客観的ないい方だけれども民謡的な特徴が其処《そこ》に存じている。

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燈《ともしび》のかげに耀《かがよ》ふうつせみの妹《いも》が咲《ゑまひ》しおもかげに見ゆ 〔巻十一・二六四二〕 作者不詳
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 寄[#レ]物述[#レ]思の中に分類せられている。自分の恋しい女が燈火のもとにいて、嬉しそうににこにこしていた時の、何ともいえぬ美しく耀《かがや》くような現身《うつせみ》即ち体《からだ》そのものの女が、今おもかげに立って来ている、というのである。この歌は嬉しい心持で女身を讃美しているのだから、幾分誇張があって、美麗過ぎる感があるけれども、本人は骨折っているのだからそれに同情して味う方がいい。「年も経ず帰り来《こ》なむと朝影に待つらむ妹が面影に見ゆ」(巻十二・三一三八)などと較べると、「燈のかげに」の方は覚官的に直接に云っている。

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難波人《なにはびと》葦火《あしび》焚《た》く屋《や》の煤《す》してあれど己《おの》が妻こそ常《とこ》めづらしき 〔巻十一・二六五一〕 作者不詳
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 寄[#レ]物述[#レ]思の一首。難波の人が葦火《あしび》を焚くので家が煤《すす》けるが、おれの妻もそのようにもう古び煤けた。けれどもおれの妻はいつまで経《た》っても見飽きない、おれの妻はやはりいつまでも一番いい、というので、若い者の甘い恋愛ともちがって落着いたうちに無限の愛情をたたえている。軽い諧謔《かいぎゃく》を含めているのも親しみがあって却《かえ》って好いし、万葉の歌は万事写生であるから、縦《たと》い平凡のようでも人間の実際が出ているのである。「青山の嶺《みね》の白雲朝にけに常に見れどもめづらし吾君」(巻三・三七七)、「住吉の里行きしかば春花のいやめづらしき君にあへるかも」(巻十・一八八六)等の例がある。結句ツネメヅラシキと訓んで居り、いずれでも好い。

           ○

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馬《うま》の音《と》のとどともすれば松蔭《まつかげ》に出《い》でてぞ見《み》つる蓋《けだ》し君かと 〔巻十一・二六五三〕 作者不詳
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 結句、原文「若君香跡」で、旧訓モシハ・キミカト、考モシモ・キミカトであったのを古義でケダシ・キミカトと訓んだ。「若雲《ケダシクモ》」(巻十二・二九二九)、「若人見而《ケダシヒトミテ》」(巻十六・三八六八)の例がある。なお額田王の「古《いにしへ》に恋ふらむ鳥は霍公鳥《ほととぎす》蓋《けだ》しや鳴きし吾が恋ふるごと」(巻二・一一二)があること既にいった。一首は女が男を待つ心で何の奇も弄《ろう》しない、つつましい佳《よ》い歌である。そしていろいろと具体的に云っているので、読者にもまたありありと浮んで来るものがあっていい。なおこの歌の次に、「君に恋ひ寝《い》ねぬ朝明《あさけ》に誰《た》が乗れる馬の足音《あのと》ぞ吾に聞かする」(巻十一・二六五四)、「味酒《うまさけ》の三諸《みもろ》の山に立つ月の見《み》が欲《ほ》し君が馬の音《おと》ぞする」(同・二五一二)の例がある。

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窓《まど》ごしに月《つき》おし照《て》りてあしひきの嵐《あらし》吹《ふ》く夜《よ》は君《きみ》をしぞ念《おも》ふ 〔巻十一・二六七九〕 作者不詳
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 第二句原文「月臨照而」で、旧訓ツキサシイリテであったのを、契沖がツキオシテリテと訓んだ。窓から月が部屋《へや》までさし込んで、嵐の吹いてくる今晩は、身に沁みてあなたが恋しゅうございます、というので、月の光と山の風とが特に恋人をおもう情を切実にすることを云っている。私はこの歌で、「窓ごしに月おし照りて」の句に心を牽《ひ》かれている。普通「窓越しに月照る」というと、窓外の庭あたりに月の照る趣のように解するが、「おし照る」が作用をあらわしたから、月光が窓から部屋までさし込んでくることとなり、まことに旨《うま》い云いかたである。月光を機縁とした恋の歌に、「吾背子がふり放《さ》け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲な棚引き」(巻十一・二六六九)、「真袖もち床うち払ひ君待つと居りし間《あひだ》に月かたぶきぬ」(同・二六六七)等がある。

