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伊香保《いかほ》ろのやさかの堰《ゐで》に立《た》つ虹《ぬじ》の顕《あらは》ろまでもさ寝《ね》をさ寝《ね》てば 〔巻十四・三四一四〕 東歌
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「やさかの堰《ゐで》」は八坂という処にあった河水を湛《たた》え止めた堰(いぜき・せき・つつみ)であろう。八坂は今の伊香保温泉の東南に水沢という処がある、其処だろうと云われている。一首の意は、伊香保の八坂の堰《せき》に虹があらわれた(序詞)どうせあらわれるまでは(人に知れるまでは)、お前と一しょにこうして寝ていたいものだ、というのであるが、これも「さ寝をさ寝てば」などと云っても、不潔を感ぜぬのみならず、河の井堰《いぜき》の上に立った虹の写象と共に、一種不思議な快いものを感ぜしめる。虹の歌は万葉集中此一首のみだからなお珍重すべきものである。虹は此歌では、努自《ヌジ》と書いてあるが、能自《ノジ》、禰自《ネジ》、爾自《ニジ》等と変化した。古事記に、「うるはしとさ寝しさ寝てば苅薦《かりごも》の乱れば乱れさ寝しさ寝てば」という歌謡があり、この巻にも、「河上《かはかみ》の根白《ねじろ》高萱《たかがや》あやにあやにさ寝さ寝てこそ言《こと》に出《で》にしか」(三四九七)というのがあって参考になる。「顕《あらは》ろまで」は、「顕るまで」の訛《なまり》で、こういう訛もまた一首の鑑賞に関係あらしめている。虹の如き鮮明な視覚写象と、男女相寝るということとの融合は、単に常識的合理な聯想に依らぬ場合があり、こういう点になると古代人の方が我々よりも上手《うわて》のようである。
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下毛野《しもつけぬ》みかもの山《やま》の小楢《こなら》如《の》す目細《まぐは》し児《こ》ろは誰《た》が笥《け》か持《も》たむ 〔巻十四・三四二四〕 東歌
下毛野《しもつけぬ》安蘇《あそ》の河原《かはら》よ石《いし》踏《ふ》まず空《そら》ゆと来《き》ぬよ汝《な》が心《こころ》告《の》れ 〔巻十四・三四二五〕 東歌
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下野歌を二つ一しょに此処に書いた。第一の歌、「みかも」は、延喜式《えんぎしき》の都賀郡三鴨駅、今、下都賀郡、岩舟駅の近くにある。下野の三鴨の山に茂っている小楢の葉の美しいように、美しく可哀《かあい》らしいあの娘は、誰の妻になって、食事の器を持つだろう、御飯の世話をするだろう、というのだが、やはりつまりはおれの妻になるのだということになる。疑問に云っているがつまりは自らに肯定する云い方である。古代民謡は、ただ悲観的に反省し諦念《ていねん》してしまわないのが普通だからである。それからこの小楢の如く美しいというのは、楢の若葉の感じである。結句|多賀家可母多牟《タカケカモタム》は、「手カケカモタム」(仙覚抄)、「高キカモタムニテ、高キハ夫ナリ。夫ハ妻ノタメニハ天ナレバ高キト云ヘリ」(代匠記)等と解したが、大神真潮《おおみわのましお》が、誰笥歟将持《タガケカモタム》の意に解し、古義で紹介した。「香具山は畝火を愛《を》しと」の解と共に永久不滅である。但し、拾穂抄《しゅうすいしょう》に既に、「誰が家《け》か持たむ」の説があるが、「笥」までは季吟《きぎん》も思い及ばなかったのである。
第二の歌は、前にあった安蘇と同じ土地で、そこの河である。安蘇河の河原の石も踏まず、空から飛んでお前のところにやって来たのだ、何が何だか分からず宙を飛ぶような気持でやって来たのだから、これ程おもう俺《おれ》にお前の気持をいって呉れ、というので、「空ゆと来ぬ」が特殊ないい方で、今の言葉なら、「宙を飛んで来た」ぐらいになる。巻十二(二九五〇)に、「吾妹子が夜戸出《よとで》の光儀《すがた》見てしよりこころ空《そら》なり地《つち》は踏めども」も、足が地に着かず、宙を歩いているような気持をあらわしている。
