方は常識的で、従って感味が浅い。なお、巻十二(三一三八)に、「年も経ず帰り来《こ》なむと朝影に待つらむ妹が面影に見ゆ」というのもある。

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斯くばかり恋ひむものぞと念《おも》はねば妹《いも》が袂《たもと》を纏《ま》かぬ夜もありき 〔巻十一・二五四七〕 作者不詳
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 作者不明。こんなに恋しいものだとは思わなかったから、妹といっしょに寝ない晩もあったのだが、こうして離れてしまうと堪えがたく恋しい。容易《たやす》く逢われた頃になぜ毎晩通わなかったのか、と歎く気持の歌である。当時の男女相逢う状態を知ってこの歌を味うとまことに感の深いものがある。ただこのあたりの歌は作者不明で皆民謡的なものだから、そのつもりで味うこともまた必要である。巻十二(二九二四)に、「世のなかに恋|繁《しげ》けむと思はねば君が袂《たもと》を纏《ま》かぬ夜もありき」というのがあり、どちらかが異伝だろうが、巻十一の此歌の方が稍《やや》素直《すなお》である。

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相《あひ》見《み》ては面《おも》隠《かく》さるるものからに継《つ》ぎて見《み》まくの欲《ほ》しき君《きみ》かも 〔巻十一・二五五四〕 作者不詳
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 作者不明。お目にかかれば、お恥かしくて顔を隠したくなるのですけれど、それなのに、度々あなたにお目にかかりたいのです、という女の歌である。つつましい女が、身を以《もっ》て迫《せま》るような甘美なところもあり、なかなか以て棄てがたい歌である。「面隠さるる」は面隠《おもがくし》をするように自然になるという意。「玉勝間《たまかつま》逢はむといふは誰なるか逢へる時さへ面隠《おもがくし》する」(巻十二・二九一六)の例がある。「ものからに」は、「ものながらに」、「ものであるのに」の意。「路《みち》遠み来じとは知れるものからに然《し》かぞ待つらむ君が目を欲《ほ》り」(巻四・七六六)の「ものからに」も同様で、おいでにならないとは承知していますのに、それでも私はあなたをお待ちしていますという歌である。白楽天の琵琶行に、猶抱[#二]琵琶[#一]半遮[#レ]面の句がある。

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人《ひと》も無《な》き古《ふ》りにし郷《さと》にある人《ひと》を愍《めぐ》くや君《きみ》が恋《こひ》に死《し》なする 〔巻十一・二五六〇〕 作者不詳
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 作者不明であるが、旧都にでもなったところに残り住んでいる女から、京にいる男にでも遣った歌のように受取れる。もう寂しくなって人も余り居らないこの旧都に残って居ります私に、可哀《かあい》そうにも恋死をさせるおつもりですか、とでもいうのであろう。「めぐし」は、「妻子《めこ》見ればめぐし愛《うつく》し」(巻五・八〇〇)、「妻子《めこ》見ればかなしくめぐし」(巻十八・四一〇六)等の「めぐし」は愛情の切なことをあらわしているが、「今日のみはめぐしもな見そ言も咎むな」(巻九・一七五九)、「こころぐしめぐしもなしに」(巻十七・三九七八)の「めぐし」は、むごくも可哀想にもの意で前と意味が違う、その意味は此処でも使っている。語原的にはこの方が本義で、心ぐし、目ぐしの「ぐし」も皆同じく、「目ぐし」は、目に苦しいまでに附くことから来たものであろうか。結句従来シナセムであったのを、新考でシナスルと訓んだ。

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偽《いつはり》も似《に》つきてぞする何時《いつ》よりか見《み》ぬ人《ひと》恋《こ》ふに人《ひと》の死《しに》せし 〔巻十一・二五七二〕 作者不詳
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 一首の意。嘘をおっしゃるのも、いい加減になさいまし、まだ一度もお逢いしたことがないのに、こがれ死《じに》するなどとおっしゃる筈《はず》はないでしょう。何時の世の中にまだ見ぬ恋に死んだ人が居りますか、というような意味のことを、こういう簡潔な古語でいいあらわしているのは実に驚くべきである。「偽《いつはり》も似つきてぞする」は、偽をいうにも幾らか事実に似ているようにすべきだ、余り出鱈目《でたらめ》の偽では困る、というようなことを、斯う簡潔にいうので日本語の好いところが遺憾なく出ているのである。一首全体が、きびきびとした女の語気から成り皮肉のような言葉のうちに男に寄ろうとする親密の心をも含めて、まことに珍しい歌の一つである。結句、古鈔本中、ヒトノシニスルの訓あり、略解《りゃくげ》でヒトノシニセシと訓《よ》んだ。第四句コフルニ(沢潟《おもだか》)の訓がある。

