になるまでということで簡潔ないい方《かた》である。「貴くもあるか」は、貴く畏《かしこ》くありがたいというので、自身を貴く感ずるというのはやがて大君を貴み奉るその結果となるので、これも特有のいい方である。この歌は、謹んで作っているので、重厚なひびきがあり、結句の「貴くもあるか」が一首の中心句をなして居る。この時、紀朝臣清人《きのあそみきよひと》は、「天の下すでに覆《おほ》ひて降る雪の光を見れば貴くもあるか」(巻十七・三九二三)を作り、紀朝臣|男梶《おかじ》は、「山の峡《かひ》そことも見えず一昨日《をとつひ》も昨日も今日も雪の降れれば」(同・三九二四)を作り、大伴家持は、「大宮の内にも外《と》にも光るまで零《ふ》らす白雪見れど飽かぬかも」(同・三九二六)を作って居る。
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たまくしげ二上山《ふたがみやま》に鳴《な》く鳥《とり》の声《こゑ》の恋《こひ》しき時《とき》は来《き》にけり 〔巻十七・三九八七〕 大伴家持
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大伴家持は、天平十九年春三月三十日、二上山の賦《ふ》一首を作った、その反歌である。この二上山は越中|射水《いみず》郡(今は射水・氷見両郡)今の伏木町の西北に聳《そび》ゆる山である。もう一つの反歌は、「渋渓《しぶたに》の埼の荒磯《ありそ》に寄する波いやしくしくに古《いにし》へ思ほゆ」(巻十七・三九八六)というのであるが、この「たまくしげ」の歌は、毫《ごう》も息を張ることなく、ただ感を流露《りゅうろ》せしめたという趣の歌である。「興に依りて之を作る」と左注にあるが、興の儘《まま》に、理窟《りくつ》で運ばずに家持流の語気で運んだのはこの歌をして一層なつかしく感ぜしめる。既に出した、大伴坂上郎女の歌に、「よの常に聞くは苦しき喚子鳥《よぶこどり》声なつかしき時にはなりぬ」(巻八・一四四七)と稍《やや》似て居るが、家持の方が単純で素直である。
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婦負《めひ》の野《ぬ》の薄《すすき》おし靡《な》べ降《ふ》る雪《ゆき》に宿《やど》借《か》る今日《けふ》し悲《かな》しく思《おもほ》ほ[#「ほ」に「イは」の注記]ゆ 〔巻十七・四〇一六〕 高市黒人
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これは、高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の歌だが、天平十九年に三国真人五百国《みくにのまひといおくに》という者が誦し伝えたのを、越中にいた家持が録しとどめたもので、「婦負の野」は、和名鈔《わみょうしょう》には禰比《ネヒ》とあり、今でも婦負郡をネイグンといっている。婦負の野は現在射水郡小杉町から呉羽山にわたる間の平地だろうと云われている。黒人は人麿などと同時代の歌人だが、地名を詠込んであるのを見ると、越中まで来たと考えていいであろう。この一首で、「悲しく思ほゆ」の句が心を牽《ひ》く。当時の※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅《きりょ》の実際からこの句が来たからであろう。山部赤人の歌に、「印南野《いなみぬ》の浅茅《あさぢ》おしなべさ宿《ぬ》る夜の日長《けなが》くあれば家し偲ばゆ」(巻六・九四〇)というのがあるが、此歌と関係あるとすると、黒人の此一首も軽々に看過出来ないこととなる。結句は原文「於毛倍遊」でオモハユとも訓んでいる。そうすれば、「おもはる」と同じで、「はろばろに於忘方由流可母《オモハユルカモ》」(巻五・八六六)、「かぢ取る間なく京師《みやこ》し於母倍由《オモハユ》」(巻十七・四〇二七)等の例もあるが、四〇二七の「倍」は「保」とも書かれて居り、また「おもほゆ」の用例の方が大部分を占めている。
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珠洲《すす》の海《うみ》に朝びらきして漕《こ》ぎ来《く》れば長浜《ながはま》の浦《うら》に月《つき》照《て》りにけり 〔巻十七・四〇二九〕 大伴家持
