人間というぐらいの意だが、やはり男という意味が勝っているであろう。
略解《りゃくげ》で、「わがおもふ人のふたりと有ものならば、何かなげくべきと也」と云ったのは簡潔でいい。なお、この短歌の、「人二人」云々につき、代匠記で遊仙窟《ゆうせんくつ》の「天上無[#レ]双《ナラビ》人間《ヨノナカニ》有[#レ]一《ヒトリノミ》」という句を引いていたが、この歌の作られた頃に、遊仙窟が渡来したか奈何《どうか》も定めがたいし、「人二人ありとし念はば」というようないい方は相聞心の発露としてそのころでも云い得たものであろう。明治新派和歌のはじめの頃、服部躬治《はっとりもとはる》氏は、「天地の間に存在せるはたゞ二人のみ。二人のみと観ぜむは、夫婦それ自身の本能なり。観ぜざるべからざるにあらず、おのづからにして観ずべしとす。夫婦はしかも一体なり。大なる我なり。我を離れて天地あらず、天地の相は我の相なり。既に我の相を自識し、我の存在を自覚せらば、何をもとめて何かなげかむ。我は長《とこし》へに安かるべく、世は時じくに楽しかるべし。蓋《けだ》しこの安心は絶対なり」(恋愛詩評釈)と解釈し、古義の解釈を、「何ぞそれ鑑識のひくきや」等と評したのであったが、やはり従来の解釈(略解・古義等)の方が穏当であった。併し新派和歌当時の万葉鑑賞の有様を参考のために示そうとしてここに引用したのである。
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川《かは》の瀬《せ》の石《いし》ふみ渡《わた》りぬばたまの黒馬《くろま》の来《く》る夜《よ》は常《つね》にあらぬかも 〔巻十三・三三一三〕 作者不詳
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長歌の反歌で、長歌は、「こもりくの泊瀬小国《はつせをぐに》に、よばひせす吾がすめろぎよ」云々という女の歌である。この短歌は、川瀬の石を踏渡って私のところに黒馬の来る晩はいつでも変らずこうあらぬものか、毎晩御通いになることを御願しております、というので、「常にあらぬかも」は疑問をいって、願望になっているのである。「我が命も常にあらぬか昔見し象《きさ》の小河《をがは》を行きて見むため」(巻三・三三二)の「常にあらぬか」がやはりそうである。巻四(五二五)、坂上郎女《さかのうえのいらつめ》の、「佐保河の小石《こいし》[#「小石」の左に「さざれ」の注記]踏み渡りぬばたまの黒馬の来る夜は年にもあらぬか」は、恐らくこの歌の模倣だろうと想像すれば、既に古歌として伝誦せられ、作歌の時の手本になったものと見える。「黒馬」といったのは印象的でいい。
巻十三から選んだ短歌は以上のごとく少いが、巻十三は長歌で特色のあるものが多い。然るにこの選は長歌を止めたから、その結果がかくのごとくになった。
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巻第十四
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夏麻《なつそ》引《ひ》く海上潟《うなかみがた》の沖《おき》つ渚《す》に船《ふね》はとどめむさ夜《よ》ふけにけり 〔巻十四・三三四八〕 東歌
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この巻十四は、いわゆる「東歌《あずまうた》」になるのであるが、東歌は、東国地方に行われた、概して民謡風な短歌を蒐集《しゅうしゅう》分類したもので、従って巻十・十一・十二あたりと同様作者が分からない。併し、作者も単一でなく、中には京から来た役人、旅人等の作もあろうし、京に住んだことのある遊行女婦《うかれめ》のたぐいも交っていようし、或は他から流れこんだものが少しく変形したものもあり、京に伝達せられるまで、(折口博士は、大倭宮廷に漸次に貯留せられたものと考えている。)幾らか手を入れたものもあるだろう。そういう具合に単一でないが、大体から見て東国の人々によって何時《いつ》のまにか作られ、民謡として行われていたものが大部分を占めるようである。従って巻十四の東歌だけでも、年代は相当の期間が含まれているものの如く、歌風は、大体|訛語《かご》を交えた特有の歌調であるが、必ずしも同一歌調で統一せられたものではない。
