柄《あしがら》の彼面此面《をてもこのも》に刺《さ》す羂《わな》のかなる間《ま》しづみ児《こ》ろ我《あれ》紐《ひも》解《と》く 〔巻十四・三三六一〕 東歌
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相模国《さがむのくに》歌で、足柄は範囲はひろかったが、此処は足柄山とぼんやり云っている。「彼面此面《をてもこのも》」は熟語で、あちらにもこちらにもというのであろう。下に、「筑波嶺《つくばね》のをてもこのもに」(三三九三)という例があり、東歌的|訛《なまり》の口調である。巻十七(四〇一一)の長歌で家持が、「あしひきのをてもこのもに鳥網《となみ》張り」云々《うんぬん》と使ったのは、此歌の模倣で必ずしも都会語ではなかっただろう。「かなる間しづみ」はよく分からない。代匠記では鹿鳴間沈《カナルマシヅミ》で、鹿の鳴いて来る間に屏息《へいそく》して待っている意に取ったが、或は、「か鳴る間しづみ」で、羂《わな》に動物がかかって音立てること、鳴子《なるこ》のような装置でその音響を知ることで、「か鳴る」の「か」は接頭辞であろう。その動物のかかる問、じっと静かにして、息をこらしてということになるであろう。
一首の意は、「かなる間しづみ」までは序詞で、いろいろとうるさい噂《うわさ》などが立つが、じっとこらえて、こうしてお前とおれは寝るのだよ、というのである。代匠記に、「シノビテ通フ所ニモ皆人ノ臥《ふし》シヅマルヲ待テ児等モ吾モ共ニ下紐解トナリ」と云っている。結句の、八音の中に、「児ろ吾《あれ》紐解く」即ち、可哀い娘と己《おれ》とがお互に着物の紐を解いて寝る、という複雑なことを入れてあり、それが一首の眼目なのだから、調子がつまってなだらかに伸《の》びていない。それに上の方も順じて調子がやはり重く圧搾《あっさく》されているが、全体としては進行的な調子で、労働歌の一種と感ずることが出来る。恐らく足柄山中の樵夫《きこり》などの間に行われたものであっただろう。調子も古く感じ方材料も古樸《こぼく》でおもしろいものである。
「荒男《あらしを》のい小箭《をさ》手挾《たばさ》み向ひ立ちかなる間《ま》しづみ出でてと我《あ》が来る」(巻二十・四四三〇)は「昔年《さきつとし》の防人《さきもり》の歌」とことわってあるが、此歌にも、「かなる間しづみ」という語が入っている。併し此語は巻十四の歌語を踏まえて作ったものと看做《みな》すことも出来るから、この語の原意は巻十四の方にあるだろう。なお、「はろばろに家を思ひ出《で》、負征箭《おひそや》のそよと鳴るまで、歎きつるかも」(巻二十・四三九八)、「この床のひしと鳴るまで嘆きつるかも」(巻十三・三二七〇)がある。
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ま愛《がな》しみさ寝《ね》に吾《わ》は行《ゆ》く鎌倉《かまくら》の美奈《みな》の瀬河《せがは》に潮《しほ》満《み》つなむか 〔巻十四・三三六六〕 東歌
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相模国歌で、「みなの瀬河」は今の稲瀬川で坂の下の東で海に入る小川である。一首は、恋しくなってあの娘の処に寝に行くが、途中の鎌倉のみなのせ川に潮が満ちて渡りにくくなっているだろうか、というのである。「潮満つなむか」は、「潮満つらむか」の訛《なまり》である。内容は古樸な民謡で取りたてていう程のものではないが、歌調が快く音楽的に運ばれて行くのが特色で、こういう独特の動律《どうりつ》で進んでゆく歌調は、人麿の歌などにも無いものである。例えば、「玉裳の裾に潮みつらむか」(巻一・四〇)でもこう無邪気には行かぬところがある。また、「ま愛《がな》しみ寝《ね》らく愛《はし》けらくさ寝《な》らくは伊豆の高嶺《たかね》の鳴沢《なるさは》なすよ」(三三五八或本歌)などでも東歌的動律だが、この方には繰返しが目立つのに、鎌倉の歌の方はそれが目立たずに快い音のあるのは不思議である。
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武蔵野《むさしぬ》の小岫《をぐき》が雉《きざし》立《た》ち別《わか》れ往《い》にし宵《よひ》より夫《せ》ろに逢《あ》はなふよ 〔巻十四・三三七五〕 東歌