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彼方《をちかた》の赤土《はにふ》の小屋《をや》に霖《こさめ》降《ふ》り床《とこ》さへ沾《ぬ》れぬ身に副《そ》へ我妹《わぎも》 〔巻十一・二六八三〕 作者不詳
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 これは寄[#レ]雨歌だから、こういう云い方をするようになったもので、「赤土の小屋」即ち、土のうえに建ててある粗末な家に小雨が降って来て床までも沾れた趣である。そこで結句が導かれるわけで、つまりは、「身に副へ我妹」が一首の主眼となるのである。上の句などは大体の意味を心中に浮べて居れば好いので、小説風に種々解釈する必要はなかろうとおもう。民謡的で、労働に携わりながらうたうことも出来る歌である。

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潮《しほ》満《み》てば水沫《みなわ》に浮《うか》ぶ細砂《まなご》にも吾《われ》は生《い》けるか恋《こ》ひは死《し》なずて 〔巻十一・二七三四〕 作者不詳
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 海の潮が満ちて来ると、水《みず》の沫《あわ》に浮んでいる細《こま》かい砂の如くに、恋死《こいじに》もせずに果敢《はか》なくも生きているのか、というので、物に寄せた歌だから細砂のことなどを持って来たものだろうとおもうが、この点はひどく私の心をひいている。近代の象徴詩などというと雖《いえども》、かくの如くに自然に行かぬものが多い。「細砂《まなご》にも」をば、細砂《まなご》にも自分の命を托して果敢無《はかな》くも生きていると解するともっと近代的になる。真淵は「み沫《ナワ》の如く浮ぶまさごといひて、我|生《イキ》もやらず死もはてず、浮きてたゞよふこゝろをたとへたり」(考)といっている。
 この第四句は、原文「吾者生鹿」で、旧訓ワレハナリシカ、代匠記ワレハナレルカ。略解《りゃくげ》ワレハイケルカである。この句を旧訓に従って、ナリシカと訓み、解釈を「細砂になりたいものだ」とする説もある(新考)。いずれにしても、細砂の中に自分の命を托する意味で同一に帰着する。「解衣《ときぎぬ》の恋ひ乱れつつ浮沙《うきまなご》浮きても吾はありわたるかも」(巻十一・二五〇四)、「白細砂《しらまなご》三津の黄土《はにふ》の色にいでて云はなくのみぞ我が恋ふらくは」(同・二七二五)等の中には、「浮沙」、「白細砂」とあって、やはり砂のことを云っているし、なお、「八百日《やほか》ゆく浜の沙《まなご》も吾が恋に豈《あに》まさらじか奥《おき》つ島守」(巻四・五九六)、「玉津島磯の浦廻《うらみ》の真砂《まなご》にも染《にほ》ひて行かな妹が触《ふ》りけむ」(巻九・一七九九)、「相模路《さがむぢ》の淘綾《よろぎ》の浜の真砂《まなご》なす児等《こら》は愛《かな》しく思はるるかも」(巻十四・三三七二)等の例がある。皆相当によいもので、万葉歌人の写生力・観入態度の雋敏《しゅんびん》に驚かざることを得ない。

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朝柏《あさがしは》閏《うる》八河辺《はかはべ》の小竹《しぬ》の芽《め》のしぬびて宿《ぬ》れば夢《いめ》に見えけり 〔巻十一・二七五四〕 作者不詳
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 此歌は「しぬびて宿《ぬ》れば夢《いめ》に見えけり」だけが意味内容で、その上は序詞である。やはり此巻に、「秋柏|潤和川辺《うるわかはべ》のしぬのめの人に偲《しぬ》べば君に堪《た》へなく」(巻十一・二四七八)というのがある。この「君に堪へなく」という句はなかなか佳句であるから、二つとも書いて置く。このあたりの歌は、序詞を顧慮しつつ味う性質のもので、取りたてて秀歌というほどのものではない。

