六〕 娘子某
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むかし娘がいたが、父母に知らせず窃《ひそ》かに一人の青年に接した。青年は父母の呵嘖《かしゃく》を恐れて、稍《やや》猶予のいろが見えた時に、娘が此歌を作って青年に与えたという伝説がある。「小泊瀬山」の「を」は接頭詞、泊瀬山、今の初瀬《はせ》町あたり一帯の山である。「石城《いはき》」は石で築いた廓《かく》で此処は墓のことである。この歌も普通の歌で、男がぐずぐずしているのに、女が強くなる心理をあらわしたものである。前の歌は実徳の上からいえば、貞になり、これもまた貞の一種になるかも知れない。親をも措《お》いて男に従うという強い心に感動せられて伝説が成立すること、他の歌の例を見ても明かである。「な思ひ、我が背」の口調は強いが、女らしい甘い味いがある。毛詩に、「死則同[#(セム)][#レ]穴」とあるのは人間共通の合致《がっち》であるだろう。
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安積山《あさかやま》影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾が思《も》はなくに 〔巻十六・三八〇七〕 前の采女某
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葛城王《かずらきのおおきみ》が陸奥国《みちのくのくに》に派遣せられたとき、国司の王を接待する方法がひどく不備だったので、王が怒って折角《せっかく》の御馳走にも手をつけない。その時、嘗《かつ》て采女《うねめ》をつとめたことのある女が侍していて、左手に杯《さかずき》を捧げ右手に水を盛った瓶子《へいし》を持ち、王の膝《ひざ》をたたいて此歌を吟誦したので、王の怒が解けて、楽飲すること終日であった、という伝説ある歌である。葛城王は、天武天皇の御代に一人居るし、また橘諸兄《たちばなのもろえ》が皇族であった時の御名は葛城王であったから、そのいずれとも不明であるが、時代からいえば天武天皇の御代の方に傾くだろう。併し伝説であるから実は誰であってもかまわぬのである。また、「前《さき》の采女」という女も、嘗《かつ》て采女として仕えたという女で、必ずしも陸奥出身の女とする必要もないわけである。「安積《あさか》山」は陸奥国安積郡、今の福島県安積郡日和田町の東方に安積山という小山がある。其処だろうと云われている。木立などが美しく映っている広く浅い山の泉の趣で、上の句は序詞である。そして「山の井の」から「浅き心」に連接せしめている。「浅き心を吾が思はなくに」が一首の眼目で、あなたをば深く思いつめて居ります、という恋愛歌である。そこで葛城王の場合には、あなたを粗略にはおもいませぬというに帰着するが、此歌はその女の即吟か、或は民謡として伝わっているのを吟誦したものか、いずれとも受取れるが、遊行女婦《うかれめ》は作歌することが一つの款待《かんたい》方法であったのだから、このくらいのものは作り得たと解釈していいだろうか。この一首の言伝《いいつた》えが面白いので選んで置いたが、地方に出張する中央官人と、地方官と、遊行女婦とを配した短篇のような趣があって面白い歌である。伝説の文の、「右手持[#レ]水、撃[#二]之王膝[#一]」につき、種々の疑問を起しているが、二つの間に休止があるので、水を持った右手で王の膝をたたくのではなかろう。「之」は助詞である。
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寺寺《てらでら》の女餓鬼《めがき》申《まを》さく大神《おほみわ》の男餓鬼《をがき》賜《たば》りて其《そ》の子《こ》生《う》まはむ 〔巻十六・三八四〇〕 池田朝臣