こういう歌は、当時の人々は楽々と作り、快く相伝えていたものとおもうが、現在の吾々は、ただそれを珍らしいと思うばかりでなく、技巧的にもひどく感心するのである。小楢の若葉の日光に透きとおるような柔かさと、女の膚膩《ふじ》の健康な血をとおしている具合とを合体せしめる感覚にも感心せしめられるし、「誰が笥か持たむ」という簡潔で、女の行為が男に接触する程な鮮明を保持せしめているいい方も、石も踏まずとことわって、さて虚空を飛んで来たという云い方も、一体何処にこういう技法力があるのだろうとおもう程である。ただもともと民謡だから、全体が軽妙に運ばれたもので、そこが個人的独詠歌などと違う点なのである。
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鈴《すず》が音《ね》の早馬駅《はゆまうまや》の堤井《つつみゐ》の水《みづ》をたまへな妹が直手《ただて》よ 〔巻十四・三四三九〕 東歌
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雑歌。「早馬駅《はゆまうまや》」は、早馬《はやうま》を準備してある駅《うまや》という意。「堤井」は、湧いている泉を囲った井で、古代の井は概《おおむ》ねそれであった。一首の意は、鈴の音の聞こえる、早馬のいる駅(宿場)の泉の水は、どうか美しいあなたの直接の手でむすんで飲ましてください、というのである。この歌も、早馬を引く馬方などの口でうたわれたものか、少くともそういう場処が作歌の中心であっただろう。そして駅には古《いにしえ》もかわらぬ可哀《かあい》い女がいただろうから、そこで、「妹が直手《ただて》よ」という如き表現が出来るので、実にうまいものである。「直手よ」の「よ」は「より」で、直接あなたの手からというのである。いずれにしても快い歌である。
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おもしろき野《ぬ》をばな焼《や》きそ古草《ふるくさ》に新草《にひくさ》まじり生《お》ひは生《お》ふるがに 〔巻十四・三四五二〕 東歌
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こころよいこの春の野を焼くな。去年の冬枯れた古草にまじって、新しい春の草が生えて来るから、というので、「生ふるがに」は、生うべきものだからというぐらいの意である。「おもしろし」も今の語感よりも、もっと感に入る語感で、万葉で※[#「りっしんべん+可」、下−120−6]怜の字を当てているのを以ても分かる。こころよい、なつかしい、身に沁《し》みる等と翻《ほん》していい場合が多い。※[#「りっしんべん+可」、下−120−7]怜を「あはれ」とも訓むから、その情調が入っているのである。この歌の字面はそれだけだが、この歌は民謡で、野の草を哀憐《あいれん》する気持の歌だから、引いて人事の心持、古妻《ふるづま》というような心持にも聯想《れんそう》が向くのであるが、現在の私等はあっさりと鑑賞して却って有益な歌なのかも知れない。
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稲《いね》舂《つ》けば皹《かが》る我《あ》が手《て》を今宵《こよひ》もか殿《との》の稚子《わくご》が取《と》りて嘆《なげ》かむ 〔巻十四・三四五九〕 東歌
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「皹《かが》る」は、皹《ひび》のきれることで、アカガリ、アカギレともいう。「殿の稚子《わくご》」は、地方の国守とか郡守とか豪族とかいう家柄の若君をいうので、歌う者はそれよりも身分の賤《いや》しい農婦として使われている者か、或は村里の娘たちという種類の趣《おもむき》である。一首の意は、稲を舂《つ》いてこんなに皹《ひび》の切れた私の手をば、今夜も殿の若君が取られて、可哀そうだとおっしゃることでしょう、御一しょになる時にお恥しい心持もするという余情がこもっている。内容が斯《か》く稍《やや》戯曲的であるから、いろいろ敷衍《ふえん》して解釈しがちであるが、これも農民のあいだに行われた労働歌の一種で、農婦等がこぞってうたうのに適したものである。それだから「殿の若子《わくご》」も、この「我が手」の主人も、誰《たれ》であってもかまわぬのである。ただこの歌には、身分のいい青年に接近している若い農小婦の純粋なつつましい語気が聞かれるので、それで吾々は感にたえぬ程になるのだが、よく味えばやはり一般民謡の特質に触れるのである。併しこれだけの民謡を生んだのは、まさに世界第一流の民謡国だという証拠《しょうこ》である。なおこの巻に、「都武賀野《つむがぬ》に鈴が音《おと》きこゆ上志太《かむしだ》の殿の仲子《なかち》し鳥狩《とがり》すらしも」(三四三八)というのがあって、一しょにして鑑賞することが出来る。「仲子」は次男のことである。
