を流れる船場川だといわれている。巻七(一一七八)の或本歌に、「飾磨江《しかまえ》は漕ぎ過ぎぬらし天づたふ日笠の浦に波立てり見ゆ」とあるのも同じ場処であろう。一首の意は、海にそそぐ飾磨川の流は絶ゆることは無いが、若し絶ゆることがあったら、はじめて俺の恋は止《や》まるだろう、というので、「ひさかたの天つみ空に照れる日の失せなむ日こそ吾が恋ひ止まめ」(巻十二・三〇〇四)をはじめ同じ結句の歌は数首ある。そして此程度の歌ならば、他の巻には幾らもあると思うが、当時既に古歌として取扱った歌として、また、第二句「海にいでたる」の句の穉拙《ちせつ》愛すべき特色とを以て選出して置いた。
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百船《ももふね》の泊《は》つる対馬《つしま》の浅茅山《あさぢやま》時雨《しぐれ》の雨《あめ》にもみだひにけり 〔巻十五・三六九七〕 新羅使
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新羅使の一行が、対馬《つしま》の浅茅浦《あさじのうら》に碇泊《ていはく》した時、順風を得ずして五日間|逗留《とうりゅう》した。諸人の中で慟《なげ》いて作歌した三首中の一つである。浅茅浦は今俗に大口浦といっている。モミヅは其頃|多《た》行四段にも活用し其《それ》をまた波《は》行に活用せしめた。「もみだひにけり」は時間的経過をも含ませている。歌は平凡で取立てていうほどではないが、実際に当って作ったという争われぬ強みがあるので、読後身に沁《し》むのである。
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天離《あまざか》る鄙《ひな》にも月《つき》は照《て》れれども妹《いも》ぞ遠《とほ》くは別《わか》れ来にける 〔巻十五・三六九八〕 新羅使
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前の歌の続きであるが、五日滞在のうちには時雨《しぐれ》も晴れて月の照った夜もあったのであろう。「鄙にも月は照れれども」という句に哀韻があるのは、都の月光という相対的な感じもあり、いつのまにか秋になった感じもあり、都の月光と相愛の妻との関係などもあって、そういう哀韻を伴うのであろうか。此歌とても特に秀歌というものではないが、不思議に心をひくのは、実地の作だからであろう。人麿の歌に、「去年《こぞ》見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年さかる」(巻二・二一一)がある。
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竹敷《たかしき》のうへかた山《やま》は紅《くれなゐ》の八入《やしほ》の色《いろ》になりにけるかも 〔巻十五・三七〇三〕 新羅使(大蔵麿)
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一行が竹敷《たかしき》浦(今の竹敷港)に碇泊した時の歌が十八首あるその一つで、小判官|大蔵忌寸麿《おおおくらのいみきまろ》の作である。「うへかた山」は上方《うえかた》山で今の城山であろう。「八入の色」は幾度も染めた真赤な色というのである。単純だが、「くれなゐの八入《やしほ》の色」で統一せしめたから、印象鮮明になって佳作となった。「くれなゐの八入《やしほ》の衣朝な朝な穢《な》るとはすれどいや珍しも」(巻十一・二六二三)がある。この時の十八首の中には、大使|阿倍継麿《あべのつぎまろ》が、「あしひきの山下《やました》ひかる黄葉《もみぢば》の散りの乱《まがひ》は今日にもあるかも」(巻十五・三七〇〇)、副使大伴|三中《みなか》が、「竹敷《たかしき》の黄葉を見れば吾妹子《わぎもこ》が待たむといひし時ぞ来にける」(同・三七〇一)、大判官|壬生宇太麻呂《みぶのうだまろ》が、「竹敷の浦廻《うらみ》の黄葉《もみぢ》われ行きて帰り来るまで散りこすなゆめ」(同・三七〇二)という歌を作って居り、対馬娘子《つしまのおとめ》、玉槻《たまつき》という者が、「もみぢ葉の散らふ山辺《やまべ》ゆ榜《こ》ぐ船のにほひに愛《め》でて出でて来にけり」(同・三七〇四)という歌を作ったりしている。天平八年夏六月、武庫浦《むこのうら》を出帆したのが、対馬《つしま》に来るともう黄葉が真赤に見える頃になっている。彼等が月光を詠じ黄葉を詠じているのは、単に歌の上の詩的表現のみでなったことが分かる。対馬でこの玉槻という遊行女婦《うかれめ》などは唯一の慰めであったのかも知れない。この一行のある者は帰途に病み、大使継麿のごときは病歿している。また新羅との政治的関係も好ましくない切迫した背景もあって注意すべき一聯《いちれん》の歌である。帰途に、「天雲のたゆたひ来れば九月《ながつき》の黄葉《もみぢ》の山もうつろひにけり」(同・三七一六)、「大伴の御津《みつ》の泊《とまり》に船|泊《は》てて立田の山を何時か越え往《い》かむ」(同・三七二二)などという歌を作って居る。