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池田朝臣《いけだのあそみ》(古義では真枚《まひら》だろうという)が、大神朝臣奥守《おおみわのあそみおきもり》に贈った歌である。一首の意は、寺々に居る女の餓鬼どもは大神《おおみわ》の男餓鬼《おとこがき》を頂戴してその子を生みたいと申しておりますよ、というので、大神奥守は痩男《やせおとこ》だったのでこの諧謔《かいぎゃく》が出たのであろう。「寺々の女餓鬼」というのは、その頃寺院には、画だの木像だのがあって、三悪道の一なる餓鬼道を示したものがあったと見える。前に、「相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額《ぬか》づく如し」(巻四・六〇八)とあったのを参考すれば、木像のようにおもわれる。何れにせよ、この諧謔が自然流露の感じでまことに旨《うま》い。古今集以後ならば俳諧歌《はいかいか》、滑稽歌《こっけいか》として特別扱をするところを、大体の分類だけにして、特別扱をしないのは、万葉集に自由性があっていい点である。また、当時は仏教興隆時代だから、餓鬼などということを人々は新事物として興味を感じていたものであっただろう。ウマハムはウマムという意でウマフという四段活用の動詞である。
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仏《ほとけ》造《つく》る真朱《まそほ》足《た》らずは水《みづ》たまる池田《いけだ》の朝臣《あそ》が鼻《はな》の上《うへ》を穿《ほ》れ 〔巻十六・三八四一〕 大神朝臣
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これは大神朝臣《おおみわのあそみ》が池田朝臣に酬《むく》いた歌である。「真朱《まそほ》」は仏像などを彩色するとき用いる赤の顔料で、朱(丹砂、朱砂)のことである。「水たまる」は池の枕詞に使った。応神紀に、「水たまるよさみの池に」の用例がある。また池田の朝臣の鼻は特別に赤かったので、この諧謔の出来たことが分かる。前には餓鬼のことをいったから、此歌でも仏教関係の事物を持って来た。前の歌も旨いが、この歌も諧謔の上乗《じょうじょう》である。
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法師《ほふし》らが鬚《ひげ》の剃杭《そりぐひ》馬《うま》つなぎいたくな引《ひ》きそ法師《ほふし》半《なから》かむ 〔巻十六・三八四六〕 作者不詳
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僧侶にからかった歌で、鬚がいい加減に延びた、今|謂《い》う無精鬚《ぶしょうひげ》というのを捉《とら》えて、それを「剃杭」といって、その杭《くい》に馬を繋《つな》いでも、ひどく引っぱるなよ、法師が半分になってしまうだろうから、というのである。この歌の結句は、原文、「僧半甘」と書いてあり、旧訓ナカラカモ。拾穂抄・代匠記・考も同訓である。代匠記初稿本に、「なからにならんといふ心なり」、考に「法師引かされ半分にならんと云」と解し、略解でホフシ・ナカラカムと訓《よ》み(古義同訓)、「なからは半分の意にて、なからにならんと戯れ言ふ也」と解した。然るに、古義が報じた一説に「法師は泣かむ」と訓んだのもあり、黒川春村はホフシ・ナカナム、と訓み、敷田年治ホフシハ・ナカムと訓み、井上(通泰)博士はホフシ・ナゲカムと訓んだ。近時新注釈書はホフシハ・ナカムの訓を採用して殆ど定説になろうとしている。
けれども、「法師は泣かむ」では諧謔歌《かいぎゃくか》としては平凡でつまらぬ。そこで、「法師|半《なから》かむ」と訓み、代匠記初稿本や考の解釈の如く、「半分になってしまうだろう」と解釈する方が一番適切のようにおもえる。そんならどうしてこういう動詞が出来たかというに、「半《なから》」という名詞を「半《なから》かむ」と活用せしめたので、恰《あたか》も「枕《まくら》」という名詞を、「枕《まくら》かむ」と活用せしめたのと同じである。然《しか》らば、半《なから》き・半《なから》く等の活用形がある筈《はず》だろうといわんが、其処が滑稽歌《こっけいか》の特色で、普通使わない語を用いたのであっただろう。それゆえ、この歌に応《こた》えた、「檀越《だむをち》や然《し》かもな言ひそ里長《さとをさ》らが課役《えつき》徴《はた》らば汝《なれ》も半《なから》かむ」(巻十六・三八四七)という歌の例と、万葉にただ二例あるのみである。この応え歌は、「檀那《だんな》よ、そう威張りなさるな、若し村長さんが来て、税金や労役の事でせめ立てるなら、あなたも半分になってしまいましょう。どうです」というので、二つとも結句は、「半《なから》かむ」でなくては面白くない。またいずれの古鈔本も「半甘」で、他の書き方のものはない。愚案は、昭和十三年一月アララギ、童馬山房夜話参看。