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早《はや》行《ゆ》きて何時《いつ》しか君《きみ》を相《あひ》見《み》むと念《おも》ひし情《こころ》今《いま》ぞ和《な》ぎぬる 〔巻十一・二五七九〕 作者不詳
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 いそいで行って、一時もはやくお前に逢いたいとおもっていたのだったが、こうしてお前を見るとやっと心が落着いた、というのだろうが、「君」を男とすると、解釈が少し不自然になるから、やはり此歌は、男が女に向って「君」と呼んだことに解する方が好いだろう。私は、「今ぞ和ぎぬる」という句に非常に感動してこの歌を選んだ。このナギヌルの訓は従来からそうであるが、嘉暦《かりゃく》本にはイマゾユキヌルと訓んでいる。「あが念《も》へる情《こころ》和《な》ぐやと、早く来て見むとおもひて」(巻十五・三六二七)、「相見ては須臾《しま》しく恋は和《な》ぎむかとおもへど弥々《いよよ》恋ひまさりけり」(巻四・七五三)、「見る毎に情《こころ》和ぎむと、繁山《しげやま》の谿《たに》べに生《お》ふる、山吹を屋戸《やど》に引植ゑて」(巻十九・四一八五)、「天《あま》ざかる鄙《ひな》とも著《しる》く許多《ここだ》くもしげき恋かも和《な》ぐる日もなく」(巻十七・四〇一九)等の例に見るごとく、加行上二段に活用する動詞である。

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面形《おもがた》の忘《わす》るとならばあぢ[#「ぢ」に「イづ」の注記]きなく男《をのこ》じものや恋《こ》ひつつ居《を》らむ 〔巻十一・二五八〇〕 作者不詳
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 あの女の顔貌《かおかたち》が忘られてしまうものなら、男子たるおれが、こんなに甲斐《かい》ない恋に苦しんで居ることは無いのだが、どうしてもあの顔を忘れることが出来ぬ、というのである。「男じもの」の「じもの」は「何々の如《ごと》きもの」というので、「鹿《しし》じもの」は鹿の如きもの、でつまりは、鹿たるものとなるから、「男《をのこ》じもの」は、男の如きもの、男らしきもの、男子たるもの、男子として、大丈夫たるもの等の言葉に訳することも出来るのである。結句の「居らむ」は形は未来形だが、疑問があり詠歎に落着く語調である。この歌の真率であわれな点が私の心を牽《ひ》いたので選んで置いた。単に民謡的に安易に歌い去っていない個的なところのある歌である。それから、「面形《おもがた》」云々という用語も注意すべきであるが、これは、「面形《おもがた》の忘れむ時《しだ》は大野《おほぬ》ろに棚引く雲を見つつ偲《しぬ》ばむ」(巻十四・三五二〇)という歌もあり、一しょにして味うことが出来る。

