もう。
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春《はる》まけて物《もの》がなしきにさ夜《よ》更《ふ》けて羽《は》ぶき鳴《な》く鴫《しぎ》誰《た》が田《た》にか住《す》む 〔巻十九・四一四一〕 大伴家持
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天平勝宝二年三月一日、大伴家持が、「飜《と》び翔《かけ》る鴫《しぎ》を見て」作った歌である。一首の意は、春になって何となく憂愁をおぼえるのに、この夜更《よふけ》に羽ばたきをしながら鴫が一羽鳴いて行った。あゝあの鴫は誰《たれ》の田に住んでいる鴫だろうか、というのである。「誰が田にか住む」の一句は、恋愛情調にかようものだが、民謡的な一般性を脱して個的な深みが加わって居り、この細みある感傷は前にも云ったように、家持に至って味われる万葉の新歌境なのである。そして家持は娘子《おとめ》などと贈答している歌よりこういう独居的歌の方が出来のよいのは、心の沈潜によるたまものに他ならぬのである。
この歌の近くに、「春まけてかく帰るとも秋風に黄葉《もみ》づる山を超《こ》え来《こ》ざらめや」(巻十九・四一四五)、「夜くだちに寝覚めて居れば河瀬《かはせ》尋《と》め情《こころ》もしぬに鳴く千鳥かも」(同・四一四六)という歌があり、共に家持の歌であるが、やはり同様の感傷の細みが出来て来ている。「山を超え来ざらめや」、「河瀬尋め」のあたりの語気は、中世紀の幽玄歌に移行するようでも、まだまだ実質を保って、空虚な観念に墜落していない。
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もののふの八十《やそ》をとめ等《ら》が汲《く》み乱《まが》ふ寺井《てらゐ》の上《うへ》の堅香子《かたかご》の花《はな》 〔巻十九・四一四三〕 大伴家持
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大伴家持作、堅香子《かたかご》草の花を攀《よ》ぢ折る歌一首という題詞がある。堅香子は山慈姑《かたくり》で薄紫の花咲き、根から澱粉《でんぷん》の上品を得る。寺に泉の湧《わ》くところがあって、其《その》ほとりに堅香子の花が咲いている。これは単独でなく群生している。その泉に多くの娘たちが水を汲みに来て、清くとおる声で話しあう、それが可憐《かれん》でいかにも楽しそうである。物部《もののふ》が多くの氏に分かれているので、「八十」の枕詞とした。此処の「八十をとめ」は、多くの娘たちということ、「まがふ」は、入りまじることだから、此処は入りかわり立ちかわり水汲みに来る趣である。これも前の桃の花の歌に同じく、我妹子にむかって情を告白するのでなく、若い娘等の動作にむかって客観的の美を認めて、それにほんのりした情を抒《の》べているのである。こういう手法もまた家持の発明と解釈することが出来る。前にあった、「かはづ鳴く甘南備《かむなび》河にかげ見えて今か咲くらむ山振《やまぶき》の花」(巻八・一四三五)もまた名詞止だが、幾分色調の差別があるようだ。
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あしひきの八峰《やつを》の雉《きぎし》なき響《とよ》む朝けの霞見ればかなしも 〔巻十九・四一四九〕 大伴家持
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大伴家持作、暁に鳴く雉《きぎし》を聞く歌、という題詞がある。山が幾重にも畳《たた》まっている、その山中の暁に雉《きじ》が鳴きひびく、そして暁の霧がまだ一面に立ち籠《こ》めて居る。その雉の鳴く山を一面にこめた暁の白い霧を見ると、うら悲しく身に沁《し》むというのである。この悲哀の情調も、恋愛などと相関した肉体に切《せつ》なものでなく、もっと天然に投入した情調であるのも、人麿などになかった一つの歌境と謂《い》うべきで、家持の作中でも注意すべきものである。「八岑《やつお》越え鹿《しし》待つ君が」(巻七・一二六二)、「八峰には霞たなびき、谿《たに》べには椿花さき」(巻十九・四一七七)等の如く、畳まる山のことである。なお集中、「神さぶる磐根《いはね》こごしきみ芳野《よしぬ》の水分《みくまり》山を見ればかなしも」(巻七・一一三〇)、「黄葉の過ぎにし子等と携《たづさ》はり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六)、「朝鴉《あさがらす》はやくな鳴きそ吾背子が朝けの容儀《すがた》見れば悲しも」(巻十二・三〇九五)等の例があるが、家持のには家持の領域があっていい。