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あしひきの山沢人《やまさはびと》の人多《ひとさは》にまなといふ児《こ》があやに愛《かな》しさ 〔巻十四・三四六二〕 東歌
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「足引の山沢人の」までは「人さはに」に続く序詞で、山の谿沢《たにさわ》に住んで居る人々、樵夫《きこり》などのたぐいをいう。「まなといふ児」は、可哀《かあい》いと評判されている娘ということである。そこで一首は、山沢人だち(序詞)おおぜいの人々が美しい可哀いと評判しているあの娘は、私にはこの上もなく可哀い、恋しい、というのである。この歌も普通と違ったところがある。自分の恋しているあの娘は人なかでも評判がいいというので内心喜ぶ心持もあり、人なかで評判のいい娘を私も恋しているので不安で苦しくもあるという気持もあるのである。山間に住《すみ》ついて働く人々の中にこういう民謡があったものと見える。「多麻河に曝《さら》す手作《てづくり》さらさらに何《なに》ぞこの児のここだ愛《かな》しき」(巻十四・三三七三)、「高麗錦《こまにしき》紐《ひも》解《と》き放《さ》けて寝《ぬ》るが上《へ》に何《あ》ど為《せ》ろとかもあやに愛《かな》しき」(同・三四六五)、「垣越《くへご》しに麦|食《は》む小馬《こうま》のはつはつに相見し児らしあやに愛《かな》しも」(同・三五三七)等の例がある。
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植竹《うゑたけ》の本《もと》さへ響《とよ》み出《い》でて去《い》なば何方《いづし》向《む》きてか妹《いも》が嘆《なげ》かむ 〔巻十四・三四七四〕 東歌
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「植竹の」は竹林のことで、竹の根本《ねもと》から「本」への枕詞とした。家じゅう大騒ぎして私が旅立ったら、妻は嘸《さぞ》歎き悲しむことだろう、というので、代匠記以来、防人《さきもり》などに出立の時の歌ででもあろうかといっている。この巻に、「霞ゐる富士の山傍《やまび》に我が来なば何方《いづち》向きてか妹が歎かむ」(三三五七)の例がある。この歌を私は嘗《かつ》て、女と言い争うか何かして、あらあらしく騒いで女の家を立退《たちの》く趣《おもむき》に解したことがある。即ち植竹の幹の本迄響くように荒々しく怒って立退くあとで、妹を可哀くおもって反省した趣にしたのであった。そして、「背向《そがひ》に寝《ね》しく今しくやしも」(巻七・一四一二)などをも参照にしたのであったが、今回は契沖以下の先輩の注釈書に従うことにしたけれども、必ずしも防人出立とせずに、民謡的情事の一場面としても味うことが出来るのである。
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麻苧《あさを》らを麻笥《をけ》に多《ふすさ》に績《う》まずとも明日《あす》来《き》せざめやいざせ小床《をどこ》に 〔巻十四・三四八四〕 東歌
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麻苧《あさお》の糸を娘が績《う》んでいるのに対《むか》って男がいいかける趣の歌で、「ら」は添えたものである。「ふすさに」は沢山《たくさん》の意。巻八(一五四九)にある、「なでしこの花ふさ手折り吾は去なむ」の「ふさ」、巻十七(三九四三)にある、「我背子がふさ手折りける」の「ふさ」も同じ語であろうか。一首は、麻苧をそんなに沢山|笥《おけ》に紡《つむ》がずとも、また明日が無いのではないから、さあ小床《おどこ》に行こう、というのである。「いざせ」の「いざ」は呼びかける語、「せ」は「為《せ》」で、この場合は行こ
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