あら》ずば、撥《はら》ひ難し。仍《よ》りて此の歌を作り、式《も》ちて締緒《ていしよ》を展《の》ぶ」云々という文が附いている。※[#「倉+鳥」、第3水準1−94−67]※[#「庚+鳥」、第3水準1−94−64]は雲雀《ひばり》と訓《よ》ませており、和名鈔でもそうだが、実は鶯《うぐいす》に似た鳥だということである。
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巻第二十

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あしひきの山《やま》行《ゆ》きしかば山人《やまびと》の朕《われ》に得《え》しめし山《やま》づとぞこれ 〔巻二十・四二九三〕 元正天皇
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 大和国|添上《そふのかみ》郡|山村《やまむら》(今の帯解町辺)に行幸(元正天皇)あらせられた時、諸王臣に和歌を賦して奏すべしと仰せられた。その時御みずから作りたもうた御製である。(この御製歌は天平勝宝五年五月はじめて輯録《しゅうろく》されたから、孝謙天皇の御代になって居り、従って万葉集には元正天皇を先[#(ノ)]太上天皇《おおきすめらみこと》と記し奉っている。そして此歌の次に舎人親王《とねりのみこ》の和《こた》え奉った御歌が載って居り、親王は聖武天皇の天平七年に薨去せられたから、此行幸はそれ以前で元正天皇御在位中のことということになる。)
 一首の意は、朕《ちん》が山に行ったところが山に住む仙人どもがいろいろと土産《みやげ》を呉れた。此等はその土産である、というので、この山裹《やまづと》というのは、山の仙人の持つようなものをぼんやりと聯想《れんそう》し得るのであるが、宣長は、「山づとぞ是とのたまへるは、即御歌を指して、のたまへる也」(略解)と云ったのは、「それ諸王卿等、宜しく和歌を賦して奏すべしと、即ち御口号に曰く」と詞書にある、その「御口号」をば直ぐ山裹と宣長が取ったからこういう解釈になったのであろう。併し山裹の内容はただ山の仙人に関係ある物ぐらいにぼんやり解く方がいいのではあるまいか。そこで下の舎人親王の「心も知らず」の句も利《き》くのである。舎人親王の和《こた》え御歌は、「あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰《たれ》」(巻二十・四二九四)というので、前の「山人」は天皇の御事、後の「山人」は土産をくれた山の仙人の事であろう。そこで、「山に御いでになった陛下はもはや仙人でいらせられるから俗界の私どもにはもはや御心の程は分かりかねます。一体その山裹と仰せられるのは何でございましょう。またそれを奉った仙人というのは誰でございましょう」というので、御製歌をそのまま受けついで、軽く諧謔《かいぎゃく》せられたのであった。御製歌は、「山村」からの聯想で、直ぐ「山人」とつづけ、神仙的な雰囲気《ふんいき》をこめたから、不思議な清く澄んだような心地よい御歌になった。

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木《こ》の暗《くれ》の繁《しげ》き尾《を》の上《へ》をほととぎす鳴《な》きて越《こ》ゆなり今《いま》し来《く》らしも 〔巻二十・四三〇五〕 大伴家持
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 大伴家持が霍公鳥《ほととぎす》を詠《よ》んだもので、鬱蒼《うっそう》と木立《こだち》の茂っている山の上に霍公鳥が今鳴いている、あの峰を越して間も無く此処にやって来るらしいな、というので、気軽に作った独詠歌だが、流石《さすが》に練れていて旨《うま》いところがある。それは、「鳴きて越ゆなり」と現在をいって、それに主点を置いたかと思うと、おのずからそれに続くべき、第二の現在「今し来らしも」と置いて、一首の一番大切な感慨をそれに寓《ぐう》せしめたところが旨いのである。霍公鳥の歌は万葉には随分あるが、此歌は平淡でおもしろいものである。家持の作った歌の中でも晩期のものだが、稍《やや》自在境に入りかかっている。