この歌の近くに、「朝床に聞けば遙けし射水《いみづ》河朝|漕《こ》ぎしつつ唱《うた》ふ船人」(巻十九・四一五〇)という歌がある。この歌はあっさりとしているようで唯《ただ》のあっさりでは無い。そして軽浮の気の無いのは独り沈吟の結果に相違ない。
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丈夫《ますらを》は名《な》をし立《た》つべし後《のち》の代《よ》に聞《き》き継《つ》ぐ人《ひと》も語《かた》り継《つ》ぐがね 〔巻十九・四一六五〕 大伴家持
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大伴家持作、慕[#レ]振[#二]勇士之名[#一]歌一首で、山上憶良《やまのうえのおくら》の歌に追和したと左注のある長歌の反歌である。憶良の歌というのは、巻六(九七八)の、「士《をのこ》やも空《むな》しかるべき万代《よろづよ》に語り継ぐべき名は立てずして」というのであった。憶良の歌は病牀にあって歎いたものだが、家持のは、父祖の功績をおもい現在自分の身上を顧みての感慨を吐露したものである。長歌には、「ますらをや空しくあるべき」という句が入ったり、「足引の八峰踏み越え、さしまくる心さやらず、後の代の語りつぐべく、名を立つべしも」という句が入ったり、兎《と》に角《かく》憶良の歌を模倣しているのは、憶良の歌を読んで感奮したからであろう。
一首の意は、大丈夫たるものは、まさに名を立つべきである。後代その名を聞く人々が、またその名を人々に語り伝えるように、そうありたいものだ、というのである。「がね」は、そういうようにありたいと希望をいい表わしている。「里人も謂《い》ひ継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならめや」(巻十二・二八七三)、「白玉を包みてやらば菖蒲《あやめぐさ》花橘にあへも貫《ぬ》くがね」(巻十八・四一〇二)等の例がある。なお笠金村《かさのかなむら》が塩津山で作った歌、「丈夫《ますらを》の弓上《ゆずゑ》ふり起し射つる矢を後見む人は語り継ぐがね」(巻三・三六四)があって、家持はそれをも取入れて居る。つまり此一首は憶良の歌と金村の歌との模倣によって出来ていると謂ってもいい程である。家持は先輩の作歌を読んで勉強し、自分の力量を段々と積みあげて行ったものであるが、彼は先輩の歌のどういうところを取り用いたかを知るに便利で且つ有益なる歌の一つである。憶良の歌の、「空しかるべき」は切実な句であるが、それは長歌の方に入れたから、これでは「名をし立つべし」とした。憶良の歌に少し及ばないのは既にこの二句の差に於《おい》てあらわれている。
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この雪《ゆき》の消《け》のこる時《とき》にいざ行《ゆ》かな山橘《やまたちばな》の実《み》の照《て》るも見《み》む 〔巻十九・四二二六〕 大伴家持
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大伴家持が、天平勝宝二年十二月雪の降った日にこの歌を作った。山橘は藪柑子《やぶこうじ》で赤い実が成るので赤玉ともいっている。一首は、この大雪が少くなった残雪の頃《ころ》にみんなして行こう。そして山橘の実が真赤に成っているのを見よう、というので、雪の中に赤くなっている藪柑子の実に感興を催したものである。「いざ行かな」と促した語気に、皆と共に行こうという、気乗のしたことがあらわれているし、「実の照るも見む」は美しい句で、家持の感覚の鋭敏を示すものである。なお、家持には、「消《け》のこりの雪にあへ照る足引の山橘を裹《つと》につみ来《こ》な」(巻二十・四四七一)という歌もあって、山橘に興味を持っていることが分かる。この巻十九の歌の方が優《まさ》っている。
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韓国《からくに》に往《ゆ》き足《た》らはして帰《かへ》り来《こ》む丈夫武男《ますらたけを》に御酒《みき》たてまつる 〔巻十九・四二六二〕 多治比鷹主
