》であろう、というので、叙景の歌で、こういう佳景を歌に詠んで、皇子に献じたもので、寓意などは無かろうのに、先学等は「下心《したごころ》あるべし」などと云って、寓意を「皇子の御恩光にもれしを訴るやうによみて献れるにや、さてこの作者南淵氏の人などにてありしにや」(古義)と云々しているのは、学者等の一つの迷いである。この歌は叙景歌として、しっとりと落着いて、重厚にして単純、清厳《せいげん》とも謂うべき一首の味いである。「巌には」の「には」、「降れる斑雪か」の「か」のあたりに、微《かす》かに息《いき》を休めてしずかな感情を湛《たた》え、結句の、「消え残りたる」は、迫らない静かなゆらぎを持った句で、清厳の気は大体ここに発している。
この歌は、結局原本、「削遺有」とあるので、旧訓チルナミ・タレカ・ケヅリ・ノコセルであったのを、真淵の考で、千蔭の説により、「削」は「消」だとして、フレルハダレカ・キエノコリタルと訓んだ。この真淵の訓以前は、甚だしく面倒な解釈をしていたので、無理が多くて、一首の妙味を発揮することの出来なかったものである。作者と南淵山との位置関係は、「弓削皇子ノオハシマス宮ヨリ南淵山ノマヂカク指向ヒテ見ユル」(代匠記)ところであったかとおもう。
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落《お》ちたぎち流《なが》るる水《みづ》の磐《いは》に触《ふ》り淀《よど》める淀《よど》に月《つき》の影《かげ》見《み》ゆ 〔巻九・一七一四〕 作者不詳
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芳野宮に行幸あった時の歌だが、その御代も不明だし作者もまた不明である。一首の意は、いきおいよく激《たぎ》って流れて来た水が、一旦巌石に突当って、其処に淵をなしている。その淵に月影が映っている、というので、水面の月光を現に見て居る光景だが、その水面の説明をも加えている。淵の出来ている具合と、激流との関係をも叙しているから、全体が益々《ますます》印象明瞭となった。前半を直線的に云い下したから、「淀める淀」と云って曲線的に緊《し》めている。以前この「淀める淀」という繰返しを気にしたが、或はこれが自然的な技法なのかも知れないし、それから「水の磐に触り」の「の」などもやはり、「の」が最も適切な助詞として受取るべきもののようである。結句もまた落付いていて大家の風格を持ったものである。此歌と一しょにある一首は、「滝の上の三船《みふね》の山ゆ秋津《あきつ》べに来鳴きわたるは誰《たれ》喚子鳥《よぶこどり》」(巻九・一七一三)というのだが、これも相当な作で、恐らく藤原宮時代のものであろうか。真淵などもこの二首を人麿作ではなかろうかとさえ云っているほどである。
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楽浪《ささなみ》の比良山風《ひらやまかぜ》の海《うみ》吹《ふ》けば釣《つり》する海人《あま》の袂《そで》かへる見ゆ 〔巻九・一七一五〕 柿本人麿歌集
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槐本歌一首とあるもので、槐本《えにすのもと》は柿本の誤写で人麿の作だろうという説がある。一首の意は、近江《おおみ》の楽浪《ささなみ》の比良《ひら》山を吹きおろして来る風が、湖水のうえに至ると、釣している漁夫の袖の翻るのが見える、という極く単純な内容であるが、張りある清潔音の連続で、ゆらぎの大きい点も人麿調を聯想せしめるし、人麿歌集出の歌だから、先ず人麿作と云っていいものであろう。この歌の上の句ほどの程度の、諧調音でも吾々が作るとなれば、なかなか容易のわざではない。
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泊瀬河《はつせがは》夕《ゆふ》渡《わた》り来《き》て我妹子《わぎもこ》が家《いへ》の門《かなど》に近づきにけり 〔巻九・一七七五〕 柿本人麿歌集
