、仏道を修めねばならぬ、というのである。「道を尋ねな」と日本語流にくだいたのも、既に当時の人の常識になっていたともおもうが、なかなかよい。この歌には前途の安心《あんじん》を望むが如くであって、実は悲哀の心の方が深く滲《し》みこんでいる。また仏教的の本性|清浄観《しょうじょうかん》をただ一気にいっているようで、実は病痾《びょうあ》を背景とする実感が強いのであるから、読者はそれを見のがしてはならない。この歌と並んで、「渡る日のかげに競《きほ》ひて尋ねてな清きその道またも遇《あ》はむため」(巻二十・四四六九)という歌をも作っている。「わたる日の影に競ひて」は、日光のはやく過ぎゆくにも負けずに、即ち光陰を惜しんでの意。「またも遇はむため」は来世にも亦この仏果《ぶっか》に逢わんためという意で、やはり力づよいものを持っている。こういうものになると一種の思想的抒情詩であるからむずかしいのだが、家持は一種の感傷を以てそれを統一しているのは、既に古調から脱却せんとしつつ、なお古調のいいものを保持しているのである。

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いざ子《こ》ども戯《たは》わざな為《せ》そ天地《あめつち》の固《かた》めし国《くに》ぞやまと島根《しまね》は 〔巻二十・四四八七〕 藤原仲麿
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 天平宝字元年十一月十八日、内裏《だいり》にて肆宴《とよのあかり》をしたもうた時、藤原朝臣仲麿の作った歌である。仲麿は即ち恵美押勝《えみのおしかつ》であるが、橘奈良麿等が仲麿の専横を悪《にく》んで事を謀《はか》った時に、仲麿の奏上によってその徒党を平《たいら》げた。その時以後の歌だから、「いざ子ども」は、部下の汝等よ、というので、「いざ子どもはやく日本《やまと》へ」(巻一・六三)、「いざ子ども敢《あ》へて榜《こ》ぎ出む」(巻三・三八八)、「いざ子ども香椎の潟に」(巻六・九五七)等諸例がある。「戯《たは》わざなせそ」は、戯《たわ》れ業《わざ》をするな、巫山戯《ふざけ》たまねをするな、というので、「うち靡《しな》ひ縁《よ》りてぞ妹は、戯《たは》れてありける」(巻九・一七三八)の例がある。一首は、ものどもよ、巫山戯たことをするなよ、この日本の国は天地の神々によって固められた御国柄であるぞ、というので、強い調子で感奮して作っている歌である。併し、「戯《たは》わざな為《せ》そ」という句は、悪い調子を持っていて慈心《じしん》が無い。とげとげしくて増上《ぞうじょう》の気配《けはい》があるから、そこに行くと家持の歌の方は一段と大きく且《か》つ気品がある。「剣大刀《つるぎたち》いよよ研《と》ぐべし」や、「丈夫《ますらを》は名をし立つべし」の方が、同じく発奮でも内省的なところがあり、従って慈味が湛《たた》えられている。仲麿は作歌の素人《しろうと》なために、この差別があるともおもうが、抒情詩の根本問題は、素人《しろうと》玄人《くろうと》などの問題などではない。よって此歌を選んで置いた。

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大《おほ》き海《うみ》の水底《みなそこ》深《ふか》く思《おも》ひつつ裳引《もび》きならしし菅原《すがはら》の里《さと》 〔巻二十・四四九一〕 石川女郎
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「藤原|宿奈麿《すくなまろ》朝臣の妻、石川|女郎《いらつめ》愛薄らぎ離別せられ、悲しみ恨《うら》みて作れる歌年月いまだ詳《つまびらか》ならず」という左注のある歌である。宿奈麿は宇合《うまかい》の第二子、後内大臣まで進んだ。「菅原の里」は大和国|生駒《いこま》郡、今の奈良市の西の郊外にある。昔は平城京の内で、宿奈麿の邸宅が其処《そこ》にあったものと見える。一首は、大海の水底のように深く君をおもいながら、裳《も》を長く引き馴《な》らして楽しく住んだあの菅原の里よ、というので、こういう背景のある歌として哀《あわれ》深いし、「裳引ならしし菅原の里」あたりは、女性らしい細みがあっていい。ただこういう背景が無いとして味えば、歌柄の稍《やや》軽いのは時代と相関のものであろう。