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大伴家持作。「珠洲郡より発船《ふなで》して治布《ちふ》に還《かへ》りし時、長浜湾《ながはまのうら》に泊《は》てて、月光を仰ぎ見て作れる歌一首」という題詞と、「右件《みぎのくだり》の歌詞は、春の出挙《すいこ》に依りて諸郡を巡行す。当時|属目《しょくもく》する所之を作る」という左注との附いている歌である。治布は治府即ち国府か(全釈)。左注の「出挙」は春、官の稲を貸すこと。「朝びらき」は、朝に船が港を出ることで、「世の中を何に譬《たと》へむ朝びらき榜《こ》ぎ去《い》にし船の跡なきごとし」(巻三・三五一)という沙弥満誓《さみのまんぜい》の歌があること既にいった如くである。この歌も、何の苦も無く作っているようだが、うちに籠《こも》るものがあり、調《しらべ》ものびのびとこだわりのないところ、家持の至りついた一つの境界《きょうがい》であるだろう。特に結句の、「月照りにけり」は、ただ一つ万葉にあって、それが家持の句だということもまた注目に値《あたい》するのである。
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巻第十八
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あぶら火《び》の光《ひかり》に見《み》ゆる我《わ》が縵《かづら》さ百合《ゆり》の花の笑《ゑ》まはしきかも 〔巻十八・四〇八六〕 大伴家持
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天平感宝《てんぴょうかんぽう》元年五月九日、越中国府の諸官吏が、少目《さかん》の秦伊美吉石竹《はたのいみきいわたけ》の官舎で宴を開いたとき、主人の石竹が百合の花を鬘《かずら》に造って、豆器《ずき》という食器の上にそれを載せて、客人に頒《わか》った。その時大伴家持の作った歌である。結句の、「笑まはしきかも」は、美しく楽しくて微笑せしめられる趣である。美しい百合花をあらわすのに、感覚的にいうのも家持の一特徴だが、「あぶら火の光に見ゆる」と云ったのは、流石《さすが》に家持の物を捉える力量を示すものである。「我が縵《かづら》」といったのは、自分の分として頂戴《ちょうだい》した縵という意味である。
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天皇《すめろぎ》の御代《みよ》栄《さか》えむと東《あづま》なるみちのく山《やま》に金花《くがねはな》咲《さ》く 〔巻十八・四〇九七〕 大伴家持
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大伴家持は、天平感宝元年五月十二日、越中国守の館で、「陸奥《みちのく》国より金《くがね》を出せる詔書を賀《ことほ》ぐ歌一首|并《ならび》に短歌」を作った。長歌は百七句ばかりの長篇で、結構も言葉も骨折ったものであり、それに反歌三つあって、此は第三のものである。一首の意は、天皇(聖武)の御代は永遠に栄える瑞象《ずいしょう》としてこのたび東《あずま》の陸奥の山から黄金が出た、というので、それを金の花が咲いたと云った。この短歌は余り細かく気を配らずに一|息《いき》にいい、言葉の技法もまた順直だから荘重に響くのであって、賀歌としてすぐれた態《たい》をなしている。結句に「かも」とか「けり」とか「やも」とかが無く、ただ「咲く」と止めたのも此《この》場合|甚《はなは》だ適切である。此等の力作をなすに当り、家持は知《し》らず識《し》らず人麿・赤人等先輩の作を学んで居る。
続紀《しょくき》には、天平二十一年二月、陸奥《みちのく》始めて黄金を貢《みつ》いだことがあり、これは東大寺大仏造営のために役立ち、詔にも、開闢《かいびゃく》以来我国には黄金は無く、皆外国からの貢《みつぎ》として得たもののみであったのに、朕《ちん》が統治する陸奥の少田《おた》郡からはじめて黄金を得たのを、驚き悦び貴《とうと》びたもう旨が宣せられてある。また長歌には、「大伴の遠つ神祖《かむおや》の、其の名をば大来目主《おほくめぬし》と、負《お》ひ持ちて仕へし官《つかさ》、海行かば水漬《みづ》く屍《かばね》、山ゆかば草むす屍、おほきみの辺《へ》にこそ死なめ、顧《かへり》みはせじと言立《ことだ》て」(巻十八・四〇九四)云々とあるもので、家持は生涯の感激を以て此の長短歌を作っているのである。
