、「今は吾は死なむよ吾背生けりとも吾に縁《よ》るべしと言ふといはなくに」という歌は、恐らく此歌の模倣だろうから、当時既に古歌として歌を作る仲間に参考せられていたことが分かる。なお集中、「今は吾は死なむよ吾妹《わぎも》逢はずして念《おも》ひわたれば安けくもなし」(巻十二・二八六九)、「よしゑやし死なむよ吾妹《わぎも》生けりとも斯くのみこそ吾が恋ひ渡りなめ」(巻十三・三二九八)というのがあり、共に類似の歌である。「死なむよ」の語は、前云ったように直接性があって、よく響くので一般化したものであろう。併し、「死なむよ我背」と女のいう方が、「死なむよ我妹」と男のいうよりも自然に聞こえるのは、後代の私の僻眼《ひがめ》からか。ただ他の歌が皆この歌に及ばないところを見ると、「今は吾は死なむよ我背」が原作で、従って、「死なむよ我背」が当時の人にも自然であっただろうと謂《い》うことが出来る。

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吾《わ》が齢《よはひ》し衰《おとろ》へぬれば白細布《しろたへ》の袖《そで》の狎《な》れにし君《きみ》をしぞ念《おも》ふ 〔巻十二・二九五二〕 作者不詳
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 一首の意は、おれも漸《ようや》く年をとって体も衰えてしまったが、今しげしげと通わなくとも、長年|狎《な》れ親しんだお前のことが思出されてならない、という程の意で、「君」というのを女にして、男の歌として解釈したのであった。無論民謡的にひろがり得る性質の歌だから、「君」をば男にして女の歌と解釈することも出来るが、やはり老人の述懐的な恋とせば男の歌とする方が適当ではなかろうか。さすれば、女のことを「君」といった一例である。それから、「白細布の袖の」までは「狎れ」に続く序詞であるが、やはり意味の相関聯するものがあり、衣の袖を纏《ま》き交《かわ》した時の情緒《じょうしょ》がこの序詞にこもっているのである。
 万葉に老人の恋を詠んだ歌のあることは既に前にも云ったが、なお巻十三には、「天橋《あまはし》も長くもがも、高山も高くもがも、月読《つくよみ》の持《も》たる変若水《をちみづ》、い取り来て君に奉《まつ》りて、変若《をち》得しむもの」(三二四五)、反歌に、「天《あめ》なるや月日の如く吾が思《も》へる公《きみ》が日にけに老ゆらく惜しも」(三二四六)があり、なお、「沼名河《ぬながは》の底なる玉、求めて得し玉かも、拾《ひり》ひて得し玉かも、惜《あたら》しき君が、老ゆらく惜しも」(三二四七)というのもある。これは女が未だ若く、男の老いゆく状況の歌であるが、男を玉に比したり、日月に比したりして大切にしている女の心持が出ていて珍しいものである。なお、「悔しくも老いにけるかも我背子が求むる乳母《おも》に行かましものを」(巻十二・二九二六)というのもある。これは女の歌だが、諧謔《かいぎゃく》だから、女はいまだ老いてはいないのであろう。略解《りゃくげ》に、「袖のなれにしとは、年経て袖のなれしと、その男の馴来《なれこ》しとを兼《かね》言ひて、君も我も齢《よはひ》のおとろへ行につけて、したしみのことになれるを言へり」とあって、女の作った歌の趣にしているのは契沖以来の説である。

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ひさかたの天《あま》つみ空《そら》に照《て》れる日《ひ》の失《う》せなむ日《ひ》こそ吾《わ》が恋《こひ》止《や》まめ 〔巻十二・三〇〇四〕 作者不詳
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 この恋はいつまでも変らぬ、空の太陽が無くなってしまうならば知らぬこと、というのであるが、恋に苦しんでいるために、自然自省的なような気持で、こういう云い方をしているのである。後代の読者には、何か思想的に歌ったようにも感ぜられるけれども、いい方《かた》の動機はそういうのではなく、もっと具体的な気持があるのである。この種のものには、「天地《あめつち》に少し至らぬ丈夫《ますらを》と思ひし吾や雄心《をごころ》もなき」(巻十二・二八七五)、「大地《おほつち》も採《と》らば尽きめど世の中に尽きせぬものは恋にしありけり」(巻十一・二四四二)、「六月《みなつき》の地《つち》さへ割《さ》けて照る日にも吾が袖|乾《ひ》めや君に逢はずして」(巻十・一九九五)等は、同じような発想の為方《しかた》の歌として味うことが出来る。心持が稍《やや》間接だが、先ず万葉の歌の一体として珍重《ちんちょう》していいだろう。なお、「外目《よそめ》にも君が光儀《すがた》を見てばこそ吾が恋やまめ命死なずは」(巻十二・二八八三)があり、「わが恋やまめ」という句が入って居る。