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吾《わ》が門《かど》に千鳥《ちどり》しば鳴《な》く起《お》きよ起《お》きよ我《わ》が一夜《ひとよ》づまひとに知らゆな 〔巻十六・三八七三〕 作者不詳
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もう門のところには、千鳥がしきりに鳴いて夜が明けました。あなたよ、起きなさい。私がはじめてお会したあなたよ、人に知られぬうちにお帰りください。原文には、「一夜妻」とあるから、男の歌で女に向って「一夜妻」といったようにも取れるが、全体が男を宿《と》めた女の歌という趣にする方がもっと適切だから、そうすれば、「一夜|夫《づま》」ということになる。この歌は民謡風な恋愛歌で作者不明のものだから、無名歌として掲《かか》げているのである。「千鳥しば鳴く起きよ起きよ」のところは巧《たくみ》で且《か》つ自然である。「一夜夫」と解するのは考・古義の説で、「妻はかり字、夫《ツマ》也。初て一夜逢し也」(考)とあるが、これは遠く和歌童蒙抄《わかどうもうしょう》の説まで溯《さかのぼ》り得る。あとは多く「一夜妻」説である。「人ノ妻ヲ忍ビテアリケルニ」(仙覚抄)、「一夜妻はかりそめに女を引き入れて逢ひしなり」(新考)云々《うんぬん》。
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巻第十七
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あしひきの山谷《やまだに》越えて野《ぬ》づかさに今《いま》は鳴《な》くらむ鶯《うぐひす》のこゑ 〔巻十七・三九一五〕 山部赤人
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山部宿禰赤人《やまべのすくねあかひと》詠[#二]春※[#「嬰」の「女」に代えて「鳥」、下−147−5][#一]歌一首であるが、明人と書いた古写本もある(西本願寺本・神田本等)。「野づかさ」は野にある小高い処、野の丘陵をいう。「野山づかさの色づく見れば」(巻十・二二〇三)の例がある。一首は、もう春だから、鶯《うぐいす》等は山や谷を越え、今は野の上の小高いところで鳴くようにでもなったか、というので、一般的な想像のように出来て居る歌だが、不思議に浮んで来るものが鮮《あざや》かで、濁りのない清淡とも謂《い》うべき気持のする歌である。それだから、家の内で鶯の声を聞いて、その声の具合でその場所を野づかさだと推量する作歌動機と解釈することも出来るし、そうする方が「山谷越えて」の句にふさわしいようにもおもうが、併しこの辺のことはそう穿鑿《せんさく》せずとも鑑賞し得る歌である。「ひさぎ生ふる清き河原に」の時にも少し触れたが、つまりあのような態度で味うことが出来る。巻十七の歌をずうっと読んで来て、はじめて目ぼしい歌に逢着《ほうちゃく》したとおもって作者を見ると赤人の作である。赤人の作中にあっては左程でもない歌だが、その他の人の歌の中にあると斯くの如く異彩を放つ、そういう相待上《そうたいじょう》の価値ということをも吾等は知る必要があるのである。
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降《ふ》る雪《ゆき》の白髪《しろかみ》までに大君《おほきみ》に仕《つか》へまつれば貴《たふと》くもあるか 〔巻十七・三九二二〕 橘諸兄
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聖武天皇の天平《てんぴょう》十八年正月の日、白雪が積って数寸に至った。左大臣|橘諸兄《たちばなのもろえ》が大納言|藤原豊成《ふじわらのとよなり》及び諸王諸臣を率《い》て、太上天皇《おおきすめらみこと》(元正天皇)の御所に参候して雪を掃《はろ》うた。時に詔《みことのり》あって酒を賜《たま》い肆宴《とよのあかり》をなした。また、「汝諸王卿等|聊《いささ》か此の雪を賦《ふ》して各《おのおの》その歌を奏せよ」という詔があったので、それに応《こた》え奉った、左大臣橘諸兄の歌である。「降る雪の」は正月のめでたい雪に縁《よ》ってこの語があるのだが、「白髪」の枕詞の格に用いた。「白髪までに」は白髪
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