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舎人皇子《とねりのみこ》に献った歌二首中の一つで、人麿歌集に出でたものである。「門」をカナドと訓んだのは、「金門《かなと》にし人の来立てば」(巻九・一七三九)等の例に拠《よ》ったので、「金門《かなと》」で単に「門」という意味に使っている。一首の意味は、恋歌で、恋しい女の家に近づいた趣だが、快い調子を持って居り、伸々《のびのび》と、無理なく情感を湛えている点で、選ぶとせば選ばれる歌である。ただ舎人皇子に献った歌だというので、何か寓意を考え、「此歌モ亦下意アル歟。君ガ恩恵ヲ近ク蒙ルベキ事ハ、譬《たと》ヘバ人ノ夕去バ必ラズ逢ハムト契《ちぎ》リタラムニ、泊瀬川ノ早キ瀬ヲカラウジテ渡リ来テ其家近ク成タルガ如シトヨメル歟」(代匠記)等と詮索しがちであるが、これは何かの機に作ったもので、自分でも稍出来の好い歌だというので、皇子に献ったものででもあろうか。さすれば、普通の恋歌として味っていいわけである。泊瀬川《はつせがわ》は長谷の谿《たに》を流れ、遂に佐保川に合する川である。
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旅人《たびびと》の宿《やど》りせむ野《ぬ》に霜《しも》降《ふ》らば吾《わ》が子《こ》羽《は》ぐくめ天《あめ》の鶴群《たづむら》 〔巻九・一七九一〕 遣唐使随員の母
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天平五年夏四月、遣唐使(多治比真人広成《たじひのまひとひろなり》)の船が難波を出帆した時、随行員の一人の母親が詠んだ歌である。長歌は、「秋萩を妻|問《ど》ふ鹿《か》こそ、一子《ひとりご》に子|持《も》たりといへ、鹿児《かこ》じもの吾が独子《ひとりご》の、草枕旅にし行けば、竹珠《たかだま》を繁《しじ》に貫《ぬ》き垂り、斎戸《いはひべ》に木綿《ゆふ》取《と》り垂《し》でて、斎《いは》ひつつ吾が思ふ吾子《あこ》、真幸《まさき》くありこそ」(巻九・一七九〇)というのである。
この短歌の意は、私の一人子《ひとりご》が、遠く唐に行って宿るだろう、その野原に霜が降ったら、天の群鶴よ、翼を以て蔽《おお》うて守りくれよ、というのである。この歌の「はぐくむ」は翼で蔽うて愛撫する意だが、転じて養育することとなった。史記周本紀に、「飛鳥其翼を以て之を覆薦《ふせん》す」の例がある。「武庫の浦の入江の渚鳥《すどり》羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし」(巻十五・三五七八)、「大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみもちて行かましものを」(同・三五七九)があり、新羅《しらぎ》に行く使者等の歌だから同じような心持があらわれている。なお、「天《あま》飛ぶや雁のつばさの覆羽《おほひば》の何処《いづく》漏りてか霜の零《ふ》りけむ」(巻十・二二三八)の例がある。
母親がひとり子の遠い旅を思う心情は一とおりでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むというのは、今ならば文学的の技巧を直ぐ聯想《れんそう》するし、実際また詩的に表現しているのである。けれども当時の人々は吾々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない。それは万葉の他の歌を見ても分かるし、物に寄する歌でも、序詞のある歌でも、吾等の考えるよりももっと直接に感じつつああいう技法を取ったものに相違ない。そこで此歌でも、毫《ごう》もこだわりのない純粋な響を伝えているのである。もの云いに狐疑《こぎ》が無く不安が無く、子をおもうための願望を、ただその儘に云いあらわし得たのである。併《しか》し、歌調は天平に入ってからの他の歌とも共通し、概して分かりよくなっている。
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潮気《しほけ》たつ荒磯《ありそ》にはあれど行《ゆ》く水《みづ》の過《す》ぎにし妹《いも》が形見《かたみ》とぞ来《こ》し 〔巻九・一七九七〕 柿本人麿歌集
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「紀伊国にて作れる歌四首」という、人麿歌集出の歌があるが、その中の一首である。「行く水の」は、「過ぎ」に続く枕詞。「過ぐ」は死ぬる事である。一首の意は、潮煙の立つ荒寥《こうりょう》たるこの磯に、亡くなった妻の形見と思って来た、というのだが、句々緊張して然かも情景ともに哀感の切なるものがある。この歌は、巻一(四七)の人麿作、「真草苅る荒野にはあれど黄葉《もみぢば》の過ぎにし君が形見《かたみ》とぞ来し」というのと類似しているから、その手法傾向の類似によって、此歌も亦人麿作だろうと想像することが出来るであろう。巻二(一六二)に、「塩気《しほけ》のみ香《かを》れる国に」の例がある。