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能登《のと》の海《うみ》に釣《つり》する海人《あま》の漁火《いさりび》の光《ひかり》にい往《ゆ》く月《つき》待《ま》ちがてり 〔巻十二・三一六九〕 作者不詳
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 まだ月も出ず暗いので、能登の海に釣している海人《あま》の漁火《いさりび》の光を頼りにして歩いて行く、月の出を待ちながら、というので、やはり相聞《そうもん》の気持の歌であろう。男が通ってゆく時の或時の逢遭《ほうそう》を詠《よ》んだものと解釈していいだろうが、比較的独詠的な分子がある。「光に」の「に」という助詞は此歌の場合には注意していいもので、「み空ゆく月の光にただ一目あひ見し人し夢にし見ゆる」(巻四・七一〇)、「玉だれの小簾《をす》の隙《すけき》に入りかよひ来《こ》ね」(巻十一・二三六四)、「清き月夜に見れど飽かぬかも」(巻二十・四四五三)、「夜のいとまに摘める芹《せり》これ」(同・四四五五)等の「に」と同系統のもので色調の稍ちがうものである。なお、「夕闇は道たづたづし月待ちて往《ゆ》かせ吾背子その間にも見む」(巻四・七〇九)と此歌と気持が似て居る。いずれにしても燈火を余り使わずに女のもとに通ったころのことが思出されておもしろいものである。

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あしひきの片山雉《かたやまきぎし》立《た》ちゆかむ君《きみ》におくれて顕《うつ》しけめやも 〔巻十二・三二一〇〕 作者不詳
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 旅立ってゆく男にむかって女の云った歌の趣である。「片山雉」までは「立つ」につづく序詞である。旅立たれるあなたと離れて私ひとりとり残されて居るなら、もう心もぼんやりしてしまいましょう、というので、「顕《うつ》しけめやも」、現《うつつ》ごころに、正気で、確《しっか》りして居ることが出来ようか、それは出来ずに、心が乱れ、茫然《ぼうぜん》として正気《しょうき》を失うようになるだろうという意味に落着くのである。この雉を持って来た序詞は、鑑賞の邪魔をするようでもあるが、私は、意味よりも音調にいいところがあるので棄《す》て難かったのである。「偽《いつわ》りも似つきてぞする現《うつ》しくもまこと吾妹子われに恋ひめや」(巻四・七七一)、「高山と海こそは、山ながらかくも現《うつ》しく」(巻十三・三三三二)、「大丈夫《ますらを》の現心《うつしごころ》も吾は無し夜昼といはず恋ひしわたれば」(巻十一・二三七六)等が参考となるだろう。なお、「春の日のうらがなしきにおくれゐて君に恋ひつつ顕《うつ》しけめやも」(巻十五・三七五二)という、狭野茅上娘子《さぬのちがみのおとめ》の歌は全くこの歌の模倣である。おもうに当時の歌人等は、家持《やかもち》などを中心として、古歌を読み、時にはかく露骨に模倣したことが分かり、模倣心理の昔も今もかわらぬことを示している。「丹波道《たにはぢ》の大江《おほえ》の山の真玉葛《またまづら》絶えむの心我が思はなくに」(巻十二・三〇七一)というのも序詞の一形式として書いておく。
 以上で巻十二の選は終ったが、従属的にして味ってもいいものが若干首あるから序《ついで》に書記《かきしる》しておこう。たいして優れた歌ではない。
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死なむ命|此《ここ》は念《おも》はずただにしも妹に逢はざる事をしぞ念《おも》ふ (巻十二・二九二〇)
各自《おのがじし》ひと死《しに》すらし妹に恋ひ日《ひ》に日《け》に痩《や》せぬ人に知らえず (同・二九二八)
うまさはふ目には飽けども携《たづさ》はり問はれぬことも苦しかりけり (同・二九三四)
思ふにし余りにしかば術《すべ》を無み吾はいひてき忌《い》むべきものを (同二九四七)
現身《うつせみ》の常の辞《ことば》とおもへども継《つ》ぎてし聞けば心|惑《まど》ひぬ (同・二九六一)
あしひきの山より出づる月待つと人にはいひて妹待つ吾を (同・三〇〇二)
夕月夜《ゆふづくよ》あかとき闇のおぼほしく見し人ゆゑに恋ひわたるかも (同・三〇〇三)
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巻第十三