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あしひきの山沢《やまさは》回具《ゑぐ》を採《つ》みに行かむ日だにも逢はむ母は責むとも 〔巻十一・二七六〇〕 作者不詳
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 山沢に生《は》えている回具《えぐ》を採《つ》みにゆく日なりと都合してあなたにお逢いしましょう。母に叱《しか》られても、というので、当時も母が娘をいろいろ監視していたことが分かる。結句の、「母は責むとも」は、前にあった、「母に障らば」などと同じ気持である。新考で、「逢はせ」と訓み、新訓で其《それ》に従ったが、そうすると、男の方で女にむかっていうことになる。「逢ってください」となるが、少し智的になるだろう。新考のアハセ説は、第四句の「相将」が、古鈔本中(嘉・類)に、「相為」になっているためであった。

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蘆垣《あしがき》の中《なか》の似児草《にこぐさ》莞爾《にこよか》に我《われ》と笑《ゑ》まして人《ひと》に知《し》らゆな 〔巻十一・二七六二〕 作者不詳
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「似児草《にこぐさ》」は箱根草、箱根|歯朶《しだ》という説が有力である。「に」の音で「にこよか」(莞爾)に続けて序詞とした。「我と笑まして」は吾と顔合せてにこにこして、吾と共ににこにこしての意。一首の意は、わたしと御一しょにこうしてにこにこしておいでになるところを、人に知られたくないのです、というので、身体的に直接な珍らしい歌である。此は民謡風な読人不知《よみびとしらず》の歌だが、後に大伴坂上郎女《おおとものさかのうえのいらつめ》が此歌を模倣して、「青山を横ぎる雲のいちじろく吾と笑《ゑ》まして人に知らゆな」(巻四・六八八)という歌を作った。これも面白いが、巻十一の歌ほど身体的で無いところに差違があるから、どちらがよいか鑑別せねばならない。

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道のべのいつしば原《はら》のいつもいつも人の許さむことをし待《ま》たむ 〔巻十一・二七七〇〕 作者不詳
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 この歌は、「人の許《ゆる》さむことをし待たむ」というのが好いので選んだ。男が女の許すのを待つ、気長に待つ気持の歌で、こういう心情もまた女に対する恋の一表現である。この巻の、「梓弓《あづさゆみ》引きてゆるさずあらませばかかる恋にはあはざらましを」(巻十一・二五〇五)は、女の歌で、やはり身を寄せたことを「許す」と云っている。なお、巻十二(三一八二)に、「白妙の袖の別《わかれ》は惜しけども思ひ乱れて赦《ゆる》しつるかも」というのがある。この、「赦す」は稍《やや》趣《おもむき》が違うが、つまりは同じことに帰着するのである。

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神南備《かむなび》の浅小竹原《あさしぬはら》のうるはしみ妾《わ》が思《も》ふ君《きみ》が声《こゑ》の著《しる》けく 〔巻十一・二七七四〕 作者不詳
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 一首の、「神南備の浅小竹原《あさしぬはら》のうるはしみ」は下の「うるはしみ」に続いて序詞となった。併《しか》し現今も飛鳥《あすか》の雷岳《いかずちのおか》あたり、飛鳥川沿岸に小竹林があるが、そのころも小竹林は繁《しげ》って立派であったに相違ない。当時の人(この歌の作者は女性の趣)はそれを観察していて、「うるはし」に続けたのは、詩的力量として観察しても驚くべく鋭敏で、特に「浅小竹原」と云ったのもこまかい観察である。もっとも、この語は古事記にも、「阿佐士怒波良《アサジヌハラ》」とある。併しそれよりも感心するのは、一首の中味である、「妾《わ》が思ふ君が声の著《しる》けく」という句である。自分の恋しくおもう男、即ち夫《おっと》の声が人なかにあってもはっきり聞こえてなつかしいというので、何でもないようだが短歌のような短い抒情詩の中に、こう自由にこの気持を詠み込むということはむつかしい事な
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