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「岫」は和名鈔《わみょうしょう》に山穴似[#レ]袖云々といっているが、小山に洞《ほら》などがあって雉子の住む処を聯想せしめる。雉が飛立つので、「立ち別れ」に続く序詞とした。「逢はなふよ」は「逢わず・よ」「逢わぬ・よ」、「逢わない・よ」である。一首の意は、あの晩に別れたきり、いまだに恋しい夫に逢《あ》わずに居ります、という女の歌であるが、結句の訛《なまり》と、「よ」なども特殊なものにしている。東歌には、結句に、「鳴沢《なるさは》なすよ」などもあり、他に余りない結句である。この歌の結句は、「崩岸辺《あずへ》から駒の行《ゆ》こ如《の》す危《あや》はども人妻《ひとづま》児《こ》ろをまゆかせらふも」(巻十四・三五四一)(目ゆかせざらむや)のに似ている。一首全体として見れば、武蔵野と丘陵と雉の生活と、別れた夫を慕う心と合体《がったい》して邪気の無い快い歌を形成している。
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鳰鳥《にほどり》の葛飾《かづしか》早稲《わせ》を饗《にへ》すとも其《そ》の愛《かな》しきを外《と》に立《た》てめやも 〔巻十四・三三八六〕 東歌
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下総国の歌。鳰鳥(かいつぶり)は水に潜《かず》くので、葛飾《かずしか》のかずへの枕詞とした。葛飾は今の葛飾《かつしか》区一帯。「饗《にえ》」は神に新穀を供え祭ること、即ち新嘗《にいなめ》の祭をいう。「にへ」は贄《にえ》で、「にひなめ」は、「にへのいみ」(折口博士)の義だとしてある。一首の意は、今は縦《たと》い葛飾で出来た早稲の新米を神様に供えてお祭をしている大切な、身を潔《きよ》くしていなければならない時であっても、あの恋《いと》しいお方のことですから、空《むな》しく家の外に立たせては置きませぬ、というので、「その愛しき」の「その」は憶良の歌にもあった、「そのかの母も」(巻三・三三七)の場合と同じである。軽く「あの」ぐらいにとればいい。それにしても、自分の恋しいあのお方ということを、「その愛《かな》しきを」という、簡潔でぞくぞくさせる程の情味もこもりいる、まことに旨《うま》い言葉である。農業民謡で、稲扱《いねこき》などをしながら大勢して歌うこともまた可能である。
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信濃路《しなぬぢ》は今《いま》の墾道《はりみち》刈株《かりばね》に足《あし》踏《ふ》ましむな履《くつ》著《は》け我《わ》が夫《せ》 〔巻十四・三三九九〕 東歌
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信濃国歌。「今の墾道《はりみち》」は、まだ最近の墾道というので、「新治《にひばり》の今つくる路《みち》さやかにも聞きにけるかも妹が上のことを」(巻十二・二八五五)が参考になる。一首の意は、信濃の国の此処《ここ》の新開道路は、未だ出来たばかりで、木や竹の刈株があってあぶないから、踏んで足を痛めてはなりませぬ、吾が夫よ、履《くつ》をお穿《は》きなさい、というのである。履は藁靴《わらぐつ》であっただろう。これも、旅人の気持でなく、現在|其処《そこ》にいても、「信濃路は」といっていること、前の、「信濃なる須賀の荒野に」と同じである。山野を歩いて為事《しごと》をする夫の気持でやはり農業歌の一種と看《み》ていい。「かりばね」は「苅れる根を言ふべし」(略解)だが、原意はよく分からぬ。近時「刈生根《かりふね》」の転(井上博士)だろうという説をたてた。私の郷里では足を踏むことをカックイ・フムといっている。
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吾《あ》が恋《こひ》はまさかも悲《かな》し草枕《くさまくら》多胡《たこ》の入野《いりぬ》のおくもかなしも 〔巻十四・三四〇三〕 東歌