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あぢ[#「ぢ」に「イづ」の注記]き無《な》く何《なに》の枉言《たはこと》いま更《さら》に小童言《わらはごと》する老人《おいびと》にして 〔巻十一・二五八二〕 作者不詳
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 枉言はマガコトと訓《よ》んでいたが、略解で狂言としてタハコトと訓んだ。一首は、何という愚《おろか》な戯痴《たわけ》たことを俺《おれ》は云ったものか、この老人が年甲斐《としがい》もなく、今更小供等のような真似《まね》をして、というので、それでも、あの女が恋しくて堪えられないという意があるのである。これは女に対《むか》って恋情を打明けたのちに、老体を顧《かえり》みた趣の歌だが、初句に、「あぢきなく」とあるから、遂げられない恋の苦痛が一番強く来ていることが分かる。これは老人の恋でまことに珍らしいものである。「あぢきなく」は「あづきなく」ともいい、「なかなかに黙《もだ》もあらましをあぢきなく相見|始《そ》めても吾は恋ふるか」(巻十二・二八九九)の例がある。実に甲斐のない、まことにつまらないという程の語である。「わらは」は童男童女いずれにもいい、「老人《おいびと》も女童児《をみなわらは》も、其《し》が願ふ心|足《だら》ひに」(巻十八・四〇九四)の例がある。
 恋愛の歌は若い男女のあいだの独占で、それゆえ寒山詩にも、老翁娶[#二]少婦[#一]、髪白婦不[#レ]耐、老婆嫁[#二]少夫[#一]、面黄夫不[#レ]愛、老翁娶[#二]老婆[#一]、一一無[#二]棄背[#一]、少婦嫁[#二]少夫[#一]、両両相憐態、とあるのだが、万葉には稀《まれ》にこういう老人の恋の歌もあるのは、人間の実際を虚偽なく詠歎したのが残っているので、賀茂真淵《かものまぶち》が、「古《いにし》への世の歌は人の真心なり」云々《うんぬん》というのは、こういうところにも触れているのである。なお万葉には、竹取《たかとりの》翁と娘子等の問答(巻十六)のほかに、石川女郎《いしかわのいらつめ》の、「古りにし嫗《おむな》にしてや斯くばかり恋にしづまむ手童《たわらは》の如《ごと》」(巻二・一二九)があり、「いそのかみ布留《ふる》の神杉《かむすぎ》神《かむ》さびて恋をも我は更にするかも」(巻十一・二四一七)、「現《うつつ》にも夢《いめ》にも吾は思《も》はざりき旧《ふ》りたる君に此処に会《あ》はむとは」(同・二六〇一)等があり、老人の恋でおもしろい。

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奥山《おくやま》の真木《まき》の板戸《いたど》を音《おと》速《はや》み妹《いも》があたりの霜《しも》の上《へ》に宿《ね》ぬ 〔巻十一・二六一六〕 作者不詳
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「音速み」は、音がひどいのでの意で、今なら音響の鋭敏などというところを、「音速み」と云っているのは旨いものである。「奥山の真木の」までは序詞。一首の意は、折角女の家まで行って板戸をたたいたが、その音が余り大きく響くので、家人に気づかれるのを怖れて、近くの霜の上に寝た、というので、民謡風のものだが、そう簡単に片付けてしまわれぬものがある。「霜の上に寝ぬ」は民謡的に誇張があり文学的ないい方である。けれどもそれをただの誇張として素通り出来ぬものを感ずるのはどういうわけであろうか。「妹ガ閨《ねや》ノ板戸ヲ開ムトスレバ、音ノ高クテ人ノ聞付ム事ヲ恐レ、サリトテ帰リモエヤラデ其アタリノ霜ノ上ニ一夜寝タルトナリ」(代匠記)の解は簡潔でよいから記して置く。新考で、「音速」を、「押し難み」だろうといったが、それは古今集ばり常識である。

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月夜《つくよ》よみ妹に逢はむと直道《ただぢ》から吾は来つれど夜ぞふけにける 〔巻十一・二六一八〕 作者不詳
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「直道」は、真直な道、まわり道しない道のこと、近道。「から」は「より」と同じで、「之乎路《しをぢ》から直越《ただこ》え来れば羽咋《はぐひ》の海朝なぎしたり船楫《ふねかぢ》もがも」(巻十七・四〇二五)、「直《ただ》に行かず此《こ》ゆ巨勢路《こせぢ》から石瀬《いはせ》踏み求《と》めぞ吾が来し恋ひて術《すべ》なみ」(巻十三・三三二〇)、「ほととぎす鳴きて過ぎにし岡傍《をかび》から秋風吹きぬよしもあらなくに」(巻十七・三九四六)などの「から」は皆「より」の意味だから、只今私等の使う「から」は既にこの頃からあったのである。この歌は、急いでまわり道もせずに来たが、それでも夜が更《ふ》けたという、そこに感慨があるのである。直接に女に愬《うった》えていない
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