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この見《み》ゆる雲《くも》ほびこりてとの曇《ぐも》り雨《あめ》も降《ふ》らぬか心《こころ》足《だら》ひに 〔巻十八・四一二三〕 大伴家持
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天平感宝元年|閏《うるう》五月六日以来、旱《ひでり》となって百姓が困っていたのが、六月一日にはじめて雨雲の気を見たので、家持は雨乞《あまごい》の歌を作った。此はその反歌で、長歌には、「みどり児の乳乞《ちこ》うがごとく、天《あま》つ水仰ぎてぞ待つ、あしひきの山のたをりに、彼《こ》の見ゆる天《あま》の白雲、海神《わたつみ》の沖つ宮辺《みやべ》に、立ち渡りとの曇《ぐも》り合ひて、雨も賜はね」云々とあるものである。「この見ゆる」の「この」は「彼の」、「あの」という意である。「ほびこり」は「はびこり」に同じく、「との曇り」は雲の棚びき曇るである。「心足らひに」は心に満足する程に、思いきりというのに落着く。一首は大きくゆらぐ波動的声調を持ち、また海神にも迫るほどの強さがあって、家持の人麿から学んだ結果は、期せずしてこの辺にあらわれている。
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雪《ゆき》の上《うへ》に照《て》れる月夜《つくよ》に梅《うめ》の花《はな》折《を》りて贈《おく》らむ愛《は》しき児《こ》もがも 〔巻十八・四一三四〕 大伴家持
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天平勝宝元年十二月、大伴家持の作ったもので、越中の雪国にいるから、「雪の上に照れる月夜に」の句が出来るので、こういう歌句の人麿の歌にも無いのは、人麿はこういう実際を余り見なかったせいもあるだろう。作歌のおもしろみは這般《しゃはん》の裡《うち》にも存じて居り、作者生活の背景ということにも自然|関聯《かんれん》してくるのである。下の句もまた、越中にあって寂しい生活をしているので、都をおもう情と共にこういう感慨がおのずと出たものと見える。
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巻第十九
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春《はる》の苑《その》くれなゐにほふ桃《もも》の花《はな》した照《て》る道《みち》に出《い》で立《た》つ※[#「女+感」、下−156−4]嬬《をとめ》 〔巻十九・四一三九〕 大伴家持
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大伴家持が、天平勝宝二年三月一日の暮に、春苑《はるのその》の桃李花《ももすもものはな》を見て此歌を作った。「くれなゐにほふ」は赤い色に咲き映《は》えていること、「した照る道」は美しく咲いている桃花で、桃樹の下かげ迄《まで》照りかがやくように見える、その下かげの道をいう。「橘のした照る庭に殿立てて酒宴《さかみづき》いますわが大君かも」(巻十八・四〇五九)、「あしひきの山下《やました》ひかる黄葉《もみぢば》の散りのまがひは今日にもあるかも」(巻十五・三七〇〇)の例がある。春園に赤い桃花が満開になっていて、其処《そこ》に一人の※[#「女+感」、下−156−4]嬬《おとめ》の立っている趣の歌で、大陸渡来の桃花に応じて、また何となく支那の詩的感覚があり、美麗にして濃厚な感じのする歌である。こういう一種の構成があるのだから、「いで立つをとめ」と名詞止にして、堅く据えたのも一つの新工夫であっただろう。そしてこういう歌風は時代的に漸次に発達したと考えられるが、家持あたりを中心とした一団の作者によって進展したものと考える方がよいようであるし、支那文学乃至美術の影響がようやく浸潤したようにおもえるのである。曹子建の詩に、「南国に佳人あり、容華桃李の若《ごと》し」の句がある。なおこういう感覚的な歌には、「なでしこが花見る毎にをとめ等が笑《ゑま》ひのにほひ思ほゆるかも」(巻十八・四一一四)、「秋風に靡《なび》く河傍《かはび》の和草《にこぐさ》のにこよかにしも思ほゆるかも」(巻二十・四三〇九)などがあり、共に家持の歌だから、この桃の花の歌同様家持の歌の一傾向であったと謂《い》い得るとお
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