死去したのであろう。此一首は天平十年冬、橘宿禰奈良麿《たちばなのすくねならまろ》の邸で宴をした時諸人が競《きそ》うて歌を詠《よ》んだ。皆|黄葉《もみじ》を内容としているが書持の歌い方が稍《やや》趣《おもむき》を異《こと》にし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく写象を心に浮べて、「今夜《こよひ》もか浮びゆくらむ」と詠歎している。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない穉拙《ちせつ》のようなところがあって、何時《いつ》か私の心を牽《ひ》いたものだが、今読んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておもしろい。また所謂《いわゆる》万葉的|常套《じょうとう》を脱しているのも注意せらるべく、万葉末期の、次の時代への移行型のようなものかも知れぬが、そういう種類の一つとして私は愛惜《あいせき》している。そして天平十年が家持《やかもち》二十一歳だとせば、書持はまだ二十歳にならぬ頃に作った歌ということになる。
書持の兄、家持が天平勝宝二年に作った歌に、「夜くだちに寝覚《ねさ》めて居れば河瀬《かはせ》尋《と》め情《こころ》もしぬに鳴く千鳥かも」(巻十九・四一四六)というのがある。この「河瀬尋め」あたりの観照の具合に、「浮びゆくらむ」と似たところがあるのは、この一群歌人相互の影響によって発育した歌境だかも知れない。
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大口《おほくち》の真神《まがみ》の原《はら》に降《ふ》る雪《ゆき》はいたくな降《ふ》りそ家《いへ》もあらなくに 〔巻八・一六三六〕 舎人娘子
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舎人娘子《とねりのおとめ》の雪の歌である。舎人娘子の伝は未詳であるが、巻二(一一八)に舎人皇子《とねりのみこ》に和《こた》え奉った歌があり、大宝二年の持統天皇|参河《みかわ》行幸従駕の作、「丈夫《ますらを》が猟矢《さつや》たばさみ立ち向ひ射る的形《まとかた》は見るにさやけし」(巻一・六一)があるから、持統天皇に仕えた宮女でもあろうか。真神《まがみ》の原は高市郡飛鳥にあった原で、「大口の」は、狼(真神)の口が大きいので、真神の枕詞とした。
この歌は、独詠歌というよりも誰かに贈った歌の如くである。そして、持統天皇|従駕《じゅうが》作の如くに、儀容を張らずに、ありの儘に詠んでいて、贈った対者に対する親愛の情のあらわれている可憐な歌である。「家もあらなくに」の結句ある歌は既に記した。
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沫雪《あわゆき》のほどろほどろに零《ふ》り重《し》けば平城《なら》の京師《みやこ》し念《おも》ほゆるかも 〔巻八・一六三九〕 大伴旅人
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大伴旅人《おおとものたびと》が筑紫太宰府にいて、雪の降った日に京《みやこ》を憶《おも》った歌である。「ほどろほどろ」は、沫雪《あわゆき》の降った形容だろうが、沫雪は降っても消え易く、重量感からいえば軽い感じである。厳冬の雪のように固着の感じの反対で消え易い感じである。そういう雪を、ハダレといい、副詞にしてハダラニともいい、ホドロニと転じたものであろうか。「夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり」(巻十・二三一八)とあって、一に云う、「庭もほどろに雪ぞ降りたる」とあるから、「はだらに」、「ほどろに」同義に使ったもののようである。また、「吾背子を今か今かと出で見れば沫雪ふれり庭もほどろに」(同・二三二三)とあり、軽く消え易いように降るので、分量の問題でなく感じの問題であるようにおもえる。沫雪は消え易いけれども、降る時には勢いづいて降る。そこで、旅人の此歌も、「ほどろほどろに」と繰返しているのは、旅人はそう感じて繰返したのであろうから、分量の少い、薄く降るという解釈とは合わぬのである。特に「零り重《し》けば」であるから、単に「薄い雪」をハダレというのでは解釈がつかない。また、「はだれ降りおほひ消《け》なばかも」(同・二三三七)の例も、薄く降るというよりも盛に降る心持である。そこで、ハダレは繊細に柔かに降り積る雪のことで、ホドロホドロニは、そういう柔かい感じの雪が、勢いづいて降るということになりはしないか。ホドロホドロと繰返したのは旅人のこの一首のみで、模倣せられずにしまった。