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あしひきの山路《やまぢ》越《こ》えむとする君《きみ》を心《こころ》に持《も》ちて安《やす》けくもなし 〔巻十五・三七二三〕 狭野茅上娘子
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中臣朝臣宅守《なかとみのあそみやかもり》が、罪を得て越前国に配流された時に、狭野茅上娘子《さぬのちがみのおとめ》の詠んだ歌である。娘子の伝は審《つまびら》かでないが、宅守と深く親んだことは是等一聯の歌を読めば分かる。目録に蔵部|女嬬《にょじゅ》とあるから、低い女官であっただろう。一首の意は、あなたがいよいよ山越をして行かれるのを、しじゅう心の中に持っておりまして、あきらめられず、不安でなりませぬ、という程の歌である。「君を心に持つ」は貴方をば心中に持つこと、心に抱き持つこと、恋しくて忘れられぬこと、あきらめられぬことというぐらいになるが、「君を心に持つ」と具体的に云ったので、親しさが却って増したようにおもわれる。「吾妹子《わぎもこ》に恋ふれにかあらむ沖に住む鴨《かも》の浮宿《うきね》の安けくもなし(なき)」(巻十一・二八〇六)、「今は吾は死なむよ吾妹逢はずして念《おも》ひわたれば安けくもなし」(巻十二・二八六九)等、用例は可なりある。
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君《きみ》が行《ゆ》く道《みち》の長路《ながて》を繰《く》り畳《たた》ね焼《や》き亡《ほろ》ぼさむ天《あめ》の火《ひ》もがも 〔巻十五・三七二四〕 狭野茅上娘子
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同じく続く歌で、あなたが、越前の方においでになる遠い路をば、手繰《たぐ》りよせてそれを畳《たた》んで、焼いてしまう天火《てんか》でもあればいい。そうしたならあなたを引き戻《もど》すことが出来ましょう、という程の歌で、強く誇張していうところに女性らしい語気と情味とが存じている。娘子《おとめ》は古歌などをも学んだ形跡があり、文芸にも興味を持つ才女であったらしいから、「天の火もがも」などという語も比較的自然に口より発したのかも知れない。そして、「焼き亡ぼさむ天の火もがも」という句は、これだけを抽出してもなかなか好い句である。天火《てんか》は支那では、劫火《ごうか》などと似て、思いがけぬところに起る火のことを云って居る。史記孝景本記に、「三年正月乙巳天火[#「天火」に白丸傍点]燔[#二]※[#「各+隹」、第3水準1−93−65]陽東宮大殿城室[#一]」とあり、易林に「天火[#「天火」に白丸傍点]大起、飛鳥驚駭」とある如きである。併《しか》しその火が天に燃えていてもかまわぬだろう。いずれにしても「天《あめ》の火《ひ》」とくだいたのは好い。なお娘子には、「天地の至極《そこひ》の内《うち》にあが如く君に恋ふらむ人は実《さね》あらじ」(巻十五・三七五〇)というのもある程だから、情熱を以て強く宅守に迫って来た女性だったかも知れない。また贈答歌を通読するに、宅守よりも娘子の方が巧《たくみ》である。そしてその巧なうちに、この女性の息吹《いぶき》をも感ずるので宅守は気乗《きのり》したものと見えるが、宅守の方が受身という気配《けはい》があるようである。
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あかねさす昼は物思《ものも》ひぬばたまの夜はすがらに哭《ね》のみし泣かゆ 〔巻十五・三七三二〕 中臣宅守