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初春《はつはる》の初子《はつね》の今日《けふ》の玉箒《たまばはき》手《て》に取《と》るからにゆらぐ玉《たま》の緒《を》 〔巻二十・四四九三〕 大伴家持
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 天平宝字二年春正月三日、孝謙天皇、王臣等を召して玉箒《たまばはき》を賜い肆宴《とよのあかり》をきこしめした。その時右中弁大伴家持の作った歌である。正月三日(丙子《ひのえね》)は即ち初子の日に当ったから「初子《はつね》の今日」といった。玉箒は玉を飾った箒で、目利草《めどぎぐさ》(蓍草)で作った。古来農桑を御奨励になり、正月の初子《はつね》の日に天皇御|躬《み》ずから玉箒を以て蚕卵紙を掃《はら》い、鋤鍬《すきくわ》を以て耕す御態をなしたもうた。そして豊年を寿《ことほ》ぎ邪気を払いたもうたのちに、諸王卿等に玉箒を賜わった。そこでこの歌がある。現に正倉院御蔵の玉箒の傍《かたわら》に鋤があってその一に、「東大寺献天平宝字二年正月」と記してあるのは、まさに家持が此歌を作った時の鋤《すき》である。「ゆらぐ玉の緒」は玉箒の玉を貫《ぬ》いた緒がゆらいで鳴りひびく、清くも貴い瑞徴《ずいちょう》として何ともいえぬ、というので、家持も相当に骨折ってこの歌を作り、流麗《りゅうれい》な歌調のうちに重みをたたえて特殊の歌品を成就《じょうじゅ》している。結句は全くの写生だが、音を以て写生しているのは旨《うま》いし、書紀の瓊音※[#「王+倉」、下−183−13]々《けいおんそうそう》などというのを、純日本語でいったのも家持の力量である。但し此歌は其時中途退出により奏上せなかったという左注が附いている。

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水鳥《みづどり》の鴨《かも》の羽《は》の色《いろ》の青馬《あをうま》を今日《けふ》見《み》る人《ひと》はかぎり無《な》しといふ 〔巻二十・四四九四〕 大伴家持
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 同じく正月七日の侍宴(白馬の節会《せちえ》)の為めに、大伴家持が兼ねて作った歌だと左注にある。「水鳥の鴨の羽の色の」は「青」と云わんための序である。「青馬」は公事根源《くじこんげん》に、「白馬の節会をあるひは青馬の節会とも申すなり。其の故は馬は陽の獣なり。青は春の色なり。これによりて、正月七日に青馬を見れば、年中の邪気を除くという本文|侍《はべ》るなり」とある。馬の性は白を本とするといったから、当時アヲウマと云って、白馬を用いていたという説もあるが、私には精《くわ》しい事は分からない。「限りなしといふ」とは、寿命が限《かぎり》無いというのであるが、この結句は一首の中心をなすものであり、据わりも好いし、恐らく、これと同じ結句は万葉にはほかになかろうか。中味は、「今日見る人は」とこの句のみだが、割合に落着いていて佳《よ》い歌である。家持は、こういう歌を前以て作っていたということを正直に記してあるのも興味あり、このくらいの歌でも、即興的に口を突いて出来るものでないことは実作家の常に経験するところであるが、このあたりの家持の歌の作歌動機は、常に儀式的なもののみであるのも、何かを暗指しているような気がしてならない。「いふ」で止めた例は、「赤駒を打ちてさ緒《を》引き心引きいかなる兄《せな》か吾許《わがり》来むと言ふ」(巻十四・三五三六)、「渋渓《しぶたに》の二上山に鷲《わし》ぞ子産《こむ》とふ翳《さしは》にも君が御為に鷲ぞ子生《こむ》とふ」(巻十六・三八八二)があるのみである。