「夏麻《なつそ》ひく」は夏《なつ》の麻《あさ》を引く畑畝《はたうね》のウネのウからウナカミのウに続けて枕詞とした。「海上潟」は下総《しもうさ》に海上《うなかみ》郡があり、即ち利根《とね》川の海に注ぐあたりであるが、この東歌で、「右一首、上総国《かみつふさのくに》の歌」とあるのは、古《いにし》え上総にも海上郡があり、今市原郡に合併せられた、その海上《うなかみ》であろう。そうすれば東京湾に臨《のぞ》んだ姉ヶ崎附近だろうとせられて居る。一首の意は、海上潟の沖にある洲《す》のところに、船を泊《と》めよう、今夜はもう更《ふ》けてしまった、というのである。単純素朴で古風な民謡のにおいのする歌である。「船はとどめむ」はただの意嚮《いこう》でなく感慨が籠っていてそこで一たび休止している。それから結句を二たび起して詠歎の助動詞で止めているから、下の句で二度休止がある。此歌は、伸々《のびのび》とした歌調で特有な東歌ぶりと似ないので、略解《りゃくげ》などでは、東国にいた京役人の作か、東国から出でて京に仕えた人の作ででもあろうかと疑っている。また巻七(一一七六)に、「夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず」というのがあって、上の句は全く同一である。この巻七の歌も古い調子のものだから、どちらかが原歌で他は少し変化したものであろう。巻七の歌も「※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅にて作れる」の中に集められているのだから、東国での作だろうと想像せられるにより、二つとも伝誦せられているうち、一つは東歌として蒐集せられたものの中に入ったものであろう。二つ較べると巻七の方が原歌のようでもある。
この歌の次に、「葛飾《かつしか》の真間の浦廻《うらみ》を榜《こ》ぐ船の船人さわぐ浪立つらしも」(巻十四・三三四九)という東歌(下総国歌)があるのに、巻七(一二二八)に、「風早の三穂の浦廻を傍ぐ船の船人さわぐ浪立つらしも」という歌があって、下の句は全く同じであり、風早の三穂は風早を風の強いことに解し、三穂を駿河《するが》の三保だとせば、どちらかが原歌で、伝誦せられて行った近国の地名に変形したもので、巻七の歌の方が原歌らしくもある。併《しか》し、此等の東歌というのも、やはり東国で民謡として行われていたことは確かであろう。仙覚抄《せんがくしょう》に、「ヨソヘヨメル心アルベシ」云々とあるのは、民謡的なものに感じての説だとおもう。
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筑波嶺《つくばね》に雪《ゆき》かも降《ふ》らる否《いな》をかも愛《かな》しき児《こ》ろが布《にぬ》乾《ほ》さるかも 〔巻十四・三三五一〕 東歌
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常陸国《ひたちのくに》の歌という左注が附いている。一首の意は、白く見えるのは筑波山にもう雪が降ったのか知ら、いやそうではなかろう、可哀《かあ》いい娘が白い布《ぬの》を干しているのだろう、というほどの意で、「否をかも」は「否かも」で「を」は調子のうえで添えたもの、文法では感歎詞の中に入れてある。「相見ては千歳や去《い》ぬる否《いな》をかも我や然《しか》念ふ君待ちがてに」(巻十一・二五三九)の「否をかも」と同じである。古樸《こぼく》な民謡風のもので、二つの聯想《れんそう》も寧《むし》ろ原始的である。それに、「降れる」というところを「降らる」と訛《なま》り、「乾せる」というところを「乾さる」と訛り、「かも」という助詞を三つも繰返して調子を取り、流動性進行性の声調を形成しているので、一種の快感を以て労働と共にうたうことも出来る性質のものである。「かなしき」は、心の切《せつ》に動く場合に用い、此処では可哀《かあ》いくて為方《しかた》のないという程に用いている。「児ろ」の「ろ」は親しんでつけた接尾辞で、複数をあらわしてはいない。この歌はなかなか愛すべきもので、東歌の中でもすぐれて居る。
ニヌは原文「爾努」で旧訓ニノ。仙覚抄でニヌと訓《よ》み、考《こう》でニヌと訓んだ。布《ぬの》の事だが、古鈔本中、「爾《ニ》」が「企《キ》」になっているもの(類聚古集《るいじゅうこしゅう》)があるから、そうすれば、キヌと訓むことになる。即ち衣《きぬ》となるのである。