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上野国《かみつけぬのくに》歌。「多胡」は上野国|多胡《たこ》郡。今は多野《たの》郡に属した。「草枕」を「多胡」の枕詞としたのは、タビのタに続けたので変則の一つである。垂水之水能早敷八師《タルミノミヅノハシキヤシ》(巻十二・三〇二五)で、ハヤシのハとハシキヤシのハに続けたたぐいである。「入野」は山の方へ深く入りこんだ野という意味であろう。「まさか」は「正《まさ》か」で、まさしく、現に、今、等の意に落着くだろう。「梓弓《あづさゆみ》すゑはし知らず然れどもまさか[#「まさか」に白丸傍点]は君に縁《よ》りにしものを」(巻十二・二九八五)、「しらがつく木綿《ゆふ》は花物ことこそは何時《いつ》のまさか[#「まさか」に白丸傍点]も常忘らえね」(同・二九九六)、「伊香保ろの傍《そひ》の榛原《はりはら》ねもころに奥をな兼ねそまさか[#「まさか」に白丸傍点]し善かば」(巻十四・三四一〇)、「さ百合《ゆり》花|後《ゆり》も逢はむと思へこそ今のまさか[#「まさか」に白丸傍点]も愛《うるは》しみすれ」(巻十八・四〇八八)等の例がある。一首の意は、自分の恋は、いま現《げん》にこんなにも深く強い。多胡の入野のように(序詞)奥の奥まで相かわらずいつまでも深くて強い、というのである。「まさかも」、それから、「おくも」と続いており、「かなし」を繰返しているが、このカナシという音は何ともいえぬ響を伝えている。民謡的に誰がうたってもいい。多胡郡に働く人々の口から口へと伝わったものと見えるが、甘美でもあり切実の悲哀もあり、不思議にも身に沁《し》みるいい歌である。この歌は男の歌か女の歌か、略解も古義も女の歌として居り、「夫の旅別の其際《そのきは》もかなし、別《わかれ》て末に思はむも悲しといふ也」(略解)とあるが、却《かえ》って男の歌として解し易《やす》いようでもある。併しこういうのになると、男でも女でも、その境界を超えたひびきがあり、無論作者がどういう者だろうかなどという個人を絶してしまっている。
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上毛野《かみつけぬ》安蘇《あそ》の真麻《まそ》むら掻《か》き抱《むだ》き寝《ぬ》れど飽《あ》かぬを何《あ》どか吾《あ》がせむ 〔巻十四・三四〇四〕 東歌
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上野国歌。「安蘇」は下野《しもつけ》安蘇郡であろうが、もとは上野《こうずけ》に入っていたと見える。この巻に、「下毛野《しもつけぬ》安素《あそ》の河原よ」(三四二五)とあるのは隣接地で下野にもかかっていたことが分かる。「真麻《まそ》むら」は、真麻《まあさ》の群《むれ》で、それを刈ったものを抱きかかえて運ぶから、「抱《むだ》き」に続く序詞とした。一首の意は、真麻むらの麻の束を抱《だ》きかかえるように(序詞)可哀いお前を抱いて寝たが、飽きるということがない、どうしたらいいのか、というのである。これも農民のあいだに伝わったものであろうが、序詞も無理でなく、実際生活を暗指《あんじ》しつつ恋愛情緒《れんあいじょうしょ》を具体的にいって、少しもみだらな感を伴《ともな》わず、嫉《ねた》ましい感をも伴わないのは、全体が邪気《じゃき》なく快《こころよ》いものだからであろう。それにはアドカ・アガセムという訛《なまり》も手伝っているらしく思われるけれども、単にそれのみでなく、「何《あど》か吾がせむ」という切実な句が此歌の価値を高めているからであろう。この句は万葉に「あどせろとかもあやに愛《かな》しき」(巻十四・三四六五)の例があるのみで、ほかは、「家に行きて如何にか吾がせむ[#「如何にか吾がせむ」に白丸傍点]枕づく嬬屋《つまや》さぶしく思ほゆべしも」(巻五・七九五)、「斯くばかり面影のみに思ほえばいかにかもせむ[#「いかにかもせむ」に白丸傍点]人目繁くて」(巻四・七五二)、「今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむ[#「いかにかもせむ」に白丸傍点]為《す》るすべのなさ」(巻十七・三九二八)等の例があるのみである。東歌の中でも私はこの歌を愛している。
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