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相坂《あふさか》をうち出《い》でて見《み》れば淡海《あふみ》の海《み》白木綿花《しらゆふはな》に浪《なみ》たちわたる 〔巻十三・三二三八〕 作者不詳
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 長歌の反歌で、長歌は、「山科《やましな》の石田《いはた》の森の、皇神《すめがみ》に幣帛《ぬさ》とり向けて、吾は越えゆく、相坂《あふさか》山を」云々。もう一つのは、「我妹子に淡海《あふみ》の海《うみ》の、沖つ浪来寄す浜辺を、くれぐれと独ぞ我が来し、妹が目を欲り」云々というので、大和から近江の恋人の処に通う趣の歌である。この短歌の意味は、相坂《おうさか》(逢坂)山を越えて、淡海《おうみ》の湖水の見えるところに来ると、白木綿《しらゆう》で作った花のように白い浪が立っている、というので、大きい流動的な調子で歌っている。この調子は、はじめて湖の見え出した時の感じに依るもので、従って恋人に近づいたという情緒《じょうちょ》にも関聯するのである。そこで、「うち出でて見れば」と云って、「浪たちわたる」と結んでいるのである。即ちこの歌では「見れば」が大切だということになり、源実朝《みなもとのさねとも》の、「箱根路をわが越え来れば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」との比較の時にも伊藤左千夫がそう云っている。実際、万葉の此歌に較《くら》べると実朝の歌が見劣《みおと》りのするのは、第一声調がこの歌ほど緊張していないからであった。この歌は、「白木綿花(神に捧げる幣《ぬさ》の代用とした造花)に」などと現代の人の耳に直ぐには合わないような事を云っているが、はじめて見え出した湖に対する感動が極めて自然にあらわれているのが好いのである。第三句は、アフミノミでもアフミノウミでもどちらでも好い。それから、「淡海の海」と、「伊豆の海や」との比較にもなるのであるが、やはり「淡海の海」とした方がまさっているだろう。次にこの歌では、「相坂をうち出でて見れば」と云っているが、これを赤人の、「田児の浦ゆうち出でて見れば」と比較することも出来る。「打出でて見れば」は「打出の浜」という名とは関係なく、若《も》しあっても後世の命名であろう。

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敷島《しきしま》の日本《やまと》の国《くに》に人《ひと》二人《ふたり》ありとし念《も》はば何《なに》か嗟《なげ》かむ 〔巻十三・三二四九〕 作者不詳
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 一首の意は、若しもこの日本の国にあなたのような方がお二人おいでになると思うことが出来ますならば、何《どう》してこんなに嗟《なげ》きましょう。恋しいあなたが唯《ただ》お一人のみゆえこんなにも悲しむのです、というので、この歌の「人」は貴方《あなた》というぐらいの意味である。この歌は女としての心の働き方が特殊で、今までの相聞歌の心の動き方と違うところがあっていい。この歌の長歌は、「敷島の大和の国に、人さはに満ちてあれども、藤波の思ひ纏《まつ》はり、若草の思ひつきにし、君が目に恋ひやあかさむ、長きこの夜を」(三二四八)というので、この反歌と余り即《つ》き過ぎぬところが旨《うま》いものである。この長歌の「人」は
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