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信濃《しなぬ》なる須賀《すが》の荒野《あらの》にほととぎす鳴《な》く声《こゑ》きけば時《とき》過《す》ぎにけり 〔巻十四・三三五二〕 東歌
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「すがの荒野」を地名とすると、和名鈔《わみょうしょう》の筑摩郡|苧賀《ソガ》郷で、梓《あずさ》川と楢井《ならい》川との間の曠野《こうや》だとする説(地名辞書)が有力だが、他にも説があって一定しない。元は普通名詞即ち菅の生えて居る荒野という意味から来た土地の名だろうから、此処は信濃の一地名とぼんやり考えても味うことが出来る。一首の意は、信濃の国の須賀の荒野に、霍公鳥《ほととぎす》の鳴く声を聞くと、もう時季が過ぎて夏になった、というのである。霍公鳥の鳴く頃になったという詠歎《えいたん》で、この季節の移動を詠歎する歌は集中に多いが、この歌は民謡風なものだから、何か相聞的な感じが背景にひそまっているだろう。「秋萩の下葉の黄葉《もみぢ》花につぐ時過ぎ行かば後《のち》恋ひむかも」(巻十・二二〇九)、次に評釈する、「このくれの時移りなば」(巻十四・三三五五)、「わたつみの沖つ繩海苔《なはのり》来る時と妹が待つらむ月は経につつ」(巻十五・三六六三)、「恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物|思《も》ふ時に来鳴き響《とよ》むる」(同・三七八〇)等の心持を参照すれば、此歌の背後にある恋愛情調をも感じ得るのである。つまり誰かを待つという情調であろう。そして信濃国でこういう歌が労働のあいまなどに歌われたものであろう。民謡だから自分等のうたう歌に地名を入れるので、他にも例が多く、必ずしも※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅にあって詠んだとせずともいいであろう。「アラノ」(安良能)といって「アラヌ」(安良努)と云わなかったのは、この歌ではアラノと発音していたことが分かる。一種の地方|訛《なまり》であっただろう。この歌の調子はほかの東歌と似ていないが、こういう歌をも信濃でうたっていたと解釈すべきで、共に日本語だから共通していて毫《ごう》もかまわぬのである。賀茂真淵《かものまぶち》が、この歌を模倣して、「信濃なる菅の荒野を飛ぶ鷲《わし》の翼《つばさ》もたわに吹く嵐《あらし》かな」と詠《よ》んだが、未だ万葉調になり得なかった。「吹く嵐かな」などという弱い結句は万葉には絶対に無い。
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天《あま》の原《はら》富士《ふじ》の柴山《しばやま》木《こ》の暗《くれ》の時《とき》移《ゆつ》りなば逢《あ》はずかもあらむ 〔巻十四・三三五五〕 東歌
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これは駿河国歌で相聞として分類している。「天のはら富士の柴山木の暗《くれ》の」までは「暮《くれ》」(夕ぐれ)に続く序詞で、空に聳《そび》えている富士山の森林のうす暗い写生から来ているのである。一首の意は夕方に逢おうと約束したから、こうして待っているがなかなか来ず、この儘《まま》時が移って行ったら逢うことが出来ないのではないか知らん、というので、この内容なら普通であるが、そのあたりで歌った民謡で、富士の森林を入れてあるし、ウツリ(移り)をユツリと訛《なま》っていたりするので、東歌として集められたものであろう。この歌の、「時移りなば」の句は、時間的には短いが、その気持は、前の「信濃なる」の歌を解釈する参考となるものである。取りたてていう程の歌でないが、「妹が名も吾が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺《たかね》の燃えつつわたれ」(巻十一・二六九七)などと共に、富士山を詠みこんでいるので注意したのであった。
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