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天平勝宝四年|閏《うるう》三月、多治比《たじひ》真人|鷹主《たかぬし》が、遣唐副使大伴|胡麿宿禰《こまろのすくね》を餞《うまのはなむけ》して作った歌である。「行き足らはして」は遣唐の任務を充分に果してという意。「御酒」は、祝杯をあげることで、キは酒の古語で、「黒酒《くろき》白酒《しろき》の大御酒《おほみき》」(中臣寿詞《なかとみのよごと》)などの例がある。この一首は、真面目に緊張して歌っているので、こういう寿歌の体《たい》を得たものである。この歌で注意すべきは、「行き足らはして」の句と、「御酒たてまつる」という四三調の結句とであろう。この作者の歌はただ一首万葉集に見えている。
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新《あらた》しき年《とし》の始《はじめ》に思《おも》ふどちい群《む》れて居《を》れば嬉《うれ》しくもあるか 〔巻十九・四二八四〕 道祖王
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天平勝宝五年正月四日、石上《いそのかみ》朝臣|宅嗣《やかつぐ》の家で祝宴のあった時、大膳大夫|道祖王《ふなとのおおきみ》が此歌を作った。初句、「あらたしき」で安良多之《アラタシ》の仮名書の例がある。この歌は、平凡な歌だけれども、新年の楽宴の心境が好《よ》く出ていて、結句で、「嬉しくもあるか」と止めたのも率直で効果的である。それから、「おもふどちい群れてをれば」も、心の合った親友が会合しているという雰囲気《ふんいき》を籠《こ》めた句だが、簡潔で日本語のいい点をあらわしている。類似の句には、「何すとか君を厭《いと》はむ秋萩のその初花《はつはな》のうれしきものを」(巻十・二二七三)がある。
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春《はる》の野《ぬ》に霞《かすみ》たなびきうらがなしこの夕《ゆふ》かげにうぐひす鳴《な》くも 〔巻十九・四二九〇〕 大伴家持
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天平勝宝五年二月二十三日、大伴家持が興に依って作歌二首の第一である。一首は、もう春の野には霞がたなびいて、何となくうら悲しく感ぜられる。その夕がたの日のほのかな光に鶯が鳴いている、というので、日の入った後の残光と、春野に「おぼほし」というほどにかかっている靄《もや》とに観入して、「うら悲し」と詠歎したのであるが、この悲哀の情を抒《の》べたのは既に、人麿以前の作歌には無かったもので、この深く沁《し》む、細みのある歌調は家持あたりが開拓したものであった。それには支那文学や仏教の影響のあったことも確かであろうが、家持の内的「生」が既にそうなっていたとも看《み》ることが出来る。「うらがなし」を第三句に置き休止せしめたのも不思議にいい。
「朝顔は朝露おひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」(巻十・二一〇四)、「夕影に来鳴くひぐらし幾許《ここだく》も日毎に聞けど飽かぬ声かも」(同・二一五七)などの例がある。なお、「醜霍公鳥《しこほととぎす》、暁《あかとき》のうらがなしきに」(巻八・一五〇七)は同じく家持の作だから同じ傾向のものと看《み》るべく、「春の日のうらがなしきにおくれゐて君に恋ひつつ顕《うつ》しけめやも」(巻十五・三七五二)は狭野茅上娘子《さぬのちがみのおとめ》の歌だから、やはり同じ傾向の範囲と看ることが出来、「うらがなし春の過ぐれば、霍公鳥いや敷き鳴きぬ」(巻十九・四一七七)もまた家持の作である。
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わが宿《やど》のいささ群竹《むらたけ》吹《ふ》く風《かぜ》の音《おと》のかそけきこの夕《ゆふべ》かも 〔巻十九・四二九一〕 大伴家持
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同じく第二首である。「いささ群竹」はいささかな竹林で、庭の一隅《いちぐう》にこもって竹林があった趣である。一首は、私の家の小竹林に、夕
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