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これは中臣宅守《なかとみのやかもり》が娘子《おとめ》に贈った歌だが、この方は気が利《き》かない程地味で、骨折って歌っているが、娘子の歌ほど声調にゆらぎが無い。「天地の神なきものにあらばこそ吾《あ》が思《も》ふ妹に逢はず死《しに》せめ」(巻十五・三七四〇)、「逢はむ日をその日と知らず常闇《とこやみ》にいづれの日まで吾《あれ》恋ひ居らむ」(同・三七四二)などにあるように、「天地の神」とか、「常闇」とか詠込んでいるが、それほど響かないのは、おとなしい人であったのかも知れない。
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帰《かへ》りける人《ひと》来《きた》れりといひしかばほとほと死《し》にき君かと思ひて 〔巻十五・三七七二〕 狭野茅上娘子
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娘子《おとめ》が宅守《やかもり》に贈った歌であるが、罪をゆるされて都にお帰りになった人が居るというので、嬉しくて死にそうでした、それがあなたかと思って、というのであるが、天平十二年罪を赦《ゆる》されて都に帰った人には穂積朝臣老《ほづみのあそみおゆ》以下数人いるが、宅守はその中にはいず、続紀《しょくき》にも、「不[#レ]在[#二]赦限[#一]」とあるから、此時宅守が帰ったのではあるまい。この「殆《ほとほ》と死にき」をば、殆《あやう》しの意にして、胸のわくわくしたと解する説もあり、私も或時《あるとき》にはそれに従った。併し、「天の火もがも」を肯定するとすると、「ほとほと死にき」を肯定してもよく、その方が甘く切実で却っておもしろいと思って今回は二たびそう解釈することとした。この歌は以上選んだ娘子の歌の中では一番よい。
「ほとほとしにき」は、原文「保等保登之爾吉」であって、「ホトホトシニキハ、驚テ胸ノホトバシルナリ」(代匠記精撰本)というのが第一説で、古義もそれに従った。鈴屋答問録《すずのやとうもんろく》に、「ほと」は俗言の「あわ(は)てふためく」の「ふた」に同じいとあるのも参考となるだろう。それから、「ほとんど死《しに》たりとなり。うれしさのあまりになるべし」(拾穂抄《しゅうすいしょう》)は第二説で、「殆将死なり。あまりてよろこばしきさまをいふ」(考)、「しにきは死にき也」(略解)。古事記伝、新考、新訓等もこの第二説である。集中、「君を離れて恋に之奴倍之《シヌベシ》」(巻十五・三五七八)があるから、「之爾」を「死に」と訓んで差支のないことが分かる。
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巻第十六
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春《はる》さらば※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]頭《かざし》にせむと我《わ》が思《も》ひし桜《さくら》の花《はな》は散《ち》りにけるかも 〔巻十六・三七八六〕 壮士某
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むかし桜子《さくらこ》という娘子《おとめ》がいたが、二人の青年に挑《いど》まれたときに、ひとりの女身《にょしん》を以て二つの門に往き適《かの》う能《あた》わざるを嘆じ、林中に尋ね入ってついに縊死《いし》して果てた。二人の青年がそれを悲しみ作った歌の一つである。桜子という娘の名であったから、桜の花の散ったことになして詠んだ、取りたてていう程のものでない、妻争い伝説歌の一つに過ぎないが、素直《すなお》に歌ってあるので見本として選んで置いた。この伝説は真間《まま》の手児名《てこな》、葦屋《あしや》の菟原処女《うなひおとめ》の伝説などと同じ種類のものである。「かざしにせんとは、我妻にせんとおもひしと云心也」(宗祇抄《そうぎしょう》)とある如く、また桜児という名であったから、「散りにけるかも」と云った。
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事《こと》しあらば小泊瀬山《をはつせやま》の石城《いはき》にも隠《こも》らば共《とも》にな思《おも》ひ吾背《わがせ》 〔巻十六・三八〇
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