他の三首は、「黄葉《もみぢば》の過ぎにし子等と携《たづさ》はり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六)、「古に妹と吾が見しぬばたまの黒牛潟《くろうしがた》を見ればさぶしも」(同・一七九八)、「玉津島《たまつしま》磯の浦回《うらみ》の真砂《まさご》にも染《にほ》ひて行かな妹が触りけむ」(同・一七九九)というので、いずれも哀深いものである。
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巻第十
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ひさかたの天《あめ》の香具山《かぐやま》このゆふべ霞《かすみ》たなびく春《はる》立《た》つらしも 〔巻十・一八一二〕 柿本人麿歌集
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春雑歌、人麿歌集所出である。この歌は、香具山を遠望したような趣である。少くも歌調からいえば遠望であるが、香具山は低い山だし、実際は割合に近いところ、藤原京あたりから眺めたのであったかも知れない。併し一首全体は伸々としてもっと遠い感じだから、現代の人はそういう具合にして味ってかまわぬ。それから、「この夕べ」とことわっているから、はじめて霞がかかった、はじめて霞が注意せられた趣である。春立つというのは暦の上の立春というのよりも、春が来るというように解していいだろう。
この歌は或は人麿自身の作かも知れない。人麿の作とすれば少し楽に作っているようだが、極めて自然で、佶屈《きっくつ》でなく、人心を引入れるところがあるので、有名にもなり、後世の歌の本歌ともなった。併しこの歌は未だ実質的で写生の歌だが、万葉集で既にこの歌を模倣したらしい形跡の歌も見つかるのである。
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子等《こら》が名《な》に懸《か》けのよろしき朝妻《あさづま》の片山《かたやま》ぎしに霞《かすみ》たなびく 〔巻十・一八一八〕 柿本人麿歌集
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人麿歌集出。朝妻山は、大和南葛城郡葛城村大字朝妻にある山で、金剛山の手前の低い山である。「片山ぎし」は、その朝妻山の麓《ふもと》で、一方は平地に接しているところである。「子等が名に懸けのよろしき」までは序詞の形式だが、朝妻という山の名は、いかにも好い、なつかしい名の山だというので、この序詞は単に口調の上ばかりのものではないだろう。この歌も一気に詠んでいるようで、ゆらぎのあるのは或は人麿的だと謂《い》っていいだろう。気持のよい、人をして苦を聯想せしめない種類のもので、やはり万葉集の歌の一特質をなしているものである。
この歌と一しょに、「巻向の檜原《ひはら》に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも」(巻十・一八一三)というのがある。これは、上半を序詞とした恋愛の歌だが、やはり巻向の檜原を常に見ている人の趣向で、ただ口の先の技巧ではないようである。それが、「おほ」という、一方は霞がほんのりとかかっていること、一方はおろそかに思うということの両方に掛けたので、此歌も歌調がいかにも好く棄てがたいのであるから、此処《ここ》に置いて味《あじわ》うことにした。
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春霞《はるがすみ》ながるるなべに青柳《あをやぎ》の枝《えだ》くひもちて鶯《うぐひす》鳴《な》くも 〔巻十・一八二一〕 作者不詳
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春雑歌、作者不詳。春霞が棚引きわたるにつれて、鶯が青柳の枝をくわえながら鳴いているというので、春の霞と、萌《も》えそめる青柳と、鶯の声とであるが、鶯が青柳をくわえるように感じて、その儘こうあらわしたものであろうが、まことに好い感じで、細かい詮議《せんぎ》の立入る必要の無いほどな歌である。併し、少し詮議するなら、はやく
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