この一首は、前にあった旅人の歌同様、線の太い、直線的な歌いぶりであるが、感慨が浮調子《うわちょうし》でなく真面目《まじめ》な歌いぶりである。細かく顫《ふる》う哀韻を聴き得ないのは、憶良《おくら》などの歌もそうだが、この一団の歌人の一つの傾向と看做《みな》し得るであろう。
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吾背子《わがせこ》と二人《ふたり》見《み》ませば幾許《いくばく》かこの零《ふ》る雪《ゆき》の懽《うれ》しからまし 〔巻八・一六五八〕 光明皇后
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藤皇后《とうこうごう》(光明《こうみょう》皇后)が聖武天皇に奉られた御歌である。皇后は藤原|不比等《ふひと》の女、神亀元年二月聖武天皇夫人。ついで、天平元年八月皇后とならせたまい、天平宝字四年六月崩御せられた。御年六十。この美しく降った雪を、若しお二人で眺めることが叶《かな》いましたならば、どんなにかお懽《うれ》しいことでございましょう、というのである。斯《か》く尋常に、御おもいの儘、御会話の儘を伝えているのはまことに不思議なほどである。特に結びの、「懽《うれ》しからまし」の如き御言葉を、皇后の御生涯と照らしあわせつつ味い得るということの、多幸を私等はおもわねばならぬのである。「見ませば」は、「草枕旅ゆく君と知らませば」(巻一・六九)、「悔しかも斯く知らませば」(巻五・七九七)、「夜わたる月にあらませば」(巻十五・三六七一)等の例と同じく、マセはマシという助動詞の将然段に条件づけた云い方で、知らましせば、あらましせば、見ましせばぐらいの意であろうか。精《くわ》しいことは専門の書物にゆずる。なお「あしひきの山より来《き》せば」(巻十・二一四八)も参考になろうか。ウレシという語も、「何すとか君を厭《いと》はむ秋萩のその初花の歓《うれ》しきものを」(同・二二七三)などの用法と殆ど同じである。
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巻第九
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巨椋《おほくら》の入江《いりえ》響《とよ》むなり射部人《いめびと》の伏見《ふしみ》が田居《たゐ》に雁《かり》渡《わた》るらし 〔巻九・一六九九〕 柿本人麿歌集
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宇治河にて作れる歌二首の一つで、人麿歌集所出の歌である。巨椋《おおくら》の入江は山城久世郡の北にあり、今の巨椋《おぐら》池である。「射部人《いめびと》」は、鹿猟の時に、隠れ臥して弓を射るから、「伏」に聯《つら》ねて枕詞とした。「高山の峯のたをりに、射部《いめ》立てて猪鹿《しし》待つ如」(巻十三・三二七八)の例がある。一首の意は、いま巨椋《おおくら》の入江に大きい音が聞こえている。これは群雁が伏見の水田の方に渡ってゆく音らしい、というので、「入江|響《とよ》むなり」と、ずばりと云い切って、雁の群れ立つその羽音と鳴声とを籠《こ》めているのも古調のいいところである。そして、斯《こ》ういう使い方は万葉にも少く、普通は、鳴きとよむ、榜《こ》ぎとよむ、鳥が音とよむ等、或は「山吹の瀬の響《とよ》むなべ」(巻九・一七〇〇)、「藤江の浦に船ぞ動《とよ》める」(巻六・九三九)ぐらいの用例である。それも響、動をトヨムと訓むことにしての例である。そうして見れば、「入江響むなり」の用例は簡潔で巧《たくみ》なものだと云わねばならない。この句は旧訓ヒビクナリであったのを、代匠記で先ず注意訓をして「響ハトヨムトモ読ベシ」と云い、略解《りゃくげ》から以降こう訓むようになったのである。調べが大きく、そして何処かに鋭い響を持っているところは、或は人麿的だと謂《い》うことが出来るであろう。ついでに云うと、この歌の、「田居に」の「に」は方嚮《ほうこう》をも含んでいる用例で、「小野《をぬ》ゆ秋津に立ちわたる雲」(巻七・一三六八)、「京方《みやこべ》に立つ日近づく」(巻十七・三九九九)、「山の辺にい行く猟師《さつを》は」(巻十・二一四七)等の「に」と同じである。