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我《わ》が妻《つま》も画《ゑ》にかきとらむ暇《いつま》もが旅行《たびゆ》く我《あれ》は見つつ偲《しぬ》ばむ 〔巻二十・四三二七〕 防人
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 天平勝宝七歳二月、坂東《ばんどう》諸国の防人《さきもり》を筑紫《つくし》に派遣して、先きの防人と交替せしめた。その時防人等が歌を作ったのが一群となって此処に輯録せられている。此歌は長下《ながのしも》郡、物部古麿《もののべのふるまろ》という者の作ったものである。一首は、自分の妻の姿をも、画にかいて持ってゆく、その描《か》く暇が欲しいものだ。遙々《はるばる》と辺土の防備に行く自分は、その似顔絵を見ながら思出したいのだ、というので、歌は平凡だが、「我が妻も画にかきとらむ」という意嚮《いこう》が珍らしくもあり、人間自然の意嚮でもあろうから、此に選んで置いた。「父母も花にもがもや草枕旅は行くとも※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]《ささ》ごて行かむ」(巻二十・四三二五)も意嚮は似ているが、この方には類想のものが多い。また、「母刀自《ははとじ》も玉にもがもや頂《いただ》きて角髪《みづら》の中にあへ纏《ま》かまくも」(同・四三七七)というのもある。

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大君《おほきみ》の命《みこと》かしこみ磯《いそ》に触《ふ》り海原《うのはら》わたる父母《ちちはは》を置《お》きて 〔巻二十・四三二八〕 防人
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 これも防人の歌で、助丁《すけのよぼろ》、丈部造人麿《はせつかべのみやつこひとまろ》という者が作った。一首は、天皇の命を畏《かし》こみ体して、船を幾たびも磯に触れあぶない思をし、また浪あらく立つ海原をも渡って防人に行く。父も母も皆国元に残して、というのであるが、かしこみ、触り、わたる、おきてという具合に稍《やや》小きざみになっているのは、作歌的修練が足りないからである。併《しか》し此歌では、「磯に触り」という語と、「父母を置きて」という語に心を牽《ひ》かれて取っておいた。この男は妻のことよりも「父母」のことが第一身に応《こた》えたのであっただろう。また「磯に触り」の句は、「大船を榜《こ》ぎの進みに磐《いは》に触り覆《かへ》らば覆《かへ》れ妹によりてば」(巻四・五五七)という例があるが、「磯|毎《ごと》にあまの釣舟|泊《は》てにけり我船泊てむ磯の知らなく」(巻十七・三八九二)があるから、幾度も碇泊《ていはく》しながらという意もあるだろう。しかし「触り」に重きを置いて解釈してかまわない。一寸前にも云ったが、防人の歌に父母のことを云ったのが多い。「水鳥の立ちのいそぎに父母に物言《ものは》ず来《け》にて今ぞ悔しき」(巻二十・四三三七)、「忘らむと野行き山行き我来れど我が父母は忘れせぬかも」(同・四三四四)、「橘の美衣利《みえり》の里に父を置きて道の長道《ながて》は行きがてぬかも」(同・四三四一)、「父母が頭《かしら》かき撫《な》で幸《さ》く在れていひし言葉ぞ忘れかねつる」(同・四三四六)等である。

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百隈《ももくま》の道《みち》は来《き》にしをまた更《さら》に八十島《やそしま》過《す》ぎて別《わか》れか行《ゆ》かむ 〔巻二十・四三四九〕 防人
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 防人、助丁刑部直三野《すけのよぼろおさかべのあたいみぬ》の詠んだ歌である。一首の意は、これまで陸路を遙々《はるばる》と、いろいろの処を通って来たが、これからいよいよ船に乗って、更に多くの島のあいだを通りつつ、とおく別れて筑紫へ行くことであろうというので、難波から船出するころの歌のようである。専門|技倆《ぎりょう》的に巧でないが、真率《しんそつ》に歌っているので人の心を牽《ひ》くものである。この歌には言語の訛《なまり》が目立たず、声調も順当である。

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蘆垣《あしがき》の隈所《くまど》に立《た》ちて吾妹子《わぎもこ》が袖《そで》もしほほに泣《な》きしぞ思《も》はゆ 〔巻二十・四三五七〕 防人
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 上総市原郡、上丁刑部直千国《かみつよぼろ
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