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池水《いけみづ》に影《かげ》さへ見《み》えて咲《さ》きにほふ馬酔木《あしび》の花《はな》を袖《そで》に扱入《こき》れな 〔巻二十・四五一二〕 大伴家持
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 大伴家持の山斎属目《さんさいしょくもく》の歌だから、庭前の景をそのまま詠《よ》んでいる。「影さへ見えて」の句も既にあったし、家持苦心の句ではない。ただ、「馬酔木の花を袖に扱入《こき》れな」というのが此歌の眼目で佳句であるが、「引き攀《よ》ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入《こき》れつ染《し》まば染《し》むとも」(巻八・一六四四)の例もあり、家持も「白妙の袖にも扱入れ」(巻十八・四一一一)、「藤浪の花なつかしみ、引き攀ぢて袖に扱入《こき》れつ、染《し》まば染《し》むとも」(巻十九・四一九二)と作っているから、あえて此歌の手柄ではないが、馬酔木《あしび》の花を扱入《こき》れなといったのは何となく適切なようにおもわれる。併し全体として写生力が足りなく、諳記《あんき》により手馴れた手法によって作歌する傾向が見えて来ている。そして其《それ》に対して反省せんとする気魄《きはく》は、そのころの家持にはもう衰えていたのであっただろうか。私はまだそうは思わない。

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あらたしき年《とし》の始《はじ》めの初春《はつはる》の今日《けふ》降《ふ》る雪《ゆき》のいや重《し》け吉事《よごと》 〔巻二十・四五一六〕 大伴家持
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 天平宝字三年春正月一日、因幡《いなば》国庁に於て、国司の大伴家持が国府の属僚郡司等に饗《あえ》した時の歌で、家持は二年六月に因幡守に任ぜられた。「新しき」はアラタシキである。新年に降った雪に瑞兆《ずいちょう》を託しつつ、部下と共に前途を祝福した、寧《むし》ろ形式的な歌であるが、「の」を以て続けた、伸々《のびのび》とした調べはこの歌にふさわしい形態をなした。「いや重《し》け吉事《よごと》」は、益々吉事幸福が重なれよというので、名詞止めにしたのも、やはりおのずからなる声調であろうか。また、「吉事《よごと》」という語を使ったのも此歌のみのようである。謝恵連の雪賦に、盈[#レ]尺[#(ニ)]則呈[#二]瑞[#(ヲ)]於豊年[#一]云々の句がある。
 此歌は新年の吉祥歌であるばかりでなく、また万葉集最後の結びであり、万葉集編輯の最大の功労者たる家持の歌だから、特に選んで置いたのであるが、この「万葉秀歌」で、最初に選んだ、「たまきはる宇智の大野に馬なめて」の歌に比して歌品の及ばざるを私等は感ぜざることを得ない。家持の如く、歌が好きで勉強家で先輩を尊び遜《へりくだ》って作歌を学んだ者にしてなお斯《か》くの如くである。万葉初期の秀歌というもののいかなるものだかということはこれを見ても分かるのである。
 万葉後期の歌はかくの如くであるが、若しこれを古今集以後の幾万の歌に較《くら》べるならば、これはまた徹頭徹尾|較《くら》べものにはならない。それほど万葉集の歌は佳いものである。家持のこの歌は万葉集最後のものだが、代匠記に、「抑《そもそも》此集、初《はじめ》ニ雄略舒明両帝ノ民ヲ恵マセ給ヒ、世ノ治マレル事ヲ悦ビ思召ス御歌ヨリ次第ニ載《のせ》テ、今ノ歌ヲ以テ一部ヲ祝ヒテ終《ヲ》ヘタレバ、玉匣《たまくしげ》フタミ相|称《カナ》ヘル験《しるし》アリテ、蔵ス所《ところ》世ヲ経テ失《うせ》サルカナ」と云っている。



底本:「万葉秀歌 上巻」岩波新書、岩波書店
   1938(昭和13)年11月20日第1刷発行
   1953(昭和28)年7月23日第22刷改版発行
   1968(昭和43)年11月25日第44刷改版発行
   2002(平成14)年8月26日第92刷発行
   「万葉秀歌 下巻」岩波新書、岩波書店
   1938(昭和13)年11月20日第1刷発行
   1948(昭和23)年1月20日第10刷改版発行
   1954(昭和29)年1月7日第23刷改版発行
   1968(昭和43)年12月25日第41刷改版発行
   2002(平成14)年9月5日第87刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2008年7月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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