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さ夜中《よなか》と夜《よ》は深《ふ》けぬらし雁《かり》が音《ね》の聞《きこ》ゆる空《そら》に月《つき》渡《わた》る見《み》ゆ 〔巻九・一七〇一〕 柿本人麿歌集
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弓削皇子《ゆげのみこ》に献《たてまつ》った歌三首中の一つで、人麿歌集所出である。一首は、もう夜が更けたと見え、雁の鳴きつつとおる空に、月も低くなりかかっている、というので、「月わたる」は、月が段々移行する趣で、傾きかかるということになる。ありの儘に淡々といい放っているのだが、決してただの淡々ではない。これも本当の日本語で日本的表現だということも出来るほどの、流暢《りゅうちょう》にしてなお弾力を失わない声調である。先学《せんがく》はこの歌にも寓意を云々《うんぬん》し、「弓削皇子にたてまつる歌なれば、をのをのふくめる心あるべし」(代匠記初稿本)、「いかで早く御恩沢を下したまへかし。と身のほどを下心に訴るならむ」(古義)等と云うが、これだけの自然観照をしているのに、寓意寓意といって、官位の事などを混入せしめるのは、歌の鑑賞の邪魔物である。
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うちたをり多武《たむ》の山霧《やまきり》しげみかも細川《ほそかは》の瀬《せ》に波《なみ》の騒《さわ》げる 〔巻九・一七〇四〕 柿本人麿歌集
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舎人皇子《とねりのみこ》に献った歌二首中の一首で、「※[#「てへん+求」、第4水準2−13−16]手折」をウチタヲリと訓むにつき未だ精確な考証はない。「打手折撓《うちたをりた》む」という意から、同音の、「多武《たむ》」に続けた。多武峰は高市郡にある、今の塔の峯、談山《たんざん》神社のある談山《たんざん》である。細川は飛鳥川の支流、多武峰の西にあって、細川村と南淵村の間を過ぎて飛鳥川に注いでいる。一首の意は、多武の峰に雲霧しげく風が起って居るのか、細川の瀬に波が立って音が高い、というのである。
こういう自然観入は、既に、「弓月《ゆつき》が岳に雲たちわたる」の歌でも云った如く、余程鋭敏に感じたものと見える。そして人麿歌集所出の歌だから、恐らく人麿の作であろう。なおこの歌の傍に、「ぬばたまの夜霧《よぎり》は立ちぬ衣手《ころもで》を高屋《たかや》の上に棚引くまでに」(巻九・一七〇六)という舎人皇子の御歌がある。「衣手を」を、枕詞として「たか」に続けたのは、タク(カカグ)という意だろうという説がある。高屋は地名であろうが、その存在は未詳である。この御歌の調べ高いのは、やはり時代的関係で人麿などを中心とする交流のためだかも知れない。この歌にも寓意を考え、「此歌上句ハ佞人《ねいじん》ナドノ官ニ在テ君ノ明ヲクラマシテ恩光ヲ隔ルニ喩《たと》へ、下句ハソレニ依テ細民ノ所ヲ得ザルヲ喩フル歟」(代匠記)等というが、こういう解釈の必要は毫も無い。
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御食《みけ》むかふ南淵山《みなぶちやま》の巌《いはほ》には落《ふ》れる斑雪《はだれ》か消《き》え残《のこ》りたる 〔巻九・一七〇九〕 柿本人麿歌集
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弓削皇子《ゆげのみこ》に献った歌一首という題があり、人麿歌集所出の歌である。「御食《みけ》むかふ」は、御食《みけ》に供える物の名に冠らせる詞で、此処の南淵山《みなぶちやま》に冠らせたのは、蜷貝《みながい》か、御魚《みな》かのミナの音に依《よ》ってであろう。当時は蜷貝を食用としたから、こういう枕詞が出来たものである。南淵山は高市郡高市村字冬野から稲淵にかけた山である。
一首の意は、南淵山を見ると、巌の上に雪が残っておる、これは先《さき》ごろ降った春の